FF編 第一章
土曜日、日曜日を挟んで[#dn=1#]が風丸の告白を受けた翌週。彼女は沈んだ面持ちで教室の扉を開けた。
あの日、溺れそうな涙にくれて家へと帰った。翌朝は酷い顔をしていたから、学校が休みであってくれて本当に良かったと思うくらいだった。
何がそんなに悲しくて苦しいのか、[#dn=1#]自身にも理解が及ばないほど心には深くダメージを負ってしまった気がした。両親はいたく[#dn=1#]を心配したが、友達とケンカしちゃってと適当なことを言って誤魔化した。
あの日の選択が正解だったのかは分からない。風丸の想いを拒絶してしまったこと……、そうすべきだったと[#dn=1#]はそう自分に言い聞かせ続ける。
「おはよう、[#dn=1#]ちゃ……」
[#dn=1#]が自分の席へと向かうと、すでに登校してきていた秋が[#dn=1#]に言葉を掛けた。秋は振り返りざまに[#dn=1#]に挨拶をしたが、しかし[#dn=1#]の姿を見て明らかに言葉を詰まらせた。秋の目は驚きに丸くなって[#dn=1#]を見つめている。
「おはよう、秋ちゃん」
「髪の毛……、切ったんだね。長かったのに結構バッサリ」
「ああ……、そうなの」
切りたかったから、と言いながら[#dn=1#]は肩のラインに揃えた髪の毛先に触れた。
秋が驚くのも無理は無い、腰のあたりまで伸びた[#dn=1#]の黒髪は彼女のチャームポイントだった。手入れの行き届いた美しい黒髪。たおやかに揺れ、走るときは風と共に流線を描く。……その髪が三十センチ以上も短くなっている。
「何かあったの……? その、切りたい理由とか」
随分と思い切りのいるイメージチェンジだったのではないかと秋は思ったようだ。[#dn=1#]は秋の言葉にぎこちなく微笑を浮かべた。
切りたかったのは髪ではなく気持ちだった。しかし気持ちを物理的に切ることはできない。だから、見える形で切れるものを心に見立てて切ることにしたのだ。形式的に気持ちを切るのだと言い聞かせれば、気持ちが少しは晴れることを期待した。
大切な髪だ、長さを保っていることには理由があったし、想いの丈を伸ばしているつもりでもあった。
それだけじゃない。結べば風丸と揃いの髪型になると言った己の発言も覚えている。走るとき、髪を結って鏡へ向かうとき……。風丸のことを意識することを避けたいと思った。
しかし、その点に関しては意味を成していない気がした。
「何かあったんじゃない……?」
[#dn=1#]の表情を見つつ、秋が慎重に言葉を掛けてきた。言葉少なく、どこか消沈した雰囲気。微笑はするけれど、どこかぎこちない表情。この最近の、良く笑う[#dn=1#]の姿ではないと秋は察していた。
「何でもないよ」
[#dn=1#]はただただ首を横に振る。触れられたくなかった。それに自業自得の胸の痛みを開示する気も[#dn=1#]にはなかった。堪えていればいつかは胸からこの気持ちを追い出せるはずだと、そう信じて彼女は口を噤んだ。
だが、想像よりも彼女自身の心は[#dn=1#]の思う通りにはなってくれなかった。
あの件があって、[#dn=1#]は風丸と完全に距離を置いていた。むしろ置かないわけにもいかなかった。彼の想いを無下にしておいて、どんな顔で風丸に話しかければよいというのだ。
以前の関係を変わりなく継続しようだとか、友達としてこれからもよろしくだとか……。風丸がそう願うのならともかく、[#dn=1#]からそんな図々しい言葉を掛けることはとてもできなかった。
あれから一度も風丸は[#dn=1#]に言葉を掛けてきていない。……当然だ、掛けたいと思うわけもないだろう。
女子陸上部の練習を終えて部室の鍵を閉める。これまでならこの後に風丸の練習が終わるのを待って……、そして二人での練習時間を設けた。転入してから毎日がそうだった。
風丸との時間が存在しないことが違和感でしかない……。まるで自分の心の中に大きな穴が開いてしまったような感覚だった。
無意識に[#dn=1#]は陸上グラウンドの方へと向かって歩き出す。まだ暮れない橙色の夕日を見上げ、そして眩しさに目を逸らす。いつも風丸と待ち合わせたベンチの方へ向かい、木の陰からこっそりと男子陸上部の練習を覗いた。
「おーい、風丸!」
陸上部の部員が彼を呼ぶ声が聞こえる。いつもと同じように風丸の姿が陸上のグラウンドにある。風になびく青い髪……、言葉までは聞き取れないけれど微かに彼の声が[#dn=1#]の耳に届く。
……胸の辺りが苦しくなって[#dn=1#]は制服のリボンに触れた。強く吹く春の風が容赦なく[#dn=1#]の首筋を冷たく撫でつける。その冷ややかさは容易に[#dn=1#]の心に空いた穴にも吹き付けた。
「……」
この数日、[#dn=1#]は走っても楽しいという感情をまったく抱けなかった。走ることは[#dn=1#]にとって食事をすることや眠ることと同じくらい習慣的に身についている。まぎれもなく生活の一部で辞めるなんて選択肢は一切ない。
……だが、こんなに空虚なものだったかと思ってしまうのだ。
走る理由がある、速くなりたい理由があって自分は目的のために走り続けている。風丸と距離があいたのだとしても、それは雷門に来た時に転入したときに戻っただけだ。
[#dn=1#]自身が望む走りが損なわれることはないはずなのに、どうしてこうも欠けてしまったように感じるのだろう。
「……」
……帰ろう。約束なんてしていない。グラウンドの傍まで駆け寄れるわけでもない。それよりも帰って練習をしないと。女子陸上部の練習だけじゃ練習量が足りないんだから。
そう思うのに走り出した彼の姿が[#dn=1#]の心を捕まえて離さない。
どうして目が離せないと思ってしまうの。ゴールラインを越え、膝に手をついて息を切らせている彼の姿にさえ、なぜこんなに後ろ髪を引かれるような思いでいるのだろう。意味が分からない。
「……」
雑念を振り払って彼の姿に[#dn=1#]は背を向ける。何だよ風丸調子悪いのかー、という声が歩き出した彼女の耳に届く。気にはなったが振り返れなかった。振り返ったって自分が風丸のためにできることなんて一つもないのだ。