FF編 第一章



  とうとう帝国学園で過ごす最後の日が訪れた。

 春休みを目前とした学期末も迫る日……、転校手続きや引っ越しの準備もあり、[#dn=1#]は他の生徒より数日前倒しで休みに入ることになっている。だから、鬼道に会えるのもきっと今日が最後だと思っていた。

 それなのに、この日に限って一向に鬼道の姿を学園内で見かけなかった。

 これまで二人の逢瀬は秘密の場所で行われたとはいえ、学内で顔を合わせていなかったわけではない。

 登校時や昼休みに廊下ですれ違うなどはあったし、そのたびに鬼道は言葉短くとも声を掛けてくれた。あの場所で待っている、と。今日に限って一度も会えないなんて……。

 あの場所で彼を待つべきだろうか、しかし今日に限って彼からの呼び出しもない。鬼道は忙しい人だ、ほとんど毎日どんなに短くとも[#dn=1#]との時間を作ってくれたとはいえ、もちろん鬼道が忙しくて[#dn=1#]を呼ばない日だってあった。今日あの場所で待っていても鬼道は現れないかもしれない。

 いつもならば、身の程を弁えて鬼道を待てる。自分の方から鬼道を探しに行くことなどしない。けれど、[#dn=1#]は今日を逃すわけにはいかなかった。

 今日が最後なのだ、だから少しでも彼に会いたい。きちんと気持ちを伝えてお別れをしたい……、手段を選んではいられなかった。

 仕方なしに[#dn=1#]はサッカーグラウンドへ通じる通路へ向かうことにした。鬼道と初めて出会ったあの場所に。

 影に身をひそめ、[#dn=1#]はサッカーグラウンドの様子を伺った。絶対的な存在感を放つ赤いマントの彼の姿はない。練習にはまだ来ていないようだった。

 しかしサッカー部のキャプテンである鬼道が、練習に参加しないはずもない。待っていればそのうちここを通るはずだ。そう考えて[#dn=1#]は鬼道を待つ。そして待つことしばらく、鬼道が通路に姿を現した。

「鬼道さん……!」

 グラウンドへ向かう彼の名を[#dn=1#]は呼び止める。鬼道は[#dn=1#]の声に足を止め、[#dn=1#]の姿をその目に捉えて酷く驚いた顔をした。

 鬼道は[#dn=1#]を連れ、一度通路入口まで引き返す。そして周囲を見回すと低い声で彼女に問いかけた。

「お前……、どうしてここへ来た? 今日は総帥がいるんだ、早く帰れ」

 いつになく冷たい、そっけない声色で鬼道が[#dn=1#]に言い放った。ビク、と[#dn=1#]は肩を震わせる。

 鬼道に向けられたことのない感情を向けられ、臆する気持ちが胸に込み上げた。初めてここへ来た時だって鬼道は[#dn=1#]を咎めなかった。むしろ[#dn=1#]を歓迎してくれたとすら記憶している。

 総帥がいるからか。帝国学園の理事長でありサッカー部の顧問を務める影山総帥はこの帝国学園を統べる人だ。鬼道にとっても絶対的な人であることは[#dn=1#]でも知っていた。

 確かに初めて会った時も鬼道は総帥がいないからと言っていた……。

 理由があって彼が自分を追い返そうとしていることは分かっている。だが[#dn=1#]はここで食い下がるわけにもいかなかった。

「分かりました。でも鬼道さん、少しだけお話したいことがあるんです」
「俺は忙しいんだ、早く行け」

 聞く耳を持たずに鬼道は[#dn=1#]を遠ざけようとする。今日に限って彼は[#dn=1#]と目を合わせようとしなかった。いつもとは別人のような鬼道の態度に[#dn=1#]の胸は痛む。

 ……迷惑だなんてことは理解している。けれど今日しかない。今日言わなければきっと後悔することになる。今を逃せばもう二度と鬼道に気持ちを伝えることはできないかもしれない。

 それだけは、絶対に嫌だった。

「お時間は取らせません。鬼道さん、私……。鬼道さんのことが好きです」

 焦りのせいで[#dn=1#]の口からまず飛び出したのは鬼道への想いだった。

 本当はもっと順序だてて話をするはずだった。転校することになって会えるのはきっと今日が最後になること。鬼道へのこれまでの感謝を伝えたうえで、自分の想いを告白するつもりだった。

 しかし手短に、と思うあまり気持ちが先行して[#dn=1#]は思いつく言葉を口にしていく。

「初めて声をかけてくださった時からずっと、鬼道さんをお慕いしていました」
「……」

 ゴーグル越しに鬼道が目を丸くしているのが見て取れた。

「鬼道さんが見ていてくださったから私、ずっと走ってこれて……。あの、私」

 伝えたいことがたくさんあった。何から話していいか分からない。顔がほてって熱い。緊張でまとまらない思考の中、それでも[#dn=1#]は精いっぱい言葉を紡ごうとする。

 鬼道は[#dn=1#]の言葉を聞いていた。彼の表情は初め、隠しきれない驚きを浮かべたが一瞬苦渋を滲ませた顔をした。思いを告げるのに必死で、[#dn=1#]はそれに気が付かなかったかもしれない……。

「……だから、なんだ?」
「え……?」

 次にちゃんと[#dn=1#]が鬼道の顔を直視できたとき、鬼道は笑っていた。しかし、それは[#dn=1#]にこれまで向けられ続けていた優しく温かな笑みではない。

 氷のように冷ややかだと思った。まるで[#dn=1#]を蔑むような。鬼道は腕を組みながら冷淡に[#dn=1#]を見つめ、抑揚のない声で[#dn=1#]の想いに対する答えを吐く。

