FF編 第一章
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今からさかのぼって丁度一年ほど前のことになる。花織が彼と出会ったのは、帝国学園に入学して間もないころのことだった。
超名門の帝国学園、特に学力とサッカーにおいては全国ナンバーワンを誇っている学校であった。花織が進学先に帝国学園を選んだことにあまり大きな意味はなかった。
俗にいう記念受験、というやつだ。当時家が近く、受験資格があったから受験してみた。その程度の理由に過ぎない。そして晴れて合格に至って彼女は帝国学園に進学したのだった。
彼女の両親は大いに娘に経験を積んでほしいと願う人たちで、せっかく合格したのなら帝国学園で実力を試しなさいと花織を励ました。実際、花織は帝国に入学できるほどの学力があるのは証明されている。
だが、現実を思い知るのも早かった。
一般的に見れば優秀とはいえ、上は見上げれば果て無い。入学直後の花織の成績は下から数えた方が随分と早かった。
完全実力主義の帝国においては成績が直接スクールカーストに比例すると言ってもいい。成績が振るわない花織は確立した上下関係にどんどん委縮して消極的になっていった。
教師からの印象も極めて薄い。笑い合う友などおらず、背を丸めて縮こまることも増えた。長い黒髪が俯く花織を酷く野暮ったくみせ、それがまた再び彼女に対し取っつきにくい印象を植え付けた。入学早々、彼女は孤独に身を置きつつあった。
しかし、花織が閉塞的な学園生活の中で気を休めることができる時間があった。
走ること、それが花織が唯一学園内のしがらみから逃れる手段だった。走っている間だけは花織はどこまでも自由になることができた。
サッカー絶対主義の帝国学園において陸上部は肩身が狭く、入部当時ですら部員も三年生の数名しかいなかった。不遇な状況下にはあったが、それでも花織は走ることさえできればなんだってよかった。
その日々のさなかに、花織は彼と出会う。
あの日、花織は授業が終わった後、共有グラウンドへの道を急いでいた。レベルの高い授業に翻弄されすっかり疲弊していたが、それでも一刻も早く走りたいとそればかりが彼女を突き動かしていた。授業が終わるのが遅れ、部活動の時間が大幅に押していたから猶更だった。
理由はそうだったはずだ。その日、花織は少しでも早くグラウンドへ向かうべく一般生徒が通ることの許されていない通路を通った。
そこを通れば彼女が使っているグラウンドへの近道になる。普段であれば通ることのない、サッカー部が活動するピッチへと続く道。
誰にも見つからないようにと花織は身をひそめながら共有グラウンドへの道を急ぐ。だが、その通路の途中でどこからともなくサッカーボールが花織の足元へと転がってきた。
花織はサッカーボールを足で止めて拾い上げる。どうしてボールが、と思ったそのとき、彼女の視界で赤いマントが翻った。
「え……?」
彼の持つ雰囲気は他の追随を許さない、王者の品格があった。赤いマントに特徴的なゴーグル、ドレッドヘア。見た目はとても個性的だったが、それ以上に絶対的なカリスマ性を放つ。
「……こんなところで何をしている」
「……!」
帝国学園にいる者なら彼の名を知らない人間はいない。大した目的意識もなく帝国学園に入学した花織でさえ彼のことを知っていた。
「鬼道、さん」
彼の名は鬼道有人。帝国学園の入学試験で主席だった、そして一年生ながらに帝国サッカー部のキャプテンを担う人物だ。
帝国が重きを置くサッカーおよび学力において頂点に立つ……、それはすなわちこの学園の生徒の中でトップに君臨するということだ。
生徒間で序列がある帝国学園において、花織のような一般生徒が鬼道に言葉を掛けることは許されていない。鬼道さんなどと馴れ馴れしい呼び方をすることもそうだ。
「ここは……、サッカー部の者以外は通れないはずだが」
