FF編 八章
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試合の昂ぶりが冷めやらず身体が内側からじりじりと火照っている。自分があのピッチにいたわけでもないのに、今でもまだ胸のドキドキが収まらない。耳の奥にスタジアムの歓声が響いている。
花織はフットボールフロンティアスタジアムの通路をひとりで歩いていた。先ほどの熱気とは裏腹に空調の効いた廊下はひやりと肌を撫でる。
先ほどまで風丸と一緒だったのだが、そこへ興奮した宮坂が息を切らせてやってきた。試合を見に来てほしいという風丸の願いを汲み、観客席で試合を見ていた彼は風丸のプレーにいたく感激していた。花織は、二人の大切な時間を邪魔しないよう、当たり障りなくそっと席を外したところだった。
「月島」
控室に向かって花織が歩みを進めていると、背後から低く落ち着いた声が花織を呼び止めた。振り返るとそこにいたのは豪炎寺だった。まだ額に薄っすらと汗を浮かべている。激しい試合のあとだというのに逆立った髪はさほど乱れていない。花織は軽い足取りで床を蹴り、彼の元へと駆け寄る。
「豪炎寺くん」
「ひとりか?」
「うん、そう。宮坂くんが一郎太くんを訪ねてきてくれたから」
花織の答えにそうか、と豪炎寺がわずかに目元を和らげた。昨日の、宮坂が教室に来た時の一件を彼も知っている。だからこそ、あの二人の関係がいい方向へ向かうことを確信し安堵してくれたのだろう。豪炎寺の優しい反応を嬉しく思いながらも、花織の脳裏には先ほどまで隣にいた風丸との時間を回想していた。
『おいおい、ちょっと興奮しすぎじゃないか』
十数分前、少し困ったように、けれど満更でもなさそうに目を細めた風丸の声が今も耳の奥で甘く響く。
試合が終わってから花織は風丸のプレーをひとつひとつ挙げてはすごい、かっこよかったと笑顔いっぱいに褒めちぎった。自分でもこんなに感情が抑えられなかったことは数えるほどしかない。しかし一つとして余さず、今日の彼の戦いぶりへの称賛だけは伝えずにいられなかった。
『だって、一郎太くんがかっこいいから……! あの場面でシュートを防ぐなんて……息が止まりそうで……っ。 炎の風見鶏もタイミング完璧に決まって練習よりもすごくてっ』
『分かった、分かったから……、みんな見てるから。な? ちょっと落ち着いてくれ』
思い返すと幼い子どものようにはしゃいで彼を困らせてしまったに違いない。花織は苦笑を誤魔化し、熱を持った頬を落ち着かせるように息を吐いた。まだまだ感動を伝えるには時間も言葉も足りなかったが、宮坂がやってきて会話が強制終了したことは、ある意味で花織の体面を保つ意味でも幸いだったのかもしれない。
「……豪炎寺くん」
「なんだ」
「炎の風見鶏、すごくカッコよかったよ」
少しだけ彼を覗き込むようにして、花織はふわりと弾むような微笑を浮かべた。今日の試合、グラウンドの中で誰よりも輝いていたのは風丸だ。それは花織の仲での覆せない事実だが、炎の風見鶏は豪炎寺の存在なしには成立しない。豪炎寺の圧倒的なキックの重み、そして決勝ぎりぎりでゴールを叩きこみ、今日もエースストライカーとしての信頼にこたえた。彼のプレーも讃えられてしかるべきだ。
「夕香ちゃんにも早く話してあげなきゃ」
今日の試合の結果も、彼は入院中の妹に真っ先に報告しに行くのだろう。そう思って柔らかに彼を見つめる花織に対し、豪炎寺は一瞬、目を見張った。だが、すぐにその鋭さを取り払って表情を緩めて深く頷いた。
「……そう、だな。……そういえば、お前」
凪いだ和やかな空気の中、豪炎寺は花織を見つめて悪戯っぽく口角を上げた。
「俺のこと、見えていたんだな」
「え?」
「俺はてっきり、風丸の姿しかお前の目には映っていないのかと思っていた」
彼のシュートの如くまっすぐに蹴りこまれた指摘に、花織の顔はみるみるうちに沸騰したように赤らんだ。慌てて両手で頬を覆ったが、羞恥心で潤んだ瞳と、耳たぶまで赤く染まった肌は隠しようもない。
