FF編 第一章
菓子をいくつか購入してふたりは駄菓子屋を出た。そして河川敷で筋トレやダッシュの練習を一緒に行った。毎日のことだが時間が過ぎるのはあっという間で、徐々に陽が落ち始める。
夕焼けの中、[#dn=1#]は土手に腰を下ろした。ぼんやりと小学校のクラブサッカーチームがボールを蹴り合う姿を眺める。稲妻KFCという名前のクラブチームらしい。自主練習のためここを走るとたまに練習をしているのを見かける。
「……!」
小学生の選手たちがボールを追いかけている姿を眺めていると、突然頬にヒヤリとした感覚がして[#dn=1#]は飛びのく。驚いて振り返ると両手に缶入りのスポーツドリンクを持った風丸が立っていた。
風丸の方も[#dn=1#]が飛びのいたことに驚いたようだったが、くすっと爽やかに笑って[#dn=1#]に缶を差し出した。
「驚いたか? ほら、差し入れ」
「……ありがとう。でも、悪いよ」
さっき駄菓子を買ってもらって、彼には与えてもらってばかりだ。[#dn=1#]が申し訳なさそうに眉根を寄せるが風丸は微笑むばかりだった。
「気にしないでくれ。それより俺、前から[#dn=2#]に聞きたかったことがあるんだ」
風丸から冷えた缶を受け取りながら、[#dn=1#]は首を傾げる。風丸が隣に腰かけるのを待って彼の言葉を復唱した。
「聞きたいこと?」
「ああ」
ぷしゅっと音を立てて、風丸が缶ジュースのプルトップを開ける。[#dn=1#]はそれを見ながら肩にかかる髪を後ろに払った。
缶に口を着けないまま、少しだけ距離を開けて座った風丸が[#dn=1#]の顔をじっと見つめる。急に改まってどうしたのだろう。妙に真面目な顔をしているけれど。そう思いながら[#dn=1#]は黙って風丸の言葉を待つ。
「ああ、[#dn=2#]が帝国に居たときの練習内容が知りたい。参考にしたいんだ」
「あぁ……」
風丸の言葉に[#dn=1#]は俯く。汗をかいた缶のプルトップに爪を引っ掛けながら目を伏せた。
やはりこの人は真面目だ。記録会で素晴らしい成績を残していながら、自分よりも実力の劣るはずの、無名に等しい[#dn=1#]からも何かを吸収しようとしている。
[#dn=1#]は彼と一緒に走るようになってから風丸のことを日々知っていく。彼は[#dn=1#]と同じように走ること、特に己のスピードに対しては他とは比較にならないプライドを持っている。
[#dn=1#]が彼に対して気が合うと思い、尊敬している部分の一つだ。誰よりも真剣に練習に取り組む姿を見ていれば分からないわけがない。
彼は誰よりも速くトラックを駆け抜けたいと思っている。そのためなら自分にできることは惜しまない。だからこそ彼の走りには誇りと自信が満ちている。自分も同じだから走っていれば伝わってくるのだ。
陸上に対してそれだけ真摯に向き合っている風丸の為にも何か力になりたい。[#dn=1#]はそう思ったが、自分の経験の中で風丸に教えられるようなことは何もない気がした。もう日々を記録したノートだって気がつけば無くしてしまっていたのだし。
「ごめんね。風丸くんの参考になるような特別なことは何もしてないと思う。……サッカー部が主体だから、あまり部として練習できてたわけじゃなくて」
「そうか」
[#dn=1#]の答えを聞いて風丸は残念そうな表情を浮かべた。缶を口に付け、彼は中のドリンクを飲む。……なんだか、それすら絵になる人だ。[#dn=1#]は彼から目が離せずその姿を注視していた。
缶を口元から離し指で唇を拭う仕草を見る。不思議と色気があってドキリと[#dn=1#]の心臓が大きく音を立てた。
「ん? ……俺の顔に何かついてるか?」
「っ……。ううん、なんでもない」
勝手に火照り始めた顔を隠しながら[#dn=1#]は顔の前で手を振る。慌てた様子の[#dn=1#]に風丸は不思議そうな顔をしたが、それ以上は追求してこなかった。[#dn=1#]は動揺を誤魔化そうと風丸がくれたドリンクを数口ずつ飲み込んだ。
「……話は戻るが、[#dn=2#]はフォームが俺がこの目で見てきた誰よりも綺麗だと思う。スピードもあるし。正直、女子だったら全国一も狙えるんじゃないかって思うよ。……誰かに指導を受けたことは無いのか?」