ゆっくりと言葉を選びながら鬼道は花織に語りかける。もっと糾弾されるのではないかと思ったのだが……。思いのほか、鬼道は厳しい声色ではなかった。
むしろ花織はどうしてか鬼道が困惑しているように感じた。しかし……、サッカー部以外に誰もいないはずの通路に地味な女が立っていたら驚きもするかと納得した。
せめて毅然とした態度を取らなければ。おどおどするのは失礼にあたるかもしれない……。花織は鬼道を見つめて努めて高潔に微笑んだ。そしてできる限り丁寧に鬼道に頭を下げる。
「申し訳ありません。……少し、サッカー部の練習を見てみたかったものですから。練習の参考にしたくて」
正直に本当のことを言えるはずもない。花織は息を吐くように偽りを告げる。この場は嘘をついて逃れることにした。
「……」
……見透かされてしまうか、相手はあの鬼道有人だ。花織は微笑を崩さずに身構えた。だが、鬼道は花織の言葉を疑わなかったようだ。
意外そうに眉を動かして花織の言葉に口元を緩める。見たことのない鬼道の表情に花織は揺らぐ。鬼道が何故か自分を見つめて微笑みかけたのだ。
「お前の名は……、月島花織だったな」
「……え」
驚嘆し、花織は声を漏らす。思わず手にしたボールを取り落としそうになった。
まさか鬼道が自分の名前を知っているとは微塵も思わなかった。花織からしてみれば鬼道は雲の上の存在だった。そんな彼がクラスメイトですら認知の怪しい自分を知っているわけがないと思った。
「どうして、私の名前を……」
衝撃にのまれたまま、花織が鬼道に問いを返す。鬼道は表情を引き締め、落ち着いた声色で花織の質問に答えた。
「帝国一足の速い女のことを俺が覚えていないわけがないだろう」
さも当然だと言わんばかりに鬼道はそう言った。どきどきと早鐘を打つ心臓の鼓動を感じながら花織は鬼道の言葉に打ち震えていた。
初めて、この帝国学園で誰かに見つけてもらえたと思った。無に等しい存在の自分を知り、あまつさえ価値を見出してくれた。しかも鬼道ほどの人が。
「……あ、ありがとう、ございます」
胸の中にジンと熱い思いが広がっていく。鬼さ前でどんな顔をしていればいいのか分からなくなって、胸がいっぱいになるあまり込み上げてきた涙を堪えながら鬼道に頭を下げた。もう一度、顔を上げて鬼道を見つめる。
鬼道も花織に視線を向けていた。そのゴーグルの下の瞳がどのように花織を見つめているかは分からないが、花織は不思議と鬼道の視線からは温かなものが伝わる気がした。少なくとも悪意は感じられない。
遠目には厳格でむしろ高慢にすら見えていた鬼道がこの学園の誰よりも親しみを感じられると思った。
「……月島」
鬼道が花織を呼んで手を差し伸べた。その動作で花織はまだ自分が拾ったサッカーボールを返していなかったことを思い出した。
鬼道の傍へ歩み寄り、かすかに震える手で彼にサッカーボールを差し出す。……少しだけ名残惜しい気持ちがあった。
きっともう、鬼道とこうして話せる機会はない……。花織から言葉を掛けるなんて許されていない、かといって彼から言葉を掛けてくることもないだろう。
それに……、先ほどの言葉は社交辞令だったかもしれない。花織からしてみれば鬼道の言葉の一つ一つに重みがあったが……、別に生徒の名前や功績を知っていることは帝国の頂点に立つ鬼道にしてみれば当然なことなのかもしれないと思う。
……なんにせよ、鬼道さんの傍に近づけるのはきっとこれっきりだ。
そう思うとどうしてかサッカーボールから手を放したくない、と思ってしまった。己の厚かましい感情に花織は鬼道から視線を逸らして俯く。自分のワガママを彼に悟られてはいけないと固く唇を結んだ。
しかしそんな花織の想いとは裏腹に、鬼道は花織の姿をじっと見つめる。そしてボールを受け取りながら口を開いた。
「お前さえよければ……、少し練習を見ていくといい。お前が望むように練習の参考になるかは分からないが」
唐突な、思いにもよらなかった鬼道の申し出に花織は顔を上げた。隠しきれない感情が花織の表情に滲む。
