FF編 第一章
時間が経てばこの陰鬱な気持ちを追い出せると、そんな浅はかなことを思えていたのはどうしてだったのか。さらに数日を重ねても[#dn=1#]は一向に心を覆う暗い気持ちが晴れる気配が見えないと思った。
走ることに対して不足感を募らせて気持ちは低迷している。底の見えない渦のような気持ちに[#dn=1#]は机に突っ伏した。
先が見えないことだけが問題ではない。それ以上に、前にもまして風丸のことが気になって仕方がないことが[#dn=1#]にとって問題だった。
考えないようにしようとすればするほど、彼がいない日々が身に染みた。こんなに違うものかと思い知らされた。……だが、今になってどうすることもできない。
「おーい、[#dn=1#]。……なに、またお疲れモードなの?」
「なんかここのとこずっと元気ないな」
「マックスくん、半田くん……」
のっそりと[#dn=1#]が顔を上げると、ひらひらっと手を振るマックスと心配そうに眉根を下げた半田の姿がそこにあった。
彼らはこのところ[#dn=1#]の元気がない[#dn=1#]の様子に気が付いてはいる。しかし、[#dn=1#]が話そうとしないために特にマックスの方は深く踏み込む気は無いらしい。半田の方もどう手を付けていいのか分からずにいるようだ。……その方が助かる、と[#dn=1#]は思っていた。
「そうだ、さっき教室の外で[#dn=1#]に伝言を預かってきたんだけど。……昼休みに部室に来るようにって、三年の女子から」
「昼休み……」
「確かに伝えたからね。……ねえ半田、アレ誰?」
「え、お、俺もよく知らないけど、多分陸上部のキャプテンじゃないか、多分。見覚えはあったし……」
おそらくは陸上部のキャプテンで間違いないだろう。……呼び出された理由は見当もつかないが、転校してきたばかりの[#dn=1#]に知り合いはそう多くない。
それでも部室に呼び出されたことや三年の女子、というところから陸上部の先輩ではないかという推測にたどり着くのは簡単だ。
「ふーん。その人、超コワイ顔してたけど、[#dn=1#]なんかやらかしたの?」
「……分からない」
だが呼び出された理由まではまったく見当がつかなかった。
……頭、全然回らない。自分のことのはずなのに他人事のようにも感じた。そんなことにまで心を割いている余裕はないと[#dn=1#]は頭を抱えて俯く。
「心当たりはない、かな」
元々入部したときから関係が良いわけではない。用件が何かは知らないが、部活中はほとんど空気扱いされている[#dn=1#]にわざわざ昼休みにお呼びがかかるくらいなのだ。よほどのことなのだろう。
「素直に行かない方がいいんじゃない? せめてちゃんと用意して……」
マックスの忠告は右から左だった。視界の端、教室の窓の外に青髪が揺れるのが見えて[#dn=1#]はハッと息を呑む。
彼がこちらを振り返ってくれないかと期待した。だが、[#dn=1#]が視線を寄せた少年は[#dn=1#]の視線に振り返ることなく通り過ぎて行ってしまった。
「……」
胸が押し潰れそうに痛む。どうして今更、こんな気持ちになっているんだろう。
❀ ❀ ❀
昼休みになって[#dn=1#]は伝言に従って部室へと向かった。マックスが何やら言っていた気がするがあまり頭に入っていない。
[#dn=1#]だって行きたいわけではないが、行かない方が後々面倒なことになるのは想像に容易い。重たい足を引きずりながら目的地へ向かう。
部室の中にはキャプテンを始めた先輩たち全員がそこにいた。部室の電気をつけていないのもあるがひどく重々しい空気。むしろ殺伐としているというべきか……。[#dn=1#]に向けられた視線からは火花が散りそうだ。
[#dn=1#]は部室の戸を閉めて彼女たちの前に立つ。
「ご用件はなんでしょう、部長」
「アンタさ……、最近調子に乗ってない? そろそろ身の程を弁えてほしいんだけど」
きつく[#dn=1#]を睨んだ入山部長が刺々しい口調で言った。
「何のことだか分かりませんが」
「その態度のことを言ってるの。敬意も何も感じられない、アンタのナメた態度のことを言ってんのよあたしは」
ますます言っていることが分からない。[#dn=1#]が見つけられずに黙っていると部長は苛立ちを隠しきれずに続けた。
「ちょっと足が速いからってそれを鼻に掛けて、あたしたちを見下して満足?」
見下しているつもりはない。そう反論しかけて[#dn=1#]は口を噤んだ。
だが確かに……、上級生としての最低限の敬意を払っているのにしても、彼女たちの実力を重く見たことはないかもしれないと思った。
