FF編 八章
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フットボールフロンティア全国大会一回戦。キックオフの瞬間は刻一刻と迫っていた。
父親の傍に付き添うために試合には来られなくなった夏未からの「絶対に勝ちなさい。これは理事長の命令だと思ってもらってかまいません」という激励のメッセージを受け取った雷門イレブンは、アップを目前に控えて会場へと移動し始めていた。
「……」
花織の瞳には青い髪の少年の姿が映りこむ。決意を固めた、凛々しい面持ち。集中を乱してはいけない、そう思いながらも試合前に言葉を一つもかけずにいる選択肢は花織の中にはない。控えめにそっと花織は彼のジャージの裾を引っ張った。
「一郎太くん……」
「花織」
瞳がかち合った瞬間、花織は目を見張った。花織を見つめる風丸の柔らかな笑顔には晴れ晴れとしている。陸上とサッカーで板挟みになっていた昨日の迷いは残っていない、彼の瞳は澄み切った空のようだった。今も思い悩んでいるのではないかと思っていた花織の独善的な予想を裏切る表情だった。花織が唖然と風丸を見つめていると、彼は振り返って優しく花織の肩を叩いた。
「大丈夫だ、もう迷わない」
「……一郎太くん」
「花織」
屈託のない、花織の大好きな笑顔を風丸は浮かべる。その圧倒的な眩しい笑顔にじん、と胸が熱くなる感覚に満たされる。花織は胸にあてた拳をギュッと壊れそうなほどに握り締めた。泣くような場面ではないのに涙が溢れそうになる。花織はそれを誤魔化したくて必死に笑顔を湛えた。
「花織。俺、やっぱりサッカーが好きだ」
「……うん」
「宮坂には今日のプレイで答えを見せるつもりだ。……今日、見に来てるんだアイツ」
「うん……っ」
気持ちが溢れかえって、これ以上は言葉にならなかった。名前のない感情に一杯になった花織は風丸の胸に飛び込んだ。優しく抱き留めてくれる彼の胸に顔を隠して、零れた涙の痕が見えないようにと顔を覆う。風丸が走る場所にサッカーを選んでくれて嬉しい。けれど同時に胸が張り裂けそうなほどの、形容しがたい「切なさが」花織の心を締め付けていた。彼の下した決断によって、花織の世界の何かが永遠に失われてしまったような、そんな漠然とした寂しさが胸の半分に同居している。
「花織……」
風丸の手がゆっくりと、愛おしむように花織の背を撫でる。花織の涙を見通しているかのように彼の声は優しい。花織はさりげなく涙を拭って面を上げた。
「……一郎太くんが決めた答えを、私は全力で応援したい」
彼を見つめ、悩みぬいた末に彼の出した答えを頷いて受け止める。
「応援させてほしい」
どこか切実にそう告げ、花織は風丸の肩口に顔を埋めた。
顔を埋める一瞬、ほんのわずかに彼の表情が強張ったような気がしたが、その違和感は包み込むような優しい彼の声に掻き消される。
「ありがとう、花織。……ちゃんと、決断したからな」
花織の黒髪を撫でながら。風丸はもう一度己の決定を、まるで刻み込むように言葉にした。
❀
さて、その事件は試合開始直前のアップの最中に発生した。マネージャー業に勤しむさなか、花織はその瞬間を目撃することになった。
人数分のドリンクやタオルを準備していると、ピッチの方に漂う不穏な空気を察知した。グラウンドの中央で数人の選手たちが集合している、一瞬選手の怪我という最悪の想像をしたが、中には紫色の雷門中と異なるユニフォームの人間もいることから揉め事が起こった可能性を推測した。
どうやら事の始まりは、今日の対戦相手である戦国伊賀島中の選手がエースストライカーの豪炎寺に勝負を持ちかけたことにあるようだ。
しかしなぜか、その勝負は小競り合いの最中に、微妙なねじ曲がり方をしてチーム一の足の速さを持つ風丸一郎太とのスピード勝負にすり替わっていた。
「行けえ! 風丸!」
「ぶっちぎるッス!」
「風丸くん、頑張って!」
あれよあれよという間に対戦の舞台は整っており、雷門の選手たちはレースの邪魔にならないように脇に整列して風丸に声援を送っている。マネージャーである秋や春奈も選手たちに交じって風丸にエールを送っていた。
しかし花織は風丸に向けられたお祭り騒ぎのような声を耳にし、困惑を露わに風丸のもとに駆け寄った。大切な試合の前にどうしてこんなことを……? 怪我のリスクもあるのに。わざわざ試合前の相手に自らの能力を晒すことはない、とあくまでもマネージャーとして風丸を窘めるつもりであった。
「一郎太くん……」
「どうした花織?」
しかし花織のそんな切実な心配など気にも留めていない様子の風丸は、表情を曇らせた花織を見ても不思議そうであった。それどころか、レースのスタートを控えてストレッチを続けている。
花織はあまりにもやる気満々の彼を前に、気持ちを削ぐことに抵抗を感じ口ごもってしまう。応援するでもなく、苦言を呈すでもなく風丸の隣から離れない。そんな花織のただならぬ姿に怪訝そうな顔をしたのは、勝負を挑んでいた張本人戦国伊賀島の霧隠だった。
「なんだよお前、そいつの女か?」
「え……っ」
勝負の邪魔だ、どいてろ。そう言わんばかりの霧隠の尖った声に花織は狼狽えたが、花織が驚いたのはそれだけに限らなかった。一番の驚きは、唐突な質問に花織が肩をびくりと跳ねさせたのとほとんど同時だった。花織の肩が後方から強く抱かれる。
「ああ、そうだ。」
花織の視界の端で鮮やかな青い髪が揺れる。その唇から放たれた言葉と同じくらい、堂々と、そして微かに独占欲を孕んだ眼差しが、まっすぐに霧隠の顔面を射抜いていた。
「そうだ、俺の女だよ」
「……ぇ」
声にならない声が花織の口から零れた。まるで全力でトラックを何周も走り抜けた直後のように、ドッドッと走った後のように心臓が早鐘を打ち始める。唖然としたまま、自らを抱きすくめる風丸を見上げた花織の表情は、みるみるうちに耳の裏側から首筋まで真っ赤に染まっていった。
―――― 一郎太くんがそんなことを言うなんて……!
