FF編 第一章
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夕暮れ時、今日は珍しく男子陸上部も練習が早く終わるようで、花織は片付けを手伝っていた。入学してからしばらく、花織はいつの間にか女子陸上部より男子陸上部の方に馴染んでしまっていた。女子陸上部には入部当初から先輩たちに嫌われているのか、全く居場所がないのだ。
それに比べて男子陸上部は風丸をはじめ宮坂や他の部員たちも花織を歓迎してくれていた。帝国学園に居たときはこれほど大勢の友人と語らうことなどなかったのに、新しい学校での生活は花織にとって新鮮なものばかりだった。片付けを一段落させて、ふう、とため息をつく。そのときひやりと頬に冷たい感覚が走った。
「……!!」
突然の感覚に驚いて飛び退くと、背後には両手に缶ジュースを持っている風丸が立っていた。風丸も花織が飛びのいたことに驚いたようだが、すぐに爽やかに笑って缶ジュースを差し出す。
「驚いたか? 差し入れだぞ」
びっくりした表情のまま、花織は頷いて風丸から冷えたその缶を受け取る。ラベルを見てみると中身はスポーツ飲料のようだった。
「ありがとう……でも、なんか悪いよ」
「気にするな。なぁそれより、少し話さないか?」
花織はきょとんとして風丸を見る。風丸はじっと花織を見つめて少しだけ真面目な顔をした。急に改まって、彼はどうしたのだろうか。だが断る様な理由もなく花織は風丸の提案に頷く。
「うん、いいけど……」
「すまないな」
ふたりはグラウンド脇のベンチに腰掛ける。ふたりの間には少しだけ距離があって、傍から見れば初々しいカップルの様だった。ふたりの間に流れる沈黙は相変わらず長い。
「……私に何か用があったの?」
「まあ、ちょっと聞きたいことがあってな」
ぷしゅっと音を立てて、風丸が缶ジュースのプルトップを開ける。花織はそれを見ながら肩にかかる髪を後ろに払った。長い髪というのは自分にとって宝物ではあるが、時折邪魔になることもある代物だ。
「聞きたいこと?」
「ああ、月島が帝国に居たときの練習内容が知りたい。参考にしたいんだ」
風丸の言葉に花織が俯く。汗をかいた缶のプルトップに爪を引っ掛けながら目を伏せた。やはりこの人は真面目だ。花織は彼と一緒に走るようになってから風丸のことを日々知っていく。彼は走ること、特にスピードに関しては花織と同じように相当のプライドを持っているようだった。
誰よりも真剣に練習に取り組むその姿から、誰よりも速くありたいと思っているのだろうということを花織は察していた。陸上に対してそれだけ真摯にある風丸のためにも何か力になれればと思う花織だが、自分の記憶の中には教えられるようなことは無かった。
「ごめんね。前にも言ったと思うけどサッカー部の事ばっかりで、あんまり練習できなくて……」
「そうか……」
風丸は缶の縁に口を付けジュースを飲む。そして缶を口から離すと艶っぽく指先で口元を拭った。その仕草に思わず花織は真っ赤になり、視線のやり場に困ってしまった。一瞬風丸に見惚れてしまった自分が無性に恥ずかしくなってしまう。どうして自分はこんな気持ちになっているのだろう。
「ん? ……俺の顔に何かついてるか?」
「っ……。ううん、なんでもないの」
慌てて顔の前で手を振る花織に風丸は不思議そうな表情で首を傾げるが、すぐに前を向いて話の続きを始める。彼の長い前髪が横顔を隠してしまっている。
「……話は戻るが、月島は走るフォームが俺がこの目で見てきた誰よりも綺麗だ。スピードもあるし。実力は全国クラスだと思ってる。……誰かに指導を受けたことは無いのか?」
「全部自己流だよ。私ね、かなりの負けず嫌いでスピードだけは誰にも負けたくなかった。私にあったのはその気持ちだけ、それだけで今までやってこれた」
どこか遠くを見つめながら寂しげに花織が語る。誰よりも速くあるために花織は今までどんなに過酷な練習にだって耐えた。一人きりで己のレベルアップの為だけに時間を費やしてきた。風丸は黙って花織の横顔を見つめながら真摯に話を聞いていた。スピードだけは誰にも負けたくない、その彼女の気持ちは風丸に通じるものがある。