負けるはずがないのだからと、それが当然だと思っていた。……そういう態度を指摘されるのは、自分にも非があるだろうかと押し黙る。
「それだけじゃないわ。あんたさ、よりによって男子の方にまで迷惑かけたんでしょ」
「……なんのことですか」
だが、続いた言葉にはより理解ができなかった。男子陸上部に迷惑をかけた? さすがにそれは言いがかりだと[#dn=1#]は反論した。
男子陸上部とは少なからず交流があった……。だが、練習を邪魔したことはない。しいて言えば転入初日のエキシビジョンに参入したことが問題かもしれないが、あれには部長も了承したはずだ。
「風丸くんのことよ」
風丸、その名前が飛び出したことで[#dn=1#]の表情は強張った。
「知らないとは言わせないわ。……これだけ、噂になってるんだもの」
「……噂?」
動揺が隠しきれずに声が震える。[#dn=1#]と入山のやり取りを見ている部員たちは[#dn=1#]を見てヒソヒソと言葉を交わしている。シラ切るつもり? まさか自覚ないわけ? という言葉が断片的に[#dn=1#]の耳に届く。
だがいったい何の話か[#dn=1#]には分からなかった。噂って……。[#dn=1#]は言葉に詰まり、訳が分からないと眉を顰める。
だが、入山は[#dn=1#]のその反応が何より気に入らないようだった。目を吊り上げ、彼女は[#dn=1#]に向かって怒鳴った。
「あんたが風丸くんを傷つけたって話よ! しらばっくれるのもいい加減にして!」
その言葉を皮切りに入山は抑えが利かなくなったようだ。立て続けに[#dn=1#]に言葉をぶつける。
「男子の方のキャプテンが言ってたわ。風丸くん、この一週間くらい調子が悪いって。……あんたのせいでしょ。アンタと風丸くんが一緒に練習しなくなったのその頃だったもんね」
「……」
「みんなアンタのせいだって思ってる。アンタが真面目な風丸くんを誑かしたんだって。ベタベタ風丸くんに引っ付き回って、好き勝手振舞って! あげく足を引っ張って……!」
……そう見えたって、仕方がないかもしれない。[#dn=1#]は唇を噛んでこみ上げる気持ちを堪えた。
そんなことまで想像できていなかった……。風丸の調子を狂わせてしまう事や、周囲に噂が立つ可能性があったこと、そんなことにまで思い至らなかった。
「……」
だけど、あの時の選択は間違ってなかったはずだ。風丸の告白を受け入れなかったことは[#dn=1#]にとっての最良の判断だった。申し出を受け入れることこそ、彼女たちが言う誑かすに該当するはずだ。……だけど。
想いを告げられた日、痛みを堪えて笑いかけてくれた風丸を思い出す。
――――風丸くんの走りを乱してしまうほど、私は彼を傷つけてしまったの……?
「ねえ、いつまで黙ってんの?」
憮然とし黙り込んだ[#dn=1#]に対し、入山はしびれを切らした。つかつかと[#dn=1#]に歩み寄り胸倉を掴む。
「言い返せないってことは事実ってことでしょ」
「……」
「この、最低女」
吐き捨てた言葉と同時に鋭い痛みが[#dn=1#]の左頬を打った。一瞬何が起こったのか分からなくて[#dn=1#]は戸惑う。
ジンとした頬の痛みを感じるよりも早く、入山が[#dn=1#]の身体を突き飛ばした。[#dn=1#]は受け身を取り損ねて地面に伏した。頬に走った痛みよりも強い痛みが左足首に走った。
……いいや、もうどこが痛いかなんて分からなくなっていた。
入山は崩れ落ちた[#dn=1#]の左足を踏みつける。
「アンタなんか、走れなくなればいいのよ」
これまで聞いたことがないほど冷ややかな声色と共に入山は[#dn=1#]を見下ろしていた。彼女の表情には怒りと共に憎しみすら滲んでいる。
元より[#dn=1#]の才は彼女たちにとって目障りだった。これまでも全国を目指してなどと殊勝な気持ちで活動していた訳では無い……、だが。
[#dn=2#][#dn=1#]の走りは妬ましくなるほど抜きん出て美しかった。[#dn=1#]自身を気に入らないからこそ、潰してやりたいと思うほどに。
加えて入山が風丸に向けて抱いていた感情がますます歯止めを利かなくさせているようだった。今の彼女は容赦なく[#dn=1#]の足を砕くだろう。
「やめて! ――っ!」
慌てて足を庇おうとしたがそれよりも早く入山が[#dn=1#]の足を踏みにじった。[#dn=1#]は酷い痛みに声にならない悲鳴を上げる。足だけはやめて、と声を上げたいのに言葉が出てこない。
――――足を怪我したら、風丸くんと一緒に走れなくなる……!
