FF編 第一章
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時間は上滑りに過ぎていった。昼休みに話をしてしまったこともあって、花織の頭の中は風丸の態度のことで一杯だった。払いのけたくても払いのけられない。気が付くと部活の練習時間まで終わってしまっていた。
練習に身が入っていない。胸にある焦燥感に花織は歯噛みする。大切な時間を無駄にした、今日の練習は自分の走りに向き合えていなかった。こんなこと初めてだ。練習をおざなりにしてしまうなんて……。
練習に身が入らないのは、秋や半田の言葉が頭から離れないからだ。いつもなら、走ればどんな気持ちだって振り払ってこれたのに。
『花織ちゃん、風丸くんに恋してるんじゃない?』
……私が、彼に恋を? 納得ができない、どうして秋はそう思ったんだろう。
『花織は風丸のことが……』
あの時半田は、なんて続けるつもりだったんだろう。彼もまた花織が恋をしていると言っただろうか、それとも違う感情を指摘しただろうか。……ああ、考えても分からない。
一回、考えることをやめようと花織は自分の頬を叩く。そうすることで自分の気持ちを切り替えようとした。
部活は終わりだが、この後も風丸と一緒に練習する約束をしている。自分の気持ちはどうであれ、風丸との練習の時間は大切だから損ないたくない。
「……」
髪に触れ、思考とともに花織は引き上げる先輩たちの視線を払う。
女子陸上部の先輩たちと花織の折り合いは相変わらず悪い。というよりもむしろ悪化の一途を辿っている。彼女たちの花織に対する態度は未だに冷たい。それは花織自身の能力と態度や行動もあってのことのようだった。
スプリンターとしての花織の才能は部の中でも明らかに飛び抜けている、それは転入時に明らかになっていたことだ。そして彼女はそれを鼻にかける訳では無いが当然だとしているところがあった。
彼女の態度にも己の走りに対する自信と誇りが滲む。だからこそ、先輩たちがどんなに花織を邪険にしても花織は優美に孤高を貫き続けた。そもそも帝国にいた頃はひとりだったのだから、今更陸上部の中で孤立するくらいは彼女にとって些細なことなのかもしれない。
ともかく、どれだけ陸上部の先輩たちが花織を冷遇しようとも花織は全くそれを意に介さない。心を痛めるばかりか何処吹く風といった様子なのだ。だからこそ、余計に花織が憎たらしく見えるのか。
加えて部活後に男子陸上部のエース風丸と共に練習をして、それ以上に仲良くしているのだから良くは思われないだろう。部長である入山が風丸に思いを寄せているのだとすれば間違いなく。
男子陸上部は風丸をよろしくと花織を歓迎してくれるのがせめてもの救いだ。花織は全てを他所に風丸との待ち合わせの場所へと向かう。
「風丸くん」
いつもの待ち合わせの場所で先に待っていたのは風丸だった。ベンチに座って休憩を取っていた風丸に花織は声を掛ける。ちゃんと視線があって、花織はふっと安堵に表情を和らげた。
「練習お疲れさま」
「あ、ああ……月島も、お疲れ」
だが視線が合っていたのはわずかな時間だけだった。風丸はみるみるうちに顔を赤らめると、何かに耐えかねたようにさっと目を逸らしてしまった。
「……」
……どうして、目を合わせてくれないの?