「……好きだから、俺に恋愛ごっこにでも付き合えと? お前なんかのために?」

 想像もしていなかった答えだった。衝撃的な言葉に[#dn=1#]を狼狽える。熱を持っていた身体が急速に冷え、足は頼りなく震え始める。

「そういうつもりでは……、わたしは、ただ……」

 あなたのことを心から慕っていると知ってほしかっただけ。あなたがいたから、どんなときでも頑張ってこれたのだと感謝を伝えたかっただけだ。

 上手く声が出ない。ガラスに亀裂が入るように[#dn=1#]の心は痛みに割れてしまいそうだった。目の前にいるのが想い慕った鬼道有人だとは信じたくない。

「だったらなんだ? 片想いのヒロインでも気取っているのか。お前の自己満足になぜ俺が付き合わなければならない」

 この帝国学園の中で誰よりも温かく穏やかで、聡明で優しい人。彼はこの学園で唯一の[#dn=1#]の理解者だった。[#dn=1#]を肯定し、どんなときも[#dn=1#]の気持ちを尊重して寄り添ってくれたのが鬼道だった。

「妙な勘違いでもしているのか。身の程くらいちゃんと弁えておけ。……悪いが俺は、お前なんかに興味はない。欠片ほどもな……」
「……っ」
「分かったら帰れ、練習の邪魔だ。」

 [#dn=1#]は呼吸するのもままならず、胸元を握ってやっとの思いで息を吐く。鬼道からの否定の言葉は世界全てを絶望に塗り替えてしまったようだった。視界は暗く、鬼道がどんな顔をしているのかもよく見えない。

「俺はお前なんかより、サッカーの方が大事なんだ」

 とどめは強い拒絶と否定の言葉だった。世界が壊れた音がする。

 あなたは私の救世主だった。これまでの優しく温かった日々はすべて嘘だった。……あなただけを信じていたのに。

 他の誰に疎まれたって無視されたってどうでもよかった。あなたが私を見ていてくれたから。

 あなたに近づくことで身分不相応な振る舞いだと、周囲から嫌われても蔑まれても構わなかった。……鬼道さんだけは私を理解して、私の存在を肯定していてくれたからだ。

 ――――あなたにだけは、そんなこと言われたくなかった。

「っ……!」

 身体が勝手に動いてしまっていた。パンと乾いた音が人気のない廊下に響く。ジンとした痺れが手のひらに残っていて[#dn=1#]は我に返る。

 目の前に立つ鬼道の手が、ゆっくりと赤くなった彼自身の頬へと伸びる。何をしてしまったのかは明白だった。

「ごめんなさい……」

 力の入らない手を握り締めて[#dn=1#]は俯く。……こんなことをしてはいけなかったのに。

 鬼道の気持ちが向いていないことは当然だ。そこまで烏滸がましいことを考えてはいない。だが全身全霊を尽くした思いだった。帝国学園での生活において、過言ではなく鬼道こそが[#dn=1#]のすべてだった。

 その彼に想いも存在もサッカー以下だと。否定され平気でいられるほど[#dn=1#]は強いわけでも、鬼道へ抱いていた気持ちが軽いわけでもなかった。

 覚束ないまま[#dn=1#]は鬼道に背を向けて別れの言葉を告げる。こんな結末にしたかったわけじゃない……。しかしせめて、弱い姿は見せまいと[#dn=1#]は気丈に振る舞った。

「大切な練習の邪魔をして申し訳ありませんでした」

 逃げるように駆け出し、彼女は鬼道を置いてこの場を去る。平手打ちをしたときに落としてしまった手帳の存在と彼女を見つめる鬼道の視線に気が付かないまま。

 走って走って、鬼道からできる限り遠ざかりたいと思っていたのに[#dn=1#]が逃げ込んだのは彼が与えてくれた秘密の場所であった。

 この学園内で他に[#dn=1#]が向かえるところはない、鬼道が秘密を明かしてくれたこの場所だけが[#dn=1#]の唯一の居場所だった。鬼道だけが[#dn=1#]の居場所だった。

 サッカー部の練習が一望できる、鬼道と[#dn=1#]だけが知るこの場所。出会ったばかりの頃、練習がみたいならと彼がここに連れてきてくれた。

「……うぅ……っ、ぐす……」

 とめどなく目から零れてしまう涙を拭っても、次から次へと頬が濡れていく。はりさけそうなほど胸が痛い。

 彼の[#dn=1#]の心を踏みにじる言葉に深く傷ついた。人から向けられた言葉でこんなに深い絶望に落ちたことはなかった。

 しかし自分に鬼道を批判することはできないと[#dn=1#]は思っていた。すべては彼の言う通りで、そもそも鬼道ほどの人が自分に目を掛けてくれているなどと幻想を抱く方が浅はかだったのだ。

 勝手に気持ちを伝えて、フラれて逆上しているだけ。彼からすればどんなに身勝手なことだろう……。

 だけど……、何を言われても私は気持ちを捨てられない。鬼道さんは私のすべてだった。

 彼のためにこの一年を過ごしてきた。鬼道さんがくれた言葉が私を支え続けてくれた。あれをすべて嘘だったなんて、簡単な言葉ではやはり片づけたくない。

 ……それに彼は、私の存在と想いは否定したけれど、努力までは否定しなかった。

 この期に及んで何を考えているのだろう。そう思いながらも[#dn=1#]はかつて鬼道が掛けてくれた言葉を思い出す。

 お前とここで過ごせる時間は、俺にとって重要でかけがえのないものだ。

 この言葉も偽りだったのかもしれないと思いながら、[#dn=1#]は鬼道に支えられてきた膨大な日々を思う。

 どんなに拒絶し、否定されても。[#dn=1#]は鬼道への想いを捨てることはできなかった。
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