瞬間、脳裏によぎった言葉は自分でも理解ができなかった。
なに……、考えてるの、私。自分が風丸を遠ざけたくせにおかしなことを。今更一緒に走るも何も……。
だがこれ以上足を傷つけられるわけにもいかない。ひとりではもう解決できないところまで深刻な事態に陥ってしまった。誰か、と助けを求めようとしたとき、またも[#dn=1#]の脳裏によぎったのは青い髪の少年だった。
――――風丸くん……っ。
この状況から自分を救いに来てくれる……、なんでそんなことを思ってしまったのか分からない。だが、風丸が助けにくることを心の底から[#dn=1#]は願った。
彼が今、この状況を知るはずもないのに。[#dn=1#]がひどい仕打ちをしたのだから、知っていたってくるはずがない。そうと分かっているのに、[#dn=1#]の心は風丸を求めてやまない。彼はいつだって私を助けてくれた……。
「……うぅ」
もう、心は誤魔化せなかった。入山の足を払って足を庇いながら痛みに身体を丸める。おそらく捻挫はしているだろう。今までの経験則で[#dn=1#]はそう判断できた。むしろその程度で済んでくれればいいがと思うくらいだ。
……いや、むしろ走れなくなった方が自分に対する制裁としてちょうどいいのかもしれないとも思った。
足の痛みには冷や汗が出るくらいだが、それ以上に心の痛みも深刻な域にあった。それは、[#dn=1#]自身が目を逸らし続けていた気持ちをとうとう直視してしまったからだった。
違うはずだと言い聞かせ続けてもこれ以上はもう無理だ。もう、自分を誤魔化しきれない。私は風丸くんに恋をしている。彼にどうしようもなく惹かれている。……他に好きな人がいる、それでも。
「ストップ!」
大きなバン、という音と共に仲裁の声が割って入った。薄闇にのまれていた部室に陽の光が差し込む。突然現れた第三者に[#dn=1#]も、入山をはじめとした他の先輩も硬直しその場に沈黙が走る。
「そこまでにしてくれない?」
この声……、聞き覚えのある声に[#dn=1#]は床に這いつくばったまま、視線を越えの方にやった。
学ランのポケットに手を突っ込んだ少年だ、ピンクと白のニット帽をかぶっている。そして、その脇から一人の少年が飛び出して[#dn=1#]の傍に駆け寄った。
「[#dn=1#]‼ 大丈夫か⁉」
半田は[#dn=1#]の上半身を抱きかかえて、[#dn=1#]を引っ張り起こそうとした。床に伏していたせいで制服は土埃で汚れてしまっている。
それなのに半田はそんなことは気にも止めていないようだった。[#dn=1#]と視線を合わせた半田はほっと安堵したように息を漏らす。
もしかすると彼は[#dn=1#]がもっとひどい目にあっていた想像をしていたのかもしれない。
「は、半田くん……、マックスくん? どうして、ここに」
「どうしてって……。キミをここに呼びだすように言ったの、そこの人だし」
あっけらかんと[#dn=1#]に言いつつも、マックスの目にはいつにない鋭さがあった。常時無気力で飄々とした雰囲気の彼に見たことのない敵意が滲んでいる。
「先輩、後輩に嫉妬したあげく、ボーリョクに訴えるなんてみっともないと思いません? ……色々聞いてますよ、噂をね」
「は、なに……? 急に入ってきてあたしらに説教するわけ? 何様のつもりよ、どうなるか分かってるんでしょうね」
全部ソイツのせいなのに、と入山が[#dn=1#]を睨みながら吐き捨てる。何だと、と食って掛かりそうになる半田を制し、マックスは肩をすくめた。
「先輩たちこそ、自分たちがどうなるか分かってますか?」
どういう意味だ、とマックスの言葉を問いただす前にまた部室に人影が現れた。教育指導担当の教諭だった。教諭はぼろぼろに汚れた[#dn=1#]の姿を見て、驚き目を剥いた。
「おい入山、これはどういうことだ?」
突然の教員の登場に陸上部の先輩たちは顔を青ざめた。マックスはその光景を見ながらふふん、と鼻で笑う。これですべて要領よく片付くはずだとそう言わんばかりの笑みだ。
[#dn=1#]が昼休みに姿を消したと分かって、この状況を想定するのはそう難しいことではない。
