FF編 第八章
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練習を終えて、ふたりはいつも通り、河川敷のサッカーグラウンドへ練習のためにやってきていた。ここでのふたりきりの練習もすっかりと習慣となっている。共に出会うまでも、出会ってからも部活ばかりに打ち込んできたふたりにとって、こうやってふたりきりで練習することこそがデートのようなものだった。
しかしいつもなら双方が疲れ果てるまでボールを蹴るはずなのだが、今日は違った。二人ともサッカーボールを膝に抱えたまま、隣り合わせにベンチに座っている。
「……一郎太くん」
花織はゆっくりと視線を送りながら彼の名を呼んだ。彼はどことなく寂しげな表情を浮かべながら、花織に明らかな作り笑いで返す。
「どうした?」
花織は胸がぎゅうと苦しくなる。どうかしているのは風丸の方だ。今日、陸上部に行ってからずっとこんな顔ばかりしている。理由は間違いなく宮坂の言葉だ。
「……ずっと気にしてるんだね。宮坂くんに言われたこと」
「…………」
花織が根源を指摘すれば、風丸は花織から視線を逸らして俯く。あの後の練習での風丸の調子は最悪だった。炎の風見鶏が一発も決まらなくなってしまったのだ。中断する前までは百発百中だったというのに。風丸は力なく笑う。さらりと彼のポニーテールが揺れた。
「そうだな。…………ずっと考えてるんだ。サッカーのこと、陸上のこと。どっちも俺にとっては大切なものだから」
始めは助っ人のつもりだった。円堂の無茶苦茶な特訓と熱さに惹かれて、さらに花織の想い人をみたいなんて不純な理由もあった。本当は帝国戦限りの助っ人のはずだったのに。
今になっては自慢の足の速さもどうやったらサッカーに生かせるかを常に考えている。自分にとって誇らしかった陸上のタイムすらも忘れてしまうほどに。いつの間にか、サッカーが生活の、花織との交際の中心だった。
「花織、花織だったら……と、いうか。花織はどうするんだ、陸上に戻るか?」
「私は…………」
風丸は今度は花織に問いかけた。もしも彼女が自分と同じように迷っているのなら、一緒に考えたいと思ったのだ。だが風丸の考えはすぐさま打ち砕かれた。
「私は、陸上には戻らない」
彼女の答えは決然としたものだった。まっすぐ前を見据えている花織から目を逸らして、風丸は少し眉を顰める。無意識に左手が自分のジャージを握りしめていた。胸の奥から何かがこみ上げてくるのを感じる。それはサッカーに鬼道がいるからか? 彼女の答えを聞いて、風丸は瞬時にそう思ってしまった。
風丸は陸上とサッカーとの板挟みになりながら、もう一つ悩んでいることがあった。無論、花織のことだ。彼女を自分から解放して鬼道と結ばれるようにしてやりたいと思いつつも、自分の中にある独占欲がそれを許そうとしなかった。花織を心から好いている、今の自分から彼女を取ってしまった生活は、自分からサッカーを取ってしまった生活よりも想像できない。
風丸一郎太は表面からは見えないほど嫉妬深い人間だった。今までの鬼道の行動に我慢ができたのは、花織がまだ自分の恋人なのだという優越感があったから、花織が鬼道と共に居たことに罪悪感を抱いて自分の元に戻ってきてくれるからだった。他の男共と違って鬼道と居たときの嫉妬の念が弱く、笑って花織を迎えることができたのはそれが理由である。
「……私は、女子陸上部だけど、もう戻れないと思う。やっぱり男子陸上部に女子が一人混じるって言うのもあまり長い期間は問題だし。…………それにね、私。もう前みたいに速さに固執する必要がなくなったの」
花織はふっと口元に微笑みを浮かべる。もちろん今だって彼女の中に速くありたいという向上心がなくなったわけではない。だが帝国時代、花織が速さを求めたのは鬼道のためだ。鬼道の目に止まるため。