「よろしいのですか……?」
「ああ……。総帥に知られれば咎められるかもしれないがな」
今日は留守だから心配ない。と鬼道が不敵に微笑んだ。
「どうする。俺と一緒に来るか」
「は、はい!」
なら来い、と鬼道は赤いマントを翻して花織の先を歩き始める。花織は慌てて鬼道の背中を追いかけるために駆け出した。まだもう少しだけ、この人の傍にいたい……。私を知ってくれたこの人の傍に。
これが彼との、月島花織と鬼道有人の出会いだった。
❀
鬼道との出会いをきっかけとして、帝国学園における花織の生活は大きく変わった。というのも、公にとは言わないがあの日を始まりにして鬼道との交流が始まったのである。花織にとって想像もしなかったことだった……。
これまで近づく気など一切なかった。そもそも身分が違うのだ、練習を見せると言ったのも気まぐれにすぎないのだと……。そう思っていたのに。
出会ったあの日、鬼道は花織に秘密を明け渡してくれた。帝国学園内で鬼道のみが知るという、サッカーグラウンドを見渡せるが、唯一他からは一切見えない場所。六畳ほどの狭い空間にベンチが二つ。正面の壁はバルコニーのように開かれている。
鬼道は花織を部屋へ招き入れ、こっちへ来いと花織を呼び正面の開かれた壁に手を掛けた。眼下にサッカーグラウンドが広がる。誰にも悟られずサッカー部の練習を見ることのできる学園内の唯一の場所だ。
「この部屋は俺がチームの練習を見て、思考研究をするための部屋だ」
その部屋のことを鬼道はパスコードと共にそう説明した。鬼道以外は誰も入ることが無いからいつでもここへ来ると良い、と。
ただ誰にもばれないように内密に、とそれだけを約束させたが……。実になんてことないことのように、容易く鬼道は花織に秘密を渡した。
「どうして私なんかにこの場所を……?」
彼の行動の意図がまったく読めなくて花織はそう尋ねた。外にはパスコードが必要な部屋だ、それも鬼道がチームを研究する上で使う部屋なのだろう。すなわち帝国学園内の鬼道の私室と言って過言ではない場所じゃないのか。
そんな場所になぜ、出会ったばかりのただの一般生徒に過ぎない花織を招き入れたのか。彼女自身に理解ができなかった。
鬼道は花織の問いかけに、一瞬狼狽えつつもこう答えた。
「お前の走りが、美しいからだ。……あのスピードと美しさ、帝国の誇りになりえるものだ」
「……!」
「だから手を貸してやりたいと思った。お前が望むなら」
その言葉は花織の心の奥に容易く触れた。甘く響く声に胸はときめく。鬼道が向けてくれた視線は花織の世界を一瞬で大きく塗り替えた。
――――もっと、鬼道さんの目に留まりたい。
明確に花織が鬼道へ憧れを抱くようになったのはこの瞬間だった。強い願いが花織の才能を開花させた。
主には努力という才脳だった。勉学にも私生活にもできる限りの力を注いだ。自分にできることならなんだってやった。鬼道の視界に入るためならどんなことだってできると思った。
そして何よりも力を入れたのは陸上だった。鬼道が目を掛けてくれ、褒めてくれた自分の走りを磨くことは何よりも惜しまなかった。
鬼道が見ていてくれた、鬼道は自分の価値を見つけてくれた。ならばもっと……、もっと。帝国の頂点に立つ彼が認めるにふさわしい走りを花織は求めた。
元々走ることは好きで、練習も嫌いではなかった。だが今のままではだめだと悟って練習時間を増やし、己の走りを記録して練習方法も独自で研究を重ねた。鬼道のために誰にも負けない美しい走りを、一番を目指し続けると決めたのだ。
三年生が引退し、もはや部ではなく個人での活動になってしまっても。
――――誰よりも速く。
積み重ねた努力は結果として現れた。下から数えた方が早かった成績は徐々に上がり始めた。教員からも一目置かれるほどに。
短距離のタイムも見る見るうちに縮まって、全国トップレベルの記録を打ち立てることができた。だがそれでも貪欲に花織は上を目指し続けた。鬼道の瞳に映るために。
