FF編 第一章
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あれからおよそ二時間。徐々に日が落ちかけていて、外灯の明かりが目立ち始めた。涼しい春風が爽やかに吹き抜ける。陸上部全員で片付けを行う最中、風丸は空を見上げた。
「すっかり暗くなったな」
「そうだね。そろそろ帰らないと」
風丸と同じように空を仰ぎ、花織が呟く。さらさらと風丸の、そして花織の長い髪が風に揺れた。花織は自分の荷物を纏めて左手に持つ。そして風丸に丁寧に頭を下げた。
「今日はありがとう。片付けも終わったし、私そろそろ帰るね」
「もう暗いから送るぞ?」
風丸がちらりと花織を見てそういったが、花織は微笑んで静かに首を振る。
「大丈夫。風丸くんが遅くなっちゃうし。ありがとう」
ひらひらと手を振りながら風丸に別れを告げて、花織は足早にその場を立ち去る。きっとこのまま話していれば、風丸は気を遣って花織を送ると言い張るだろう。去り際にも花織の身を案じているような様子があった。しかし花織はそこまで彼に甘える気はなかった。出会ったばかりの彼にそこまでしてもらうのはさすがに忍びない。
静かに部室の戸を開け、真っ暗な部室の中へ足を踏み入れる。明かりをつければ質素な部室が眼前に広がった。花織は息をつきながらタンクトップの裾に手を掛ける。運動部さながらの速さで着替えを終え、最後にヘアゴムに手を掛ける。
さらりと長い腰ほどまでのロングヘアが揺れた。部室の鏡に映った彼女はほつれた髪を指で解く。漆黒の艶やかな髪、伸ばし続けている花織の自慢の黒髪だ。走るたびにさらさらと髪が揺れる感覚が好きだったが、伸ばしていることにも彼女なりの意味があった。ある人物への想いの丈を表明するようなものだ。
花織が女子陸上部の部室の鍵を職員室に返却し校舎を出ると、もうすっかり世界は夜に染まっていた。昼間は涼しげに感じた春風は、この時間帯になるとむしろ少し肌寒い。花織は制服を擦り合わせて身体を無意識に温めようとする。
「日が落ちるの、さすがにまだ早いなあ……」
一人そんなことを呟きながら、夜桜の舞い散る道を歩く。早く帰ろうと校門をくぐろうとした彼女の瞳に人影が映った。風に靡く、長い青髪をポニーテールにした少年。彼は花織を見て表情を綻ばせた。
「あ……、月島。遅かったな」
「風丸くん……? どうしてこんなところに」
花織の方へ視線を向け、優しく微笑んだ風丸に花織は驚いた。花織はそれなりに時間を掛けて支度をしてきた。加えて校舎へも寄り道をしてきた。それなのに彼はどうしてまだこんなところにいるのだろう。
「月島を待ってた。遅くなったのは練習に付き合せた俺のせいだからな」
「そんな……」
あまりに申し訳なくて花織は眉根を下げ、困ったように風丸を見つめる。花織が残って彼らの練習に付き合っていたのは自分の意志だ。彼がそんなふうに責任感を覚える必要は無い。そう言いたげな彼女の表情を見て、花織が言いたいと感じている言葉を察したのだろう。風丸は花織が言葉を紡ぐよりも早く、彼がここで待っていた何よりの理由を述べた。
「俺が勝手に心配してるんだ。一人で女子に夜道を歩かせられない」
ふいと恥ずかしげに、花織から視線を逸らしながら風丸が言う。ほんのりと彼の頬が赤く染まっていた。花織は彼の気遣う言葉に目を見開いた。どうして初対面の人にここまでできるだろう。風丸は責任感が強すぎるのか、もしくは優しすぎる。
「……なんでもない。さあ帰ろうぜ、家まで送る」
先ほどの言葉が余程恥ずかしかったのか、風丸は花織に素っ気無く背を向けた。なんだかんだ風丸に言い包められてしまった花織は、風丸の一歩後ろを歩きながら彼の後姿を見つめる。心配だから、という風丸の優しい言葉に、花織の心は小石を投げ入れられた水面のように揺れていた。どうしてだろう、その言葉で頭の中が埋め尽くされる。一緒に走ったあの時から風丸をやけに男らしく感じてしまう。
「……」
「……」
何故だかどうにも気恥ずかしくてふたりの間には沈黙が続いた。校門を出てから今まで、一言もふたりは言葉を交わしていなかった。静けさが益々、彼らの胸の中にある小さな緊張を煽る。
「……寒くないか?」
「うん、大丈夫」
たった一言交わした会話もすぐに途切れてしまう。それを嫌ったのか風丸が花織の方を振り返り、再び言葉を掛けた。
「あのさ、月島って帝国に居たんだよな?」
「うん」
「帝国でも陸上やってたのか?」
風丸は彼女のことを疑問に感じている部分があった。今日の彼女の走りは風丸には及ばなかったが、女子の中ではかなりの実力者の位置につけるはずだ。あんなに速い走りをするのならもっと陸上の世界で有名でもおかしくはないのに。そう言いたげな風丸が、花織の表情を伺うように彼女の顔を覗き込んだ。花織は俯き気味に微笑んで、小さな声で呟く。
「やってたのはやってたんだけど……。でも、あんまり大会とかには出てないんだ。帝国はサッカー部に力を入れているから、陸上部や他の運動部は満足に練習もできなくて」