そんなあからさまに、風丸ばかりを追いかけていたのだろうか。事実に違いはなかったが、いざ他人の口から客観的な事実として伝えられると花織は恥ずかしさのあまりその場から消えてしまいたくなる。
「み、見てたよ! みんなのプレーちゃんと……!」
「フッ……そうか?」
必死に花織が言い訳を試みるが、豪炎寺は微かに声を立てて笑うだけだった。切れ長の目はまるですべてお見通しだと言わんばかりに花織を見つめている。花織は豪炎寺からのからかいに耐え兼ねてぎゅっと豪炎寺の腕をつかんだ。
「……!」
「お願い、それ以上言わないで……」
恥ずかしそうに逸らされた眼差しがちらと豪炎寺を覗き上げる。
「豪炎寺くんには全部バレバレかもしれないけど……、恥ずかしいから」
蚊の鳴くような声で花織が囁く。赤らめた頬に落とされた豪炎寺の視線が、自分の腕を掴む花織の白い指先に落とされた。
それ以上彼の言葉は続かない。その言葉を境に奇妙な沈黙が二人を包み込んでしまった。お互いに何も言えずに黙り込む。衣服の擦れる音さえ聞こえそうな静寂の中、前方から複数の足音が豪炎寺と花織の元へ近づいてきた。
「あのぉ~、御取込み中?」
「……っ」
どこか緊張を孕んだ、様子を伺って差し入れられた声に花織はぱっと顔を上げた。その瞬間、彼女の瞳が激しく揺れ、身体が石のように硬直した。隣の豪炎寺の眼差しもその人物を捉えて微かに鋭さをます。
彼ら二人の目の前に現れたのは申し訳なさそうに頭を掻く土門と、その横でやや険しい表情を浮かべた鬼道有人の姿だった。鬼道はどうやら今日の試合を観客席から見ていたらしい。帝国のユニフォームやジャージではなく、鬼道は落ち着いた私服姿だった。それでも放たれる圧倒的な存在感は翳りない。
「えっと……、鬼道さんが花織ちゃんにどうしても話があるってさ」
「……ああ。土門に無理を言ってお前のところまで案内してもらった」
低く這うような鬼道の声が響く。ゴーグルのレンズに花織の姿が映りこんだ。
「花織、お前と話がしたい。場所を変えて二人きりで」
豪炎寺の腕を掴んだままの花織の指先がぴくりと跳ねる。何の話ですか、としらばっくれることができたならどんなに楽か分からない。けれど、彼が何を話したがっているのかを察せないほど花織も鈍くなかった。
おそらくは、先日の地区予選決勝の前に交わしたあの日の告白の続き。鬼道への想いの返答を求められている。
「い、いいえ……」
花織は強張った首をぎこちなく横に振った。
「ふ……、ふたりきりでお話しすることは、できません」
まだ心が決まっていない。それなのに今、鬼道と正面から対峙できるほど花織は図太い神経をしていなかった。ここで不用意な言葉を口にして、関係を拗らせたくない。それ以上に、方向を定めた心を鬼道の声一つで見失うことに怯えていた。
「そう大層な話をするつもりはないが」
しかし鬼道は花織の答えに納得していないようだった。彼は腕を組んだまま片眉を上げる。そして花織の心を懐柔するよりも先に、脇で動向を見守っていた二人の男へとそれぞれ視線を送った。
「土門、席を外してくれないか。豪炎寺も」
花織が頑なであるならば周囲を動かして強制的に二人きりの空間を作ろうとしたのだろう。土門は張り詰めた緊迫感の中でハラハラしながらも、鬼道の言葉に首を縦に振りかけた。
だが、その流れに抗ったのは豪炎寺だった。彼は花織に掴まれたままの腕を引くことなく、彼女を庇うようにして一歩前に踏み出した。そして鬼道に向かって不敵な笑みを投げかけた。
「花織が二人で話せないと言ってるなら外してやるわけにはいかない。悪いな、鬼道」
花織、とあまりにもさりげなく呼び捨てにされた自分の名前に花織は息を呑んだ。後方から豪炎寺の広い背中と横顔をそっと見上げた。その鋭い眼差しに宿るのは鬼道への挑発的な光だ。からかっているようで雄々しく、それでいて決意めいた不思議な色を纏っている。
「……」
呆然と花織が豪炎寺を見上げている一方で、鬼道は豪炎寺の態度を見て複雑そうに眉を顰める。彼は額に手を当て、深く、苦悩に満ちたため息をついた。
「ああ……、分かっていたつもりだったんだがな。帝国の外に出たお前を封じておけないことは」
