FF編 第九章
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電車を乗り継ぎ、花織は帝国学園に急いでやってきた。セキュリティを難なくパスし、約束の場所へと走る。サッカー部練習のためのフィールドを抜け、彼女はその場所にたどり着いた。思わず息が止まりそうになった。かつて花織が練習を覗いていたその場所で、彼は項垂れていた。
「……鬼道さん」
「……花織」
振り返った彼に思わずドキリとしてしまう。彼はいつものゴーグルを装備していなかった。赤い瞳が悲しみの色を湛えて花織を見つめていた。
「…………っ」
いつもはゴーグルに覆われていて見えることのない瞳。切れ長の鋭く赤い瞳に花織はすっかり射すくめられてしまった。鬼道はゆっくりと花織に歩み寄り、強く、乱暴に花織の身体を掻き抱いた。
「きどうさっ……」
「花織……‼」
切迫した声で名を呼ばれたかと思うと花織の身体は強く壁に押し付けられた。強引な彼の動作に目を伏せると、ゆっくりと顔が寄せられるのがわかった。それだけで、花織は彼が何を求めているのかを悟る。花織はそれだけはダメだ、と顔を逸らした。受け入れてはならない、わかっていたからこそ拒絶しようとした。
「……花織、俺を見てくれ」
「っ……」
しかし、いつもとは違う悲しげで、自信のない口調は花織の心を酷く揺さぶった。受け入れてはいけない、彼を酷く苦しめることになるとわかっているのに。花織は拒絶することができなかった。
「……んんっ」
鬼道を視界に映そうと正面を向き直れば、間髪をいれることなく深い口づけを施された。いつ、以来だろう。鬼道を受け入れ、口づけを交わすのは。風丸の想いを裏切るのは。
「はぁ……」
「好きだ」
酸素を取り込もうと薄く開かれた花織の唇を割って、鬼道の熱い舌が彼女の口腔へ滑り込む。本当に風丸とは似ても似つかない行為だ。こんなふうに荒々しく蹂躙するようなキスを施すのはきっと鬼道だけだ。
「ん……ぅ」
潤んだ瞳で膝を折った花織が壁にずるずると滑れば鬼道の足が花織を支える。ねっとりと舌を絡めたり、舌先を吸啜され、花織の意識は半ばふわふわとし始めていた。
「……はっ……きどー、さん」
「名前を呼べ」
低い命令口調で鬼道が囁く。花織はただただ言われるまでに鬼道の望む言葉を口にする。
「ゆ……うとさん」
「敬称を付けるな」
「ゆうと……」
「もっとだ、呼べ。花織」
拒むこともできずに花織は鬼道の名を呼ぶ。彼の名を呼ぶたびに口づけは深くなり、ふたりは絡まり合う。こうなることはきっと花織も、風丸もわかっていたはずだ。それなのに風丸はここへ花織を寄越し、花織も結局はそれに抗わなかった。完全なる裏切り行為だ。恋人でもないのに、鬼道の名を甘い声で名を呼ぶのは風丸に対して酷く罪悪感を花織の中に生んだ。
❀
数十分の時が流れた。二人の間にはとても気まずい空気が流れていた。無理もない、鬼道にとっては花織の気持ちを無視しての行動だったし、花織にとっては許されない行為であったからだ。ベンチに腰掛ける二人の間にはわけもなく空間を挟み、何となく距離を隔てていた。沈黙の時間がしばし続いたのち、口を開いたのは鬼道だった。
「悪かった……、妙な真似をして。……取り乱していたんだ、お前を見たら堪えられなかった」
「……いえ、私も。拒めませんでしたし」
酷い女だ、花織は思う。彼女は今自己嫌悪の波にのまれていた。もっと自分の心が強ければ、鬼道を抑えることができたろうに。花織はぎゅっとスカートを握り締め、俯く。
「花織、俺の話を少し聞いてくれないか」