胸に走った痛みを堪えようと花織はズボンを手で握る。風丸の態度の一つが、花織の不安な気持ちを掻き立てる。
…………嫌われているの? そう考えるとずきずきと胸が痛む。でもそれなら、傷が深くならないうちにはっきりといってほしい。
恋をしていようが、いなかろうが……、風丸くんに嫌われたくない。でももし……、すでに嫌われているというなら今のうちにハッキリさせておきたい。
微かに花織は表情を歪めた。競い合える良きライバルになれる。風丸は自分と同じように、共に走ることを望んでくれている。そう信じているのに。
もし彼の言葉が偽りなのだとしたら今のうちに現実を知っていたい。自分の心のせいで彼に不快な思いをさせる前に。
「ああ、じゃあ行こうぜ」
とても、このまま先には進めない。勝手に期待を抱き、勝手に絶望するなんてことを……。もう二度と繰り返したくない。
「風丸くん!」
視線を逸らしたまま立ち上がり、グラウンドへ向かおうとする風丸の名を呼ぶ。
「月島……?」
振り返った風丸はひどく驚いた顔をしていた。それは自分を呼んだ花織の声が大きく、必死だったせいか。
あるいは風丸を見つめる花織の表情がいつになく険しかったからかもしれない。
「あの……、私、風丸くんに何かしたかな」
「え?」
「それとも迷惑だった? 私がここに来るの」
タンクトップの胸元を握り締め、感情を抑えながら花織は風丸に問いかけた。
風丸は大きく目を見開いて花織を見つめている。彼は花織の発言を理解できていないようだった。困惑を浮かべながら迷惑なんて、と小さな声で呟く。
「ど、どうしたんだよ、急に」
「だって風丸くん……、最近私と目を合わせてくれないよね。あってもすぐ逸らしちゃうし……」
「……」
「どうして急に……、私を避けようとするの」
言葉を詰まらせる風丸に追い打ちをかけ花織が質問を連ねる。これが自分の思い込みで勘違いだったら、被害妄想で言いがかりをつける頭のおかしい奴だと風丸は困惑するだろう。
……それくらいで済むなら、むしろ勘違いであってくれたらいいのに。
目頭が熱くなって涙も思いも零れそうになるのを必死に抑えつけた。不安に押しつぶされそうになりながら、それでも潤んだ瞳で風丸をまっすぐに見つめ続ける。花織は息を堪えながら思いの丈を吐き出した。
「私のことが嫌いならはっきり言ってほしいよ。……言葉にしてくれなきゃ、態度だけじゃ何が嫌だったのか分からない」
「……!」
嫌われたくない、花織はその一心だった。花織が吐露した思い、特に”嫌い”という言葉に風丸は敏感に反応した。彼は勢いに任せて口を開く。
「俺は月島を嫌いだなんて思ったことはない! むしろ好きで……っ⁉」
そこまで言ってしまったとばかりに風丸は慌てて口を噤んだ。花織は想定外だった彼の言葉に思わず固まってしまう。一瞬、何を言われたのか訳が分からなかった。
今、彼はなんて言ったの……? 好き……?
今度は花織が困惑する番だった。好き、という言葉を反芻しながら風丸の姿を瞳に映す。先ほどまでの落ち着かなかった彼の姿はもうない。
真剣な表情で彼は花織を見つめていた。その瞳には先ほどにはなかった決意が見えた。熱く注がれる眼差しに花織の胸は大きく高鳴る。目が、離せない。
「最近、気づいたんだ。俺は月島のことが好きだってことに。……初めて一緒に走ったあの日からずっと……そうだったんだと思う」
「……」
「意識するとさ、緊張して上手く話せなくて……。目も合わせられなかった。……月島を不快な気持ちにさせる気はなかったんだ。……すまない」
花織を見つめて風丸が微笑む。頬は紅潮したままだったが、もはや彼は気持ちを隠す気は一切ないようだった。真摯に花織を見つめ、純真な思いをひたすらに打ち明ける。
「もし……、もし月島さえよかったら……。俺と付き合ってほしい」
沈黙が流れた。花織は風丸を見つめたまま立ち尽くしていた。唇から吐息が漏れても言葉は何も出てこなかった。
風丸の気持ちには……、正直驚いた。想像もしていなかったから。足が地面についていないような、フワフワとした感覚の中で花織の思考だけが清明にあった。風丸の気持ちは嬉しい、心の底からそう思っている。……だけど。
――――だけど、そんなつもりじゃなかった。
「……」