その独白は酷く重い後悔に満ちているように聞こえた。花織が鬼道の方へと視線を戻すと、互いに引きあうように彼もまた花織をまっすぐに見つめ返す。狭い通路の中に、早まる息遣いばかりが静寂の中に響いた。
「……今日の試合は客席からすべて見させてもらった。間違いなく、今日のMVPは風丸だったな」
口を開いた鬼道の言葉の中に、彼の名前が載って花織は肩を揺らす。鬼道は続けて風丸のプレーを客観的に賞賛した。その言葉に偽りは一つもない。敵味方、恋のライバルであることさえも度外視して鬼道は一人のサッカープレイヤーとしての風丸一郎太を讃える。
花織は狼狽えを隠したくて軽く唇を噛み、それでもなお鬼道から目を離せなかった。鬼道は花織の心を見透かし、直に撫でつけるような声色で言葉を続ける。
「お前がアイツに心を惹かれた理由が、ようやく理解できた気がする」
「……」
「花織、お前はあの男の持つ”速さ”を求め、奴に興味を持ったんだろう」
息が震える。ゴーグルに隠されていながら、鬼道の視線はナイフのように鋭く花織の心を解剖していく。鬼道の言葉の裏に隠された致命的な意図を悟り、花織はただ、虚脱した眼差しを逸らさずにいるのが精いっぱいだった。
彼の言うとおりだ。花織が風丸に興味を抱いたきっかけは彼の速さだ。一目見たときにあの速さに好奇心を抱いた。かつて花織は速さを求めて走っていた。誰よりも速くなりたかった、一番になりたかった。……すべては、鬼道の目に留まるために。
鬼道は花織を暴こうとしている。風丸に恋をした理由はなんだ? 誰のために風丸の速さに興味を持った? 紐解けばおのずと答えが導き出されると彼は知っているのだ。
アイツへの恋心は俺への想いがなければ成立しない感情だろう。埋まらない俺の想いを埋めるため、風丸を愛したんじゃないか。そう、彼は問いかけているのだ。
「け、れど……、私はサッカーを選びました。一郎太くんも……」
詰まりながらも花織はやっとの思いで切り返す。
確かにきっかけはそうだったのかもしれない。それでも今、花織が前を向いて走り続ける理由は違う。花織は陸上に、一番に固執することを止めた。かつては嫌ったサッカーを好きになれた。もうあの頃のように自分を追い詰めて誰かの目に留まろうともがいていない。そう言い切りたかった。
「心からそう言い切れるか?」
けれども、どうしても自分の中の迷いが鬼道の言葉を断てない。豪炎寺が前に立って、物理的に鬼道との距離を置いてくれているはずなのに、喉元に鬼道の手があの頃のように掛けられているような息苦しささえ覚える。何もかも見通されて手のひらで転がされていた日々。狂おしいほど愛おしい、もう戻れない日々の記憶が花織の余裕を奪う。いつも心を隠しきれない。鬼道に言葉を掛けられるだけで、花織の心は刹那の間にあの頃に引き戻される。
「……私の想いを否定しないでください」
「……」
「そうおっしゃる鬼道さんこそどうなんですか……?」
花織にできたのは、苦し紛れに論点をすり替えることだった。一度鬼道から視線を落とし、伏し目がちに花織は潤んだ瞳を持上げた。目を背けたい現実に花織は自棄になって自ら踏みこむ。
「何だと?」
「鬼道さんにとって私は、春奈ちゃんの代わりに過ぎなかったんじゃないですか」
つう、と花織の白い頬を涙が一筋伝い落ちた。悔しいのか悲しいのか、それとも寂しいのか。涙の理由は自分でさえ分からなかった。土門も豪炎寺も花織の顔を見てぎょっとした表情を浮かべる。だが、この場で一番の動揺を見せたのは他ならない鬼道だった。
「……?」
いつも冷静沈着なあの鬼道有人がぽかんと口を開けて静止している。何か言葉を紡ごうとして、開いたまま言葉にならない。愕然と彼は花織を見つめていた。ゴーグルの奥の瞳が、激しい動揺に揺れているのが、口の端から零れ落ちる意味をなさない言葉から伝わってくる。
「お、まえ……、何を言って」
分かりやすく崩れた鬼道の反応が花織に痛みを植え付ける。あの鬼道有人がここまで取り乱した。それは彼の核心をついてしまったからだと、花織はそう思い込んだ。言葉なくともそれが真実なのだ、それが花織の問いに対する鬼道の答えなのだと思うと、花織の瞳から堰を切ったように涙が溢れだした。