思わず、サッカーという言葉に花織が唇をきゅっと結んだ。花織はサッカーにあまり良い思いがない。サッカー、サッカー、帝国学園ではサッカーがすべてだった。陸上部や野球部などはグラウンドの隅に追いやられて。
いいや、そうではない。花織がサッカーに対して良い感情を抱いていないのは他に理由がある。たった一人の少年に掛けられた、花織の心を打ち砕こうとした言葉。それを思い出して花織は黙り込んでしまう。そんな花織に風丸は不思議そうに首を傾げた。
「月島はサッカーが嫌いなのか?」
「ううん。別に、そういうわけじゃないよ」
「そうか」
またもや会話が途切れる。花織の家まではまだまだ道のりは長かった。やはり沈黙が辛かったのか、今度は花織が風丸に話しかけた。
「あの……、風丸くん」
「何だ?」
風丸が首を傾げた瞬間、物凄い爆音がふたりの耳を劈いた。驚き、風丸が後ろを振り返れば背後から猛スピードで車がふたりの方へ突っ込もうとしていた。
「危ない!!」
「きゃ……っ!」
風丸が強い力で花織の腕を引き、身体を壁に押し付ける。花織は小さな悲鳴を漏らした。いきなり風丸に強く抱き寄せられ、花織は風丸の腕の中で目を白黒させる。温かな身体、微かに香る制汗剤の匂い。目の前には必死な少年の顔。花織は息を詰まらせる。呼吸がし辛いと何を思うよりもまず、彼女はそう感じた。
「月島、大丈夫か?」
焦ったふうの風丸の声に花織の心は波を立てる。自分を真っすぐに見つめるその瞳に、自らの心臓が大きく音を立てたのを彼女は実感した。私は彼に守ってもらったのだ、とくんとくんと胸の鼓動が速くなる。強く目を瞑っても風丸の吐息が近く感じられて、余計に胸が騒めいて落ち着かない。息をするのも躊躇われるほど胸が苦しい。
「月島?」
花織が返事をしないため、風丸が心配そうにさらに花織に顔を近づけ、不安げな面持ちで彼女の表情を確認した。花織はついに堪えられなくなって、風丸から顔を逸らし、消え入りそうな小さな声で呟く。
「風丸くん……。……ちょっと近い」
花織の頬が桃色に染まり、視線は恥ずかしげに逸らされている。風丸は一瞬、彼女の言葉の意図が掴めずに硬直する。だがすぐさま現在の状況を悟り、慌てて花織から距離を置いた。今や花織に負けず劣らず風丸の顔も赤くなっていた。
「あの、……すまなかった]
「ううん、……気にしないで。それよりありがとう、守ってくれて」
「……ああ」
ふたりは顔を見合わせることもできないで、真っ赤になったまま俯いている。照れくさいような空気がふたりを包んでいた。風丸はその空気に耐えかねたのか、花織に背を向けて、蚊の鳴くような小さな声で花織に呟いた。
「……行こうぜ」
「……うん」
既に距離をとったはずなのに、花織はどうにも息がし辛かった。ゆっくりと面を上げて前を歩く風丸の後姿を見つめれば、彼の耳は赤くなっていてまた更に気恥ずかしさが増した。でもそれはどうしてだろうか。こんなに胸がさざめくのは何故……? 花織はきゅっと制服の胸元を握って風丸のさらりと揺れる髪を見つめる。
……きっと特に理由などない。今日会ったばかりの人と密着して、少し動揺してしまっただけだ。それ以上の気持ちなんて一切ない。見知ったような今の顔の火照りも、きっと気のせい。緊張の余韻に過ぎない。この感情を他の人に感じることなんてあるわけがないのだから。
でも今守ってくれたのが、もしも彼だったら。花織はずっと焦がれている人物を思い描く。もしも彼だったら、胸の中に込み上げる感情は今と違っただろうか。
「……月島? どうかしたか?」
「えっ。ごめん、なんでもない……」
「そうか?」
花織は随分長々と考えていたようで、風丸の声に我に返ればそこは彼女が彼に伝えた住所、すなわち彼女の家の近くまで来ていた。風丸はぼんやりとしているようだった花織を、不思議そうに見ていたが、花織の何でもないという言葉に微笑み、柔らかい口調で花織に言った。
「うん。あ、私の家ここなの」
「ああ、そうなのか」
花織が立ち並ぶ家のとある一軒の前で足を止める。彼女は風丸に向き直り、彼を見つめた。
「風丸くん今日はありがとう……。あの」
送ってもらったことへの礼を言い、彼女はふわりと微笑む。風に靡いた黒髪を耳にかけ、真っすぐにその視線を風丸に向けた。
「今日は、風丸くんと一緒に走れて楽しかった」
その微笑は彼女の今日一番の笑顔だった。風丸ははっと、言いようのない感情に息を呑む。何も言えなくて、ただそれでも目の前にいる少女を見ていたいと思った。かあっと、頬が熱くなるのを感じる。胸に流れ込んだ熱い気持ちを抑え込んで、風丸は何とか言葉を紡ぎだした。
「そういってくれると嬉しいよ、ありがとう月島」
心からそう言えば、彼女は何も言わずに目を細めた。胸が何か大きな感情に押しつぶされてしまいそうになる感覚。風丸は生まれて初めて、誰かに対して息が止まってしまいそうな感情を覚えた。今の彼にはまだその理由は分からない。