憧れと尊敬はいつしか恋心へと形を変えていた。帝国学園における花織のすべては鬼道だった。
彼だけが自分を分かってくれ、見つけてくれた……。手を差し伸べてくれた。鬼道の興味と関心が得られるのならば他の何もいらないと思えた。燃え滾る炎のような恋だった。
――――少しでも彼の傍に……。
花織の願いに応えるかのように、鬼道は花織との関係をあの時限りにはしなかった。
いつでも来ていいと言われながら、花織は自ら一切鬼道との秘密の場所に近寄らなかった。あまりにもおこがましくて行けなかったのだ。しかし数日後には鬼道の方から花織を呼び出すようになった。
五日に一回、三日に一回、そして毎日の練習の終わりに……。歳月と花織の努力が重ねられるごとに花織は、その場所で鬼道と過ごす時間を増やしていった。
あの秘密の場所で二人ベンチに腰かけて話をした。鬼道はあまり自分のことを語りたがらなかったが……、それ以上に花織の話を聞きたがった。
花織が好きなもの、家族のこと、どんなに小さく些細なことまで。またある仮説に対し花織ならどのように考えるか。花織の考えを求めることも多々あった。
鬼道の話の運び方は巧みで、一度たりとも花織は鬼道に話をすることを不快に感じたことはない。……むしろ、すべて差し出したいと思いさえしていた。
話をするだけではない。言葉なく見つめ合うだけの日も、肩を寄せて座っているだけの日もあった。
鬼道と過ごす時間が、孤独な帝国学園の生活の中で花織に与えられた至福の時間だった。帝国学園の中でも鬼道の傍でだけは花織は心を許して笑うことが出来た。
時間は鬼道への恋心を花織の中に深く根付かせていった。
恋人になりたいなんてそんな傲慢なことをいうつもりはない。そもそも帝国学園では恋愛はご法度だ。ただこの場所で一緒にいられるだけで幸せだった。外で彼の隣を歩くことが許されないのは重々理解していた。
前に廊下で鬼道が花織に声をかけてくれた時、一緒にいた他のサッカー部員たちが花織を見て何か言いたげに目配せをしていたのを覚えている。大方、何故コイツがとでも思われていたのだろう。
二人きりの時間、鬼道は言葉の限りを尽くして花織を褒めそやした。彼女のたゆまぬ努力を、絹のように艷めく長い黒髪を。何よりも鬼道のために磨き続けた花織の走りを。
「月島、お前は努力家だな」
学年末考査の結果が発表された日。鬼道は花織を秘密の場所へ呼びその努力を惜しみなく賞賛した。
「陸上のタイムも伸ばし続けているだろう。お前の走りは日毎に研ぎ澄まされていく。素晴らしい練度だ」
「鬼道さん……、勿体ないお言葉です」
鬼道の言葉に花織は頬を染めて俯く。鬼道とのこの不思議な関係が続いてもうすぐ一年が経とうとしている。サッカー部の練習が終わったあとのわずかな時間、今日も彼らはベンチに寄り添って過ごしていた。
彼に与えられた肯定に歓喜しながら、花織はいじらしく恥じらった。鬼道はそれを見つつ、あからさまに眉を顰める。
「またいつもの謙遜だな。俺の言葉が信じられないか」
「そういうわけでは……!」
不服そうな鬼道の声に花織は慌てて弁明をしようと顔を上げた。見上げてみると鬼道は花織を見つめて、優しく微笑みかけていた。
「冗談だ。……お前から俺への信頼は目を見れば十分に伝わる」
そうっと慎重に、柔らかに鬼道の手が花織の頬に触れて目尻をなぞる。花織はゴーグルの奥にある鬼道の眼差しに覗き込まれますます頬を紅潮させた。
「まぁ、お前が無理をしていないかだけは心配だが……」
「このくらい……、なんて事ありません」
熱に浮かされた声で花織は鬼道に答えた。あなたのためなら、と花織は心からそう思う。言葉に出す資格はないと理解しているから口にはしないが。
鬼道の期待に応え、彼が見つめてくれるならそれに勝る幸福はない。……そう言い切れるほどに彼女は鬼道に心酔しきっていた。
それを知ってか知らずか、鬼道は花織に顔を寄せ彼女の瞳を覗き込む。緊張で息をするのも苦しいのに視線を逸らせない。