「もういいだろう。……花織、行くぞ」
花織と鬼道の対峙を打ち切ったのは豪炎寺だった。
「風丸もすぐに戻ってくるはずだ」
彼は花織の腕を掴みなおして自分の元へと引き寄せる。あわあわと狼狽える土門と、言葉を失ったままの鬼道を置いて花織は豪炎寺に連れられるまま逃げ出すようにその場を後にした。
[newpage]
場面変わって、風丸も宮坂と共にフットボールフロンティアスタジアムのまた別の通路に立っていた。何時になく無邪気に可愛らしくはしゃぐ花織を置いていくのは忍びなかったが、試合を見に来てくれた宮坂にしておかなければならない大切な話があった。静まり返った、それでもどこか安穏とした空気が漂う。風丸は通路を仕切る柵に腰かけて宮坂と対峙していた。
「本当にすごい試合でしたね。僕、感動しました! 特に最後の霧隠をかわした場面は鮮やかだった。まるで、疾風のようなダッシュでしたよ」
試合の興奮の余韻を滲ませて宮坂がこぶしを握る。自分のプレーを喜んでくれる後輩の姿を眺めながら、風丸はゆっくりと口を開いた。風丸が自分の意思で選んだ答えを宮坂に告げる。花織に打ち明けたものと同じ答えだ。
「宮坂、俺、サッカーが大好きなんだ」
心に決めた答えでも、わずかに宮坂の反応を恐れた。落胆や失望が宮坂の顔を曇らせるかもしれない。そう思って風丸は宮坂の表情を窺うように彼を見上げた。だが風丸の懸念とは違い、宮坂は穏やかに目を伏せて深く風丸の答えに頷いた。
「はい、ボールを追う姿から伝わりました。風丸さんが走る場所は、今はこのフィールドなんだって」
ボールを通して皆に気持ちが伝わる。風丸が今日この試合で感じたことだ。宮坂にもボールを蹴る自分を見て、自分の気持ちが伝わっていたのなら。
……それに、今日は普段よりも花織の声がよく聞こえた気がする。いつもよりも俺のサッカーへの想いが強かったからか。風丸はどことなく寂しげに微笑を浮かべて立ち上がった。肩にかけた白いタオルが少しずれる。そして宮坂に背を向け、自分の想いを口にした。
「陸上のトラックを走るは楽しい。でもサッカーには自分一人では見られない世界がある。俺はイレブンの、イレブンは俺の感じるものを感じる。今はそれを追いかけてみたいと思うんだ」
ちらと風丸が宮坂を振り返る。信頼に満ちた表情で宮坂は力強く胸の前でこぶしを握った。
「はい、フィールドを駆ける風丸さんはカッコいいです。僕、応援してますから!」
「ありがとう」
これで一つの決着はついた。進むべき道を決めた風丸を見送り、宮坂が風丸に背を向ける。しかしざり、と靴の裏の擦れる音が中途半端に止まる。一歩だけ踏み出して何か風丸に言うことを思いだしたのか、宮坂は風丸を振り返った。
「今日の風丸さん、きっと月島さんも惚れ直したはずです。本当に、物凄くかっこよかったですから」
「いいや。……そんなことはないさ」
宮坂の言葉は確信に満ちていたが、風丸は目を伏せて静かに首を横に振った。風丸は視線を己の両手に落とす。何かを選ぶということは、何かを失うことになる。だが選ばなければならない時が来る。
陸上ではなくサッカーを選ぶ決断をした。だが、風丸が下した決断はそれだけではない。もう一つ、風丸は花織との関係にも答えを出していた。……もう、このまま見て見ぬふりをすることをやめると決めた。自分の我儘より花織の気持ちが大事だ。何度考えてもそれは覆らない。
――――俺は花織が好きだ。前よりもずっと強くそう感じる。だったら、俺がやるべきことは初めから決まってる。
これまでの花織の気持ちと鬼道の想いを知った上で、今までのすべてから判断した結論だ。風丸は両手で力なく空を握る。この手には何も残らない、失うことは恐ろしい。それでも前に進むと決めた。茶色の彼の眼差しには昏い光が映りこんでいる。
花織の隣にいるべきなのは俺じゃない。もう決めたんだ。花織と別れる、次の試合が終わったその時に。
次の試合が、花織に恋人として応援してもらえるラストゲームだ。
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