元々[#dn=1#]から女子陸上部の先輩方とは折り合いが悪い、と話を聞いていた。しかし、それ以上に[#dn=1#]を取り巻く噂を耳にすることも少なくはなかったのだ。
[#dn=1#]は転入生だ。優れた容姿もさることながら、入部早々陸上部の三年生にぶっちぎりで勝利する実力の持ち主となれば注目度は高くなる。彼女に関する噂は様々に飛び交っていた。
風丸の関係のことはもちろんだが、陸上部の三年生が[#dn=1#]の存在を良く思っておらず、排除したがっていることも耳に入らないわけじゃなかった。
よって、マックスは[#dn=1#]の陥っている状況を予想したうえでこの手段を取った。
暴行を受けている、というのは教諭を動かすための大袈裟さな嘘のつもりだったが、実際[#dn=1#]は怪我一つなくというわけでもない。結果的に告げ口の通りになってしまった。
半田とマックスにはあとで[#dn=1#]を保健室につれてくるようにといい、弁明を繰り返す陸上部の三年生を連れて教諭は部室を出ていった。
部室には[#dn=1#]と半田、そしてマックスの三人が残る。先ほどの大騒動から一転、部室の中には静けさが立ち込める。
沈黙を破ったのは五限目開始のチャイムの音だった。それをきっかけにマックスが動き、背をかがめて[#dn=1#]を見た。半田に身体を支えられ[#dn=1#]もなんとか床に座っている。
「[#dn=1#]、身体大丈夫か?」
「ボク、ちゃんと対策した方がいいよっていったのに」
ほら、五限目始まったし、とマックスが俯いたままの[#dn=1#]に手を差し伸べる。だが[#dn=1#]は黙り込んだまま、マックスの顔も半田の顔もみようとはしなかった。
しばらく黙った後、[#dn=1#]は消え入りそうな声で二人に問うた。
「ねえ……、二人は知ってたの? 私と風丸くんの間に何があったのか……」
さっきマックスは入山に色々噂は聞いている、と言っていた。だとしたら、彼らがこの件を知らないはずもないと思った。[#dn=1#]の言葉に顔を見合わせ、そして首を横に振った。
「さあね、色々噂は聞くけど別にホントのことかなんて分かんないし。……ま、キミと風丸が余所余所しくしてるの見てたら想像はつくけど」
「……」
「なぁ、[#dn=1#]さえよかったら、俺たちに話せないか? こんなことになったのもそれが原因なんだろ。……相談してくれたら、俺たちだって力になれるかもしれないし」
半田が[#dn=1#]の肩を支えながら優しく言葉を掛けた。話を、する……。[#dn=1#]は一瞬ためらい、唇を固く結んだ。
彼らは友人だ、だがこんな相談をしてもいいのだろうか。こんなことで悩んでいるなんて……。すべて自分が招いた結果だというのに。これまで友人関係に乏しかったための臆病さが[#dn=1#]に尻込みをさせる。
「まだ何も話さない気? ここまでボクたちを巻き込んでおいて」
「ちょっとくらい頼ってくれよ、俺たち友達だろ」
少々マックスはクセのある言い方をしたが、二人とも[#dn=1#]を心配して言葉を掛けた。
……話してみても、いいのかもしれない。二人とも[#dn=1#]のことを心から心配してくれているのは言葉と行動から伝わる。でなければ、ここに来てくれていないはずだ。
[#dn=1#]は勇気を振り絞って口を開く。そして訥々とこれまでのことを話し始めた。
風丸の余所余所しい態度に耐えかねて彼の気持ちを問いただしたこと。その結果、風丸に想いを告げられたこと。そしてその思いを拒絶し、無下にしたこと。それが今日にいたる原因となったことを。
話を聞いていた半田は理解できないとばかりに声を上げた。
「なんで風丸を振ったんだよ。この間話したときから分かってたようなもんだっただろ。[#dn=1#]は風丸が好きだって……」
「……認めたくなかったの、風丸くんが好きだってこと」
「なんでさ」
間髪入れずにマックスが先を急かす。[#dn=1#]は大きく深呼吸をして溢れ出しそうになる心を抑えつける。彼の話を人にするのは初めてだった。
そして自分がその人に抱いている気持ちを誰かに話すことも。
「好きな人がいるから。……帝国学園に」