何か答えなければと花織は焦る。これほど真剣に、面と向かって風丸が想いを伝えてくれたのだから、早く何か言わないといけない。だがその反面、真剣に思いを伝えてくれたからこそ適当に答えるわけにもいかないと思う。
ぐるぐると、まとまらない心に花織は混乱するばかりだ。自分が彼に抱いている感情が分からない。風丸のことは好きだ、だがそれは果たして彼と同じ”好き”なのだろうか。
彼が向けてくれているのは恋心だ。……私は? 沈黙が続く中、花織は力なく手を握りこむ。
――――私の好きな人は……。
私が、恋愛感情で好意を抱いているのは誰か。そう考えたとき、花織の脳裏に浮かぶのは風丸ではなかった。思い浮かぶのは赤いマントを翻し、微笑みを向けてくれるあの人。
気持ちなんて、ずっと前から決まっていた。
……私には恋をしている人がいる。もう一年も前から、ずっとその人に想いを抱いてきた。帝国学園の頂点に立つ彼のことを今でも心の底から想っている。
手の届かない存在だってことは初めから理解していた、だけど彼は……。いや、私の主観で見た日々は真実じゃない。
ただ事実なのは私が彼に拒絶されても、この気持ちを捨てられないってことだけ。
どんなに嫌われたって諦められない、そんな簡単な想いじゃないの。帝国を去る日に彼に掛けられた言葉を思い出しても私はそれでも彼を嫌いになれない。
彼に想いを拒絶されたあの日は絶望だった。胸は切り刻まれるように痛んだ。泣いて泣いて春休みを過ごした、だけど。
それでも諦められない。忘れられない。今でもあの人は私の……、少なくとも私が走る理由だから。
「……ごめんね」
小さな囁きが沈黙の中に溶けた。それだけで十分すぎるくらいだった。好きな人が他にいる、単純明快な答えだ。
かつての痛みを忘れるために、必要なのは新しい恋なのかもしれない。恋情でなくても風丸が好きなら、これから一緒に過ごす時間を積み重ねれば。いつか風丸の気持ちに応えられるかもしれない。
だがそんなの不誠実だ。風丸の真剣な告白に対する裏切りだと思う。
だがそれ以上に、花織の中には怯えがあった。
もし仮に風丸の期待に応えたとして……、いつの日か私が彼に拒絶されない保証はない。いつか彼に拒絶される日が来るかもしれない。
今はこうしてまっすぐに自分を見つめ、好きだと言ってくれる彼だって、心変わりをして花織に”お前なんか”と吐き捨てるかもしれない。
……想像は恐ろしかった。またそんなふうに終わってしまうかもしれないなら、初めから何も起こらない方がいいと思った。後で深く傷つくくらいなら、今のうちに遠ざけてしまっておきたい。
花織は静かに風丸から目を逸らす。花織の黒髪がさらさらと風に揺れる。
「風丸くんの気持ちには応えられない」
夜の帳の中で花織の言葉は明瞭に響いた。風丸の方を見るのが怖くて花織は目を伏せる。風に揺れる髪を抑えるふりをして顔を手で覆った。私なんかが彼の想いを無下にしたのだ、風丸は怒っているに違いないと思った。
花織が顔を上げられずにいると風丸の声が響く。
「……そうか」
しかしその声は、花織の想像を超えとても穏やかだった。恐る恐る花織は面を上げて風丸を見る。彼は花織に微笑みを向けていた。痛みをこらえるように笑っていた。何もなかった、そんなふうに取り繕った笑みだった。
多少なりと花織のせいで風丸は傷ついたはずだ。それなのに花織のために気丈に彼は笑っているのだ。
「……っ」
花織の呼吸が乱れる。酷いことをした、彼の想いを拒絶した。それなのに風丸はどこまでも優しい。
事実が花織の胸を深く突き刺す。いたくて、苦しい。だが、これでよかったはずなのだ。不誠実に彼の傍にいるよりは、絶対に。これ以上の最善はない。……なかったはずだ。
花織は自分にそう言い聞かせ、これ以上風丸を見つめることに耐えかねて彼に背を向ける。
「……今日は、もう帰るね」
それだけ言い残して花織はその場から逃げ出した。誰にも追いつかれないように走って走って、そしてもう人のいない女子陸上部の部室に飛び込む。扉を閉めるとそこが限界だった。
足から力が抜け、壁に背をつけたままずるずると床に座り込む。堪えきれず溢れ出した涙が頬を濡らす。拭っても拭っても涙が伝い落ちていく。
「……あぁ」
どうして私が泣いてるの。