「全部独学だよ。元々走るのが好きってだけで始めた陸上だけど……」
陸上を始めた理由は特になかった。並べられた部活動の案内の中で、唯一自分にできると思ったのがそれだっただけだ。
小さなころから走ることが好きで得意だという自負はあった。何もかもが閉塞的な帝国学園の時間の中で、走っているときだけが[#dn=1#]を自由にしてくれた。
けれども……、帝国学園で過ごした日々の中で、走ることはいつしか[#dn=1#]の中で特別大きな意味を持った。
「一番になりたかったの」
「一番に?」
「そう、一番。誰よりも速く……って。私、かなり負けず嫌いだから、その気持ちだけでずっとここまで走ってきた」
膝を抱え手に持った缶で遊びながら、懐かしむような口ぶりで[#dn=1#]が語る。まだそれほど時間が経ったわけでもないのに、随分と昔の話のような気すらした。
誰よりも速く。そうあるために[#dn=1#]はこれまで自分を追い込み続けてきた。過酷なメニューをこなせばこなすほど、自分に自信がついてレベルアップできていることを信じた。……そう、信じさせてくれる人がいた。
[#dn=1#]が心を零すのを風丸は黙って聞いていた。
「だから転校してきて、初めて一緒に走った日……風丸くんに負けて……、本当に悔しかったの」
「[#dn=2#]……」
風丸と出会い、初めて共に走った日を思い出す。本当に、あの日の[#dn=1#]は負けるつもりはなかった。全力で勝負してそして風丸に敗北した。とても悔しいと感じたが、彼女に芽生えたのはそれだけではなかった。
「だけどね、それ以上に楽しかった。……私、風丸くんと走って気づいたんだ。走るってこんなに楽しかったんだって。これまで私はずっとひとりだった。闇雲に、ただ一番であるために誰よりも速くありたいってことだけに囚われてきた」
あの日から世界が広がった気さえするのだ。たった一人で、周囲から白い目で見られながらも研鑽を積んでいく日々。
帝国にいた頃にだって走ることを苦しいなんて思ったことはない。けれど、誰よりも速くあることに固執しすぎて、楽しいなんて純粋な気持ちをすっかり忘れていた気がする。
今思えば、いつからか走ることは手段になってしまっていたのかもしれない。……けれど。
「でも今は違うよ。一緒に走ってくれる人がいて、こうして私の話を聞いてくれる」
[#dn=1#]は風丸を見つめて微笑んだ。彼に出会えて[#dn=1#]にとって走ることは、本来の在り方に戻った。楽しいという感情が心を弾ませ、走るという行為を楽しみにする日々を得た。誰かが隣を走ってくれる。そしてこうして肩を並べて同じ視点で世界を見て話ができる……。
風丸と出会って走ることは[#dn=1#]にとって手段ではなくなったのだ。
「私、今は毎日がすごく楽しいよ」
[#dn=1#]がただ伝えたいのは誠意と感謝の気持ちだった。屈託のない微笑みを風丸に向け、感謝を述べる。
「……ありがとう、風丸くん」
風丸は呆気に取られて、[#dn=1#]をただただ見つめ返していた。彼にはそうすることしかできなかったのだ。彼女の微笑を見ると、以前にも感じたどこからともなくこみ上げる気持ちが胸を熱く焼いた。
[#dn=1#]が幸せそうに笑っている、それが自分にとってとても嬉しいことだと思った。温かくて柔らかな感情だ。これまで感じたことのない気分だった。
「風丸くん?」
あまりにも長い時間反応がない風丸の様子に不安を感じたのか、[#dn=1#]が眉根を寄せて表情を陰らせた。彼女が寂しげな顔をすると途端に風丸は胸がきつく痛むのを感じる。
「……ごめん、急に。迷惑だった、かな」
「ッ……、そんなことはない!」
つい、強い口調で彼女の言葉を否定してしまう。だが、迷惑に思っているだなんて、[#dn=1#]には思ってほしくなかったのだ。なにより、[#dn=1#]にそんな顔をしてほしくないと思った。どうしてだかは分からないが。
「俺も毎日、[#dn=2#]と走るのが楽しいよ。……ありがとう、俺に話してくれて」