鬼道が花織の手に自分の手を重ねて問いかける。花織は顔をあげて鬼道を見た。まだ彼はゴーグルをつけていない。赤い瞳が真っ直ぐに花織を見つめていた。……今は考えていても仕方ないか。今日は鬼道に呼ばれてきているのだ、それに鬼道のことが心配でここまで来たのだから彼の申し出を断る謂れはない。
花織がこくりと頷くと、鬼道はありがとう、と微かに笑ってフィールドの方へと視線を向けた。
「俺は五歳の時に飛行機事故で両親を亡くし、しばらく孤児院で過ごしてから鬼道家に引き取られた。影山総帥の推薦によって、だ。……俺は実父の影響でサッカーを始めたんだが、それが総帥の目に留まったらしい」
鬼道の話し始めた話題に花織は大きく目を見開いた。以前、花織が帝国にいたころに聞かせてくれた鬼道の身の上話は完全に過去を覆い隠したものだった。だが、今回の話はそうではないようだ。
「鬼道さん……?」
「今まで俺の身の上を、俺は誰にも話さなかった。他に弱みを見せたくなかったからだ。それに誰も知る必要がないと思っていた。だが俺がこれを話さなかったせいで、ここまで話が拗れたんだろう」
鬼道は花織にすべてを包み隠さず話すつもりだった。今までの経緯、自分の想いを改めて。誰よりも自分を知って欲しかった女性に。鬼道は再び花織から視線を逸らすと話を続けた。
「義父は優しいが同時に厳しい人でもあった。鬼道家の人間として、何事においても俺がトップであり続けることを要求した。だから義父は頂点に立つことに拘りのある総帥を俺の教育係に置いた。そして俺も総帥を信頼していた」
鬼道がぎゅうと花織の手を握り締める。花織は振り払えなかった。
「あの人の言うことは俺にとって絶対的だった。俺のすべてを総帥は知り、俺を支配していたといっても過言ではないだろう。帝国に入ってからも同じだ。春奈を引き取るために俺はさらに総帥の強い管理下に置かれることになった。……あの頃は苦痛とも感じなかった。そうやって俺が俺であるかもわからない生活を続けていたときだ。……俺はお前の走る姿を見かけた、綺麗だと瞬間的にそう思った」
「え……」
花織は鬼道の言葉に吃驚する。今までの自分の推測と、彼の実際の事象が全く異なっていたことに戸惑った。
「もう一年も前になる。……俺は入学してから幾日もせずに、トラックを走るお前を見かけた。長い黒髪を靡かせて美しく、だが力強く地面を蹴っていた。俺はお前に見惚れていた、今まで誰にも感じたことのない感情をお前に覚えた」
「……鬼道さん」
「俺はその時からお前に惚れていたんだ、初めてお前と対面する前からな。……お前と初めて話した時のことはよく覚えている。お前はボールを持って、長い髪を靡かせていた。俺がお前の名前を呼んだとき、笑ってくれたのが印象的だった」
花織はどっと、自分の中でとても熱い激情のようなものが溢れ出すのを感じた。自分はあの日、自分の存在を知ってくれていた鬼道に好意を抱いた。それでも彼は自分の名前を知ってくれているだけだと思っていた。まさか、それ以上の感情をそれほど前から抱いてくれていたなんて。
「初めはお前を見ているだけで良かったはずだったんだ。だが欲が出てきた。挨拶をしたい、話しをしたい……。いつしか俺はお前を手に入れたいと思うようになっていた。そしてお前もそれを望んでくれているのではないかと思うようになった。……錯覚でなければ俺の隣にいるお前はいつもよりも笑顔が多い気がした」
錯覚などではない、花織の心は鬼道の言葉に打ち震えていた。あの頃は鬼道の傍にいることが、何よりの楽しみだった。挨拶をして、他愛のない話をして……。望んでいたのは自分だけだと思っていた。
「一年も終わりかけて、俺はお前に想いを伝えようと思った。何度も、そうしようとした。……だが中々言い出せなかった。お前に拒絶されると思うと、今の関係が崩れるかもしれないと思うと怖くなったからだ」