鬼道を忘れ風丸の傍にありたいと思う今、誰より速く在る必要はない。むしろ風丸の速さを見ていられればそれでいい。それで鬼道を忘れられたら、彼の申し出を断れるくらいの決心が付けば。
しかし、風丸は花織の考えを正確に把握することはできなかった。彼はずっと花織の気持ちは、鬼道に向けられるものの方が大きいものだと思いこんでいた。隣の芝は青く見える、その原理と同じで。だからこそ、花織の言葉を聞いて彼の気持ちは陸上への悩みと共に深く沈んでいった。やっぱり、花織は"
彼にとって花織の速さとは、彼自身が花織という存在に惹かれた、彼女に惚れたもっとも大きな要因なのだ。それを意味が違うとはいえ、必要のなくなったのだと言われると、自分の好意が否定されたような気がした。それは、双方が互いを思い合う故の傷つけ合いだった。
「…………必要、ない……か」
「うん。それに……、これ以上のタイム更新は、ちょっと難しそうだから」
そっと花織が押さえるように胸に手を当てる。花織が陸上に戻らないと決意したもう一つの理由は今まで見ないようにしてきた事実を、とうとう認めざるをえなくなったからだった。もう誤魔化しきれなくなってしまった。……自分の体がだんだんとスポーツには不向きな身体になりつつあることに。
「そうなのか……?」
「そう。でも私は走ることが好き、ボールを蹴ることも好き。だから今まで通り練習は続けていくつもりだよ。……私、これからも一郎太くんと一緒に走りたい。一郎太くんがどんな選択をしたって」
花織はそういって肩下までになり始めた髪をさらっと揺らすと、ボールの上に乗せられている風丸の手に自分の手を乗せた。
「一郎太くんの選択は、私なんかと違って難しいものだけど」
陸上部ではエースを、サッカー部ではディフェンダーの要、そしてキャプテン円堂を支える役を担う彼だ。先輩と揉めに揉め、戻る場所のない花織は違う。誰もが彼の帰還を、そして滞在を願っていた。
自分を大切にしてくれる、自分にとっても大切な仲間たちを選ぶと言うことは、どちらを選んでもどちらも裏切ってしまうような……。そんな気持ちにさせられる。
彼は気が付いていなかった。自分が選びきれない理由こそ、自分と鬼道を花織が選びきれない理由なのだと言うことに。
「私は、一郎太くんが本当に今したいことを選ぶのが一番だと思う。分からないなら時間を掛けて悩んで……。思い悩むなら私が相談に乗るし、何を選んでも私は一郎太くんの傍にいるから」
言い切ってしまってから花織はハッとする。自分が今彼に告げた言葉は、先日土門が自分にくれた言葉と同じなのだと。早くはっきりしなければならないのは彼よりも自分なのだと。
「花織」
傍にいるから、彼女の放ったその言葉に風丸の心は締め付けられるほど苦しくなった。この問題にも答えを出さねばならない。そんなことを思いながらも風丸は堪えられなかった。風丸が左手をベンチに付き、花織の頬に右手を添える。ころりと彼の膝からサッカーボールが転がり落ちた。
「ありがとう……。俺の為にいろいろ考えてくれて」
「ううん。……大好きな人のためだもの、当たり前のことだよ」
「……花織」
大好きな人という言葉にまた胸が苦しくなる。風丸が切なく顔を歪めれば花織は静かに瞼を閉じた。彼は顔を寄せ、深く花織へ口づける。何度も何度も角度を変えてキスを繰り返しながら風丸は思わずにはいられなかった。何もかも、すべてが思うように進めばいいのに。
風丸が唇を離すと花織がはっと息を吐き出す。頬を赤らめている花織が無性に愛おしく、絶対に手放したくないと思えた。
「好きだ。……花織」
もう一度、風丸が花織の唇に唇を重ねる。ころりと、花織の膝の上に置かれていたサッカーボールが転がり落ち、風丸が先ほど転がしたボールに当たって跳ね返った。