苦しいのは自分じゃないはずだ。苦しいのは自分が拒絶してしまった風丸のほうだ。そうだと分かっているのに涙が止まらない。さっきの彼の表情を思い出すといっそう涙がこみ上げた。
――――傷つけたくなかった。あの人と同じ、風丸くんは私を見つけてくれたのに。
この涙は風丸を傷つけた罪悪感から来るものか、それとも同情から来るものか。私は拒絶される痛みを知っていて彼に同じ仕打ちをした。……そのくせ風丸の気持ちを分かった気になって泣くなんて……、そんな資格があるわけがない。
「……っ」
涙の中で花織は膝を抱える。喉が引きつった音を漏らす。あの場で私の言うべき言葉はなんだったのか。あの人なら最適解を教えてくれただろうか。
辛く苦しい感情が堪えられないとき、花織はある人物を想起する。……あの人も、風丸くんと同じくらい優しい人だった。終わりの日がくるまでは、ずっと。
それは帝国学園で唯一花織を見つけ、手を差し伸べてくれた。花織の孤独を和らげてくれた人。
「……鬼道さん」
勝手に口から零れた名前に花織自身も当惑した。確かに諦めきれない想いはある。鬼道有人、それが花織が今も恋心を抱く少年の名だ。
帝国学園において鬼道は花織の唯一の理解者だった。幾度となく花織を支えてくれた。けれどそれはすべて過去の話だ。拒絶されてなお、私は無意識的にあの人を求めてしまうのか。
「鬼道さん……っ」
嗚咽の中に彼の名前を混ぜてしまう。あなたがここにいてくれたら、どんな言葉を掛けてくれるだろうか。泣くなと背を撫で、涙を拭ってくれる……? あなたなら。
現実的では無いことを思う自分に虫唾が走る。いつまで追い縋って、引きずるつもりだ。もう終わった話だ。鬼道のことも、風丸のことも……。何もかもすべて終わったんだ。抱え続けることは誰のためにもならない。
泥のような気持ちが胸を蝕む。涙を拭いながら花織はよろよろと立ち上がった。もし、一思いに捨てられないっていうのなら……、せめて行動で示すところから始めなくては。
****
グラウンドに一人取り残された風丸は花織の後ろ姿を見つめて顔を覆う。追いかけるわけにはいかなかった。食い下がりたくてもできなかった。
なんとかだが、せめて笑顔を作れたはずだ。それだけでよくやったとさえ思う。重たい足を引き摺って風丸は再びベンチに腰を下ろす。
練習する気にもなれないし、帰るしかなかったが部室への道を歩くのも今は億劫だった。フラれたという事実は思いのほか重く胸に沈む。酷く惨めな気分だった。
初めて抱いた恋心だった。……失恋ってのは結構苦しいものなんだな、と他人事のように風丸は内心呟く。
口を滑らせて自分の気持ちを中途半端に口にした時、もう後には戻れないと思った。ここまで来て言わないわけにもいかなかった。嫌いだなんて思われるのは心外だったし、そう思われるくらいなら正直な気持ちを花織に知ってほしいと思った。
それに期待がなかったって言ったら嘘になるか。彼女が転入してから今日までの日々、風丸の放課後に彼女が隣にいなかった方が少なかった。
一緒に練習をして、他愛のない話をして……。肩を並べて帰って、寄り道なんかもして……。花織が明るく笑ってくれるたびに風丸も同じように笑った。胸が温かくなるのを幾度となく感じた。
俺と一緒に過ごしている月島はいつも楽しそうにしてくれていた。少なからず風丸はそう感じていた。
日を重ね、花織の笑顔が増えるたびに、彼女が自分を好きでいてくれたらと願った。もしかするとそうかもしれないと思う事すらあった。
しかし、それは夢想のまま砕け散った。風丸は自嘲する。もはや笑う事しかできなかった。終わってしまったからもう取り返せない。
花織とは距離をあけることになるだろう。少なくともこれまでみたいには一緒にいられなくなるはずだ。
今日を何もなかったみたいに友達に戻れるなら話は別だ。けど、そんな簡単な話じゃない。
今も胸の中に熱く気持ちが燃え滾る。熱風が吹き荒れて、気を緩めればおかしくなりそうなほどだ。フラれたっていうのに、思い出すのは花織と過ごした楽しい時間ばかりで。
――――まだ、諦められない。
張り裂けそうなほどの胸の痛みに顔を覆う。いつかこの痛みはなくなるんだろうか、そう思いながらも今の彼にはそうやって凌ぐことしかできなかった。