あまりうまく口が回らなくてつい口ごもってしまう。本当のことを言っているだけなのになぜか顔が熱くなるのを感じた。風丸は荒れ狂う感情を抑えながら[#dn=1#]を見つめる。
[#dn=1#]は風丸の言葉に安堵し、表情を和らげる。そして夜の湖のような黒い瞳をきらきらと輝かせて風丸に微笑みかけた。
「ううん、こちらこそ聞いてくれてありがとう。これからもよろしくね、風丸くん」
風になびく髪を抑えながら[#dn=1#]が右手を風丸の方へ差し出した。彼女が求めるものを理解して、風丸はその手を優しく握る。触れた瞬間、身体の中枢を何かが駆ける。
それが何かは分からない。ただ……、小さくて柔らかな手だった。ほんのりと温かいその手は彼の手の中にぬくもりを伝えてくる。
「ああ!」
握手を交わしてしばらく見つめ合った。どちらともなくゆっくりと手が離れると、[#dn=1#]は残り少なくなった缶の中身を飲み切ってその場に立ち上がる。彼女は大きく伸びをして空を見上げた。
紺碧の空は薄い雲に覆われていた。練習してからしばらく話をしてしまっていたからまた陽が暮れかけている。すでに街灯も点灯し始めるような時間だ。ふたりでいると彼らはいつだって時間を忘れた。
「そろそろ帰らなきゃ」
髪をまとめていたゴムを彼女が一気に引く。高く結い上げられていた髪はたおやかに風になびいて揺れた。春風を纏い、夜の闇の中で光という光に透かされ濡羽色の髪は艶めいた。
当然のように風丸はその光景に目を奪われた。彼女の髪が揺れるさまは彼女の走りそのものを彷彿とさせた。
「[#dn=2#]って……、部活の時だけ髪を結ぶんだな」
彼女の姿から目を離せないまま、風丸が呟いた。髪を下ろしていても髪を結んでいても、[#dn=1#]が[#dn=1#]であることに変わりはないが……。やはり持つ雰囲気が変わると思った。
「うん、走るときに邪魔にならないようにね。……似合わないかな?」
くす、と笑いながら、まるで風丸を茶化す様にさらりと髪を払って耳に掛けて見せた。腰まで伸びた揺蕩う髪。確かに[#dn=2#]ほど髪が長ければそうか、と風丸は思った。結ぶ理由には十分足りる。
似合っているか、という[#dn=1#]の問いだが……、風丸は思考する間もなくその問いに答えた。
「いや、その……似合ってる、と思う」
「え?」
風丸が即答したことに彼女は驚いたようだった。あまりに[#dn=1#]がじっと見つめるため、風丸は顔に熱が集まり始めるのを感じる。だが、[#dn=1#]から視線は逸らさなかった。それは他ならず似合っている、という言葉が風丸の本心だからだった。
ヘアゴムを手に通しながらわずかに[#dn=1#]が寂しそうな表情を浮かべた。しかし錯覚だと思うほど一瞬のうちに、彼女は柔和な笑みで風丸を見つめた。
「本当に? そう言ってもらえると嬉しいな」
春の風を纏い、可憐な笑顔を見せる[#dn=1#]は風丸の心を一瞬にして攫う。
「だって、風丸くんともお揃いだもの」
「……っ」
どきっと心臓が大きく跳ねたのが分かった。顔がさっきよりもどんどん熱くなっている感覚の中で風丸は口を噤むしかなかった。
……お揃いだから、嬉しい。それはいったいどういう意味だ。社交辞令か、だがそんなことを言うか……?
手の中に握りしめたスポーツドリンクの缶はまだ冷たいはずなのに、手のひらの感覚が分からないくらい彼女を見つめることに傾注させられていた。
お揃いだという言葉、彼女の方もうっすらと頬を赤らめているのを見て風丸の心臓の鼓動はどんどん早まっていく。
自分では制御しきれない大きな感情が押し上げてくる。こんな気持ちになるのは初めてだった。彼をこんな気持ちにさせるのは、目の前の少女ただ一人だ。
「……風丸くん、帰ろう?」
「っ。……ああ」
熱に浮かされたまま視線を逸らせない風丸に、[#dn=1#]が言葉を掛けた。ようやく正気に戻れた気がして風丸はやっと彼女に笑みを返す。
だが、まだ心臓がどきどきと大きく音を立てていた。胸が熱くて気を抜けば何かが噴き上げておかしくなってしまいそうだとそう思った。
俺はどうかしてしまったんだろうか、そんな思いを噛みしめながら、風丸はようやく[#dn=1#]の隣に立ち上がる。冷えていたはずの缶は風丸の体温でうっすら温度を持っていた。