鬼道が一度目を伏せ、そうしてから花織を見た。赤い瞳は先ほどの激動から打って変わって穏やかで、むしろ落ち着き悲しげに見えた。
「そんな時、俺は総帥に呼び出された」
「……」
「お前に対する俺の想いは総帥に筒抜けだった。それは至極当然のことだっただろう。俺はお前を独占したいが為に、散々お前への好意を露わにしてきたからな。……そして命じられた、二度とお前と近づくなと。子どもの玩具のような恋心は勝利の妨げになると総帥は言った」
ここまで言って鬼道は自嘲するように笑みを浮かべる。
「あの時の俺は総帥に忠実だった。それに春奈を引き取れねばならないという兄の使命感もあった。俺は迷うことなく決断した。俺は俺の気持ちを切り捨てることを決めたんだ。…………だが、間が悪いとはこのことを言うんだろうな。お前が俺に想いを伝えに来たのは、その翌日だった。その日は珍しく総帥がフィールドまで降りて練習を見ていた。……今思えば、あれも総帥の計画だったんだろう。俺が完全にお前への未練を断ち切れるように」
総帥はきっと花織が転校するということを知っていたのだろう。だからあえて、どちらにとっても悲惨な終わり方するように嗾けたのかもしれない。と花織は思った。ただ、すべて憶測に過ぎないが。
「お前の事情など全く知らなかった俺は、総帥にお前と密会していることを知られるのを恐れて心にもない言葉をお前に投げかけた。……そして翌日から完全にお前は姿を消してしまった。転校したと聞いたのはそれから数日も経った後だった。……自分のせいだとわかっていても治まりはしなかった。無理にお前を拒絶しても益々お前が恋しくなるだけだった」
鬼道と花織は同じように惹かれあっていたのだ。ちゃんと言葉さえ伝えていれば、何も拗れることはなかったはずなのに。
「だから、雷門との練習試合の時は、喜びと同時に言いようのない嫉妬心が俺の中にあった。何故なら、お前は他の男の名を呼んで飛び出してきたからだ。俺の仕打ちに胸を痛め、俺の知らない男の為に涙を流していた。……だが、まだ俺にもチャンスはあると思った。お前が俺を見つめる目が帝国にいた頃と全く変わっていなかったからだ」
そこまで話してしまうと鬼道はふ、と息をつく。そして花織に悲しげに笑い掛けた。やはりそれは自分に対する憐憫のようなものが滲んでいて、いつもの威風堂々とした彼らしくなく、酷く切ないように見えてしまう。
「そうやって総帥に表立って謀反をすることもできず、自分の気持ちを制することもできない。生半可な気持ちだった俺が残した結果がこれだ。すべてだったサッカーでさえ勝利することが適わなかった。フィールドに立つ前に試合が終わっていたんだ」
悲痛な声で鬼道が言う。花織は何も言うことはできなかった。
「絶望と敗北感で押しつぶされそうになった時、俺はお前に会いたいと思った。虫のいい話だが、お前に会えば確証がないが、救われるような気がしたからだ。少なくとも、お前は俺を受け入れてくれるのではないかと思った」
彼の赤い瞳が潤む。花織は胸が痞えるような気持ちになった。花織は鬼道にはっきりと言わなければいけないことがあった。このままでいるのが何より心苦しいのだ、だからこそはっきりと自分の気持ちを伝えなければならなかった。
だが、鬼道はこれほどまでに花織に想いを寄せられていると知れば、自分が知るよりも前から思いを寄せていてくれたのだと知れば花織は口を噤むしかできなかった。自分の気持ちを言葉にすることすら憚られる。
「俺はお前を振り回してばかりだな。……すまない」
こんなに悲しそうに笑う人に何も言えるわけがない。