「何がお前をそんなに駆り立ててるのか……、知りたいものだな」
いつも思っていた。鬼道は自分を全て知り尽くして、見透かしているみたいだと。花織の抱く気持ちを知ったうえで、このように好意的に接するのだと。
「……なぁ、月島。俺は……」
マントがベンチと擦れて音を立てる。目尻を撫でていた手が花織のおとがいを持ち上げ、ゆっくりと顔の距離が近づいていく。
……時々、鬼道が何を考えているのか花織は分からなくなることがあった。
こんなふうに触れて期待を持たせるような行動をされると、花織は彼も自分と同じ気持ちなのでは……と思ってしまうことがある。その考えが自惚れだとは理解していても。
「いや……、すまない。なんでもない」
それを裏付けるように、鬼道は花織が彼の気持ちに確信を持つようなことはしなかった。
言葉を飲み込んで鬼道は退き、最後に花織の髪を撫でて立ち上がった。そろそろ出なければ迎えが来る、と時計を確認しつつわざとらしく呟く。
これほど時を共にしても、鬼道が何を考えているのかは図りかねている。しかし、たとえ好意は得られていなくても、自分を見つめる鬼道の眼差しに嫌悪や侮蔑はかけらもないと信じていた。
全てを理解しなくていい。このまま鬼道の傍にいられるなら、そう思っていたが転機は間もなく訪れた。
両親から引越しの日取りを決めた、学校を転校することになると告げられたのはその日のうちの事だった。
元々彼女の両親には稲妻町に家を建てたいという希望があった。小学生の頃にはそんな話があったのだから、遠くない未来に彼らの夢が実現するかもしれないとは思っていた。しかしその時には転校の可能性を花織は考えていなかった。
稲妻町から帝国学園までは距離はあるものの、都内なのだから通えない距離では無い。電車を使えばすぐだ。全国一の帝国学園となればそれくらいして通っている生徒だって少なくは無い。わざわざ名門校から転校させる理由は無いように思えた。
しかし彼女の両親は帝国に進学した花織の学力や部活に向ける努力を評価していたものの、花織の笑顔が激減したことを何より気にかけていた。
明らかに性格が内向的になり、小学生の頃は友人と遊びに行くことが多かったはずなのに中学に入ってからは一度もそんな姿を見ていない……。
好きで始めた陸上はともかくとして、まるで自分を追い込むように勉学に励む。花織の両親は帝国という環境が彼女に無理をさせていないかを危惧したのだ。
「花織はこの間の陸上の記録会でも賞を取っただろう。花織の好きな陸上をやるなら陸上にも力を入れている学校の方がいいと思うんだ。……帝国学園の理事長もそう言っておられてね、才能を伸ばすためにも、のびのびと陸上のできる学校の方がお前のためになると」
転校に戸惑う花織に彼女の父はそう言った。
「稲妻町には雷門中学がある。あそこも中々の進学校だ。それにあの学校の男子陸上部はこの間去年の夏に全国出場した一年生がいたはずだし……」
転校先の話までされてしまうと花織はもはや何も言うことができなかった。
帝国学園という環境が自分に合っていないのは花織自身にも自覚があった。両親の反論を押し切って帝国に留まる程の理由はない。鬼道が帝国にいるということ以外は。
「きっとその方がお前のためになる」
鬼道さんがいないなら私が走り続ける意味は無くなる……。そう思っていながら花織は父親の提案を飲み込んだ。好きな人がいるから転校したくないだなんてバカなことは言えなかった。
しかし転校するとなれば……、鬼道のことは心残りだった。きっともう会えなくなるだろう。だが、これまでの努力はすべて鬼道の目に留まるため、彼に恥じない人間であるために積み続けたものだ。
最後に自分の気持ちと感謝を伝えたいと思った。帝国での一年を折れずに過ごせたのは他ならぬ鬼道がいてくれたからなのだから。
決意は固め、花織は己の気持ちを帝国で過ごす最後の日に鬼道に想いを打ち明けると決めた。