大きな目を零れてしまいそうなほど見開き、花織は彼から一ミリも視線が逸らせない。
二人きりの、それこそ誰もいない時であれば素直なことも多い彼。だが風丸は基本的に真面目で常識的で、しかもわりと照れ屋な男だ。だからこそ、こうした公衆の面前、とくにチームメイトたちの前で、恋人との関係を誇示するような発言は割けるはずだ。少なくとも花織はそう思っていた。だが現実は花織の想像を凌駕している。
「バカップルがまたやってるよ……」
「まあまあ、そういうなって」
そのどらまっちくな一部始終にはチームメイトたちの反応も様々だった。とはいえ、赤面するものが一年生を主に数名、他はやれやれと呆れ調子だった。花織にとっては新鮮この上ない事象だったが、対していつも仲睦まじいふたりを見せられている周囲にとってはこの光景はそれなりに日常茶飯事だったのかもしれない。
「……へえ~。そりゃ、自分の女の前でかっこ悪いところ見せられないな」
「ああ、もちろんだ。……花織」
この異様な空気に一瞬、面食らっていた霧隠が挑発的な発言をする。
風丸はそれにスマートに応じると、花織の肩を抱いたまま、彼女を秋の隣まで連れて行き、そこでようやくその肩から手を放した。
ふたりを茶化す周囲の声は遠い。赤面し、完全に脳の処理が追い付かないで呆然とする花織に風丸は男らしく微笑みかけた。いつもに増して頼もしい振る舞いに花織は心臓が跳ねまわるのを必死に堪える。
「ここで待っててくれ。絶対勝つから」
「あ……、うん。頑張って、応援してる……」
「ああ」
元々は、無意味な勝負を止めるために彼の元へ行ったはずなのに見る影もない。いまやそんな思考は見る影もなく粉々に打ち砕けていた。花織はただ、熱に浮かされた眼差しを駆けていく風丸の後ろ姿におくることしかできなかった。
そして勝負の舞台が整い、雷門中一の俊足を誇る風丸と戦国伊賀島の霧隠とのスピード勝負の火ぶたが切って落とされた。
「よーい!」
春奈が鋭く吹き鳴らしたピィーっとうホイッスルの音を合図にレースが始まった。爆発的な加速でスタートを切り、まるで風を切るような速さで彼らはピッチを駆け抜ける。勝負は拮抗している。競り合う二人はどちらも先を譲らない。
「……!」
最初こそ勝負に乗り気でなかった花織であったが、全国トップレベルのスピードがぶつかり合う光景を前に手に汗を握っていた。周囲の部員たちのように大声で彼の名前を叫べない。いや歓声など送れないほど集中していたためか。花織は手を固く握って風丸を見つめ続けていた。風のようなスピードに花織は心を奪われていた。
――――勝って、一郎太くん。
祈りにも似て切実に彼の勝利に心を捧げる。風丸のスピードは誰にも負けないと花織は心の底から信じていた。風丸こそが、花織の目指す速さの頂点にいる。彼の走りは花織が追いかけたいものだ。どんな障害があろうとそれは揺らがない、風丸が今、花織の世界のすべてには、青い髪を烈風になびかせて疾走する風丸一郎太しか存在しなかった。その鼓膜も、世界中の雑音を排して、風丸が地面を力強く蹴る音だけを正確に聞き取っていた。
「――っ、がんばって……‼」
耐え兼ねた声がグラウンドに響く。その熱烈な声に込められた想いは、混じりけなく純粋に一人の少年に捧げられたものであった。