「雷門中に来るまで走ることを楽しいって感じたこと、無かったんだ。一人で、ただ闇雲に走ってきた」
たった一人で、成長できているのかも分からない練習。いや練習するだけで周りから白い目で見られてしまう日々。すべては彼の目に留まりたいという淡い願いの為だった。しかし今は違う。
「でも、今は違うよ。一緒に走ってくれる人がいて、こんな風に話も聞いてくれて」
「月島」
花織は微笑んで風丸の顔を見る。風丸と出会って花織にとって走るという行為の意味は変わった。楽しいという感情が芽生え、単純に走るという行為が楽しみになった。誰かが隣を走ってくれる。そしてこんなふうに練習について話ができる。風丸に出会って走ることは花織にとって手段ではなくなった。
「私、今は毎日が凄く楽しい。ありがとう、風丸くん」
途端に風丸の胸の鼓動が高鳴る。初めて見た花織の屈託ない微笑み、ここまで嬉しげで楽しげな彼女は初めてだった。花織が幸せそうに笑っている、それがとても自分にとっても嬉しいことのように感じた。今まで感じたことのない、温かで柔らかな感情。何だろう、この気持ちは……。風丸はじっと花織の顔を見つめる。
「風丸くん? ……迷惑、だったかな?」
無言で黙り込み、反応のない風丸に花織が目を伏せる。彼女が寂しそうな表情を見せると急に風丸は胸がきつく痛んだ。そんな顔をしてほしくないと思った。風丸は慌てて花織の迷惑という言葉を否定する。
「そんなことはない! ……俺も毎日、月島と走れて楽しいよ。ありがとう。俺に話してくれて」
本心を紡ぐだけなのに、自然と顔が熱くなった。風丸は少し口ごもりながら、何とか言葉を彼女に告げる。花織はその彼の言葉に安心した様子だった。黒い瞳を嬉しそうに輝かせて風丸に微笑みかける。
「こちらこそ、聞いてくれてありがとう。これからもよろしくね、風丸くん」
そういって花織は風丸の方へ手を差し出す。風丸は花織の顔を見て微笑み、花織の手を優しく握った。自分の手とは違う、小さくて柔らかな手だった。だがその手はほんのりと温かくて手に馴染むようだった。
「ああ!」
握手を交わしながら風丸の返事に花織は目を細めて笑う。ゆっくりと手が離れると花織は缶を置いてその場に立ち上がり、大きく伸びをした。そして静かに空を見上げる。紺碧の空が薄い雲に覆われていて、辺りは仄暗く既に外灯も点灯していた。
「そろそろ帰らないと」
そして自分の髪に手を伸ばすと、彼女は一気にゴムを引いた。結い上げられていた髪が艶やかに花織の背中に流れる。その髪は風にふわふわと靡いた。風丸は大きく目を見開く。その黒髪が言いようもなく美しく、走っているときの彼女を彷彿とさせた。一時、彼女に目を奪われてしまった風丸だが、我に返り彼女に言葉を掛ける。
「月島って、部活の時だけ髪を結ぶよな?」
「うん、どうしても走る時は邪魔だから。……似合わないかな?」
くす、と笑いながら、まるで風丸を茶化す様にさらりと髪を靡かせてみせる。彼女個人にとって髪型は似合う似合わないは関係ないと思っていた。とにかく髪を結ぶのは走る際に邪魔にならないためだ。
「いや、その……似合ってる、と思う」
「え?」
思いにもよらなかった言葉に花織が風丸を振り返る。風丸は頬を赤く染めながらも視線は逸らさずに花織を見つめていた。花織はにっこりと微笑んでヘアゴムを手に通した。
「本当に? そう言ってもらえると嬉しいな。だって、風丸くんともお揃いだもの」
花織は事実、そう思っていることを告げた。もちろん半分は社交辞令だろうが、似合っていると言われて嬉しくないことは無い。風丸は真っ赤になって彼女を見つめたまま黙り込んでしまう。微笑む彼女はあまりに美しかった。手の中に握りしめたスポーツドリンクの缶の冷たさなど分からなくなっていた。
お揃いだと花織に言われて、ほんのり顔を赤らめて笑う彼女を見て、風丸の鼓動はどんどん早くなる。自分では制御できないような大きな感情が込み上げて堪らなく、どうしようもなく、目の前の少女にだけ感じる、誰にも感じたことのない想いを胸の中に押しとどめる。
「……風丸くん、帰ろう?」
「っ……ああ」
俺はどうかしてしまったのだろうか、そんな疑問が風丸の中で渦巻いて大きくなっていった。