FF編 第一章
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そういえば、練習用のグラウンドはどこだろう? 先輩に聞いておくべきだったのに失念してしまっていた。花織は肩を竦めながらまた、ため息をつく。まあ、誰かに聞けば何とかなるだろう。そんなことを思っているとちょうど男子陸上部の部室から風丸が出てきた。目の合ったふたりはどちらともなく歩み寄る。足を止めると、花織はすぐさま風丸に声を掛けた。
「風丸くん、ごめんなさい。グラウンドの場所を教えてほしいんだけど……」
「え、入山さんに説明されてないのか?」
練習着を着た風丸が腰に手を当て、首を傾げた。さらりと彼のポニーテールが揺れる。その口調はどうも不思議そうな様子であった。入山が説明を忘れるなんて……、そのように取れる口ぶりだった。花織は眉根を下げて髪に手を触れる。
「うん。緊張してたから、聞きそびれてしまって」
「そうか、じゃあ一緒に行こうぜ。どうせ同じ方向だしな」
スパイクを入れているのであろう袋を片手に風丸が言う。花織は風丸のその答えに礼を言い、彼の隣を歩いてグラウンドへと向かった。 風丸と他愛のない話をしながらもグラウンドへ急ぐ。四百メートルトラックの白いラインが綺麗に引かれているそのグラウンドに、入山を始めとする女子陸上部員はいた。入山キャプテンが不機嫌そうに花織を迎える。
「随分と遅かったわね」
先ほど部室での口調よりは遥かに柔らかく入山がいう。そしてその言葉は花織に掛けるもののはずなのに、入山の視線は風丸の方へと何度も向けられていた。花織はなんとなく理由を悟る。きっと入山先輩は風丸に好意を持っているのだろう。それが十分に察せられる瞳をしていた。女子のこういう感情は花織にとっては分かり易いものであった。何も言わずに黙っている花織の代わりに風丸が入山の言葉に答えた。
「すみません。月島、場所が分からなくて迷っているようだったので」
「そう、ありがとう風丸くん」
露骨だと思うほど花織に接する時とはトーンの違う声。そんな入山の声色に肩を竦めて花織は目を伏せる。自分がこの場にいてもいいのだろうか、そんな気持ちになった。
「それじゃあ俺は戻ります。月島、お互い頑張ろうな」
「え、あ、ありがとう」
突然名を呼ばれて花織がハッとし、風丸の方へ視線を向ければ、爽やかに微笑んだ風丸が激励の言葉を残してこの場を去って行った。咄嗟のことに花織は思わずどもってしまう。花織がさら、と風に靡いた髪を抑えると、入山が強く花織を睨んだ。
「何もたもたしてたのよ。……じゃ、あんたの実力見るからさっさとストレッチして」
絶対零度の声のトーンに花織は思わず身を固くする。どうやら風丸の激励は花織にとって良い効果をもたらさなかったらしい。それでも入山に言われた通り、花織は一人で体を伸ばす。春休みの間はこうしてタータンの上で走ることもなかった。久しぶりにフィールドで思い切り走れるという喜びを花織は胸の中で感じていた。
花織はストレッチを終えるとスパイクに履き替え、右手首に付けていた黒ゴムを外し、長い黒髪を高く結い上げ、ポニーテールにした。花織は常にスポーツをするときは髪を結うことにしていた。本当は部室を出てからすぐに結ぶつもりだったのだが、風丸に会ったため今の今まで時間がなかった。
「いつまでやってるのよ!」
花織の行動に入山の怒号が飛ぶ。花織は入山に急かされながら、逸る気持ちを抑え、スタートラインに立った。スターティングブロックに足をセットしてラインに指を付ける。この感覚も久しぶりだった。"用意"の声で軽く腰を浮かせ、地面を蹴りやすい体制を保った。自然と花織の口元が微笑む。いよいよだ、やっとこの瞬間に立つことができた。誰よりも速い風を感じることがもうすぐできる。
ピィー、と 競技用のホイッスルの音と同時に花織は強く地面を蹴った。低い姿勢を保ったままぐんぐんと加速していく。徐々に姿勢を高く持ち、五十メートルを超える頃。このくらいの瞬間が花織は好きだった。耳元で聞こえる風の音。そして風を切るこの感覚、私の前には誰もいない。それがとても言葉では表しきれない感情で胸を満たす。
花織が風の感覚を覚えている間に彼女はゴールラインを駆け抜けていた。減速をして振り返れば入山が息を切らせて花織を鋭く睨みつけていた。いきなり現れた圧倒的な実力の新参者に敗北した屈辱と困惑に入山の瞳は苛立ちを孕んでいた。
花織はそれを見ないふりをして走ることへの爽快感を噛み締めて踵を返す。すると花織の視界に金髪のセミロングの少年が飛び込んできた。思わず花織は驚いて目を見開く。
「先輩、すごく足が速いんですね! よかったら俺達と走りませんか?」
俺という言葉から察するに一見性別のわからないこの彼もきっと男の子なのだろう、と花織は思う。そして服装と言動を見る限り恐らく男子陸上部だ。突然現れ、提案を持ち掛ける少年に花織は困惑しつつも、問いかけを返す。
「えっと……、貴方は?」
花織が首を傾げながら、まずは少年の素性を尋ねた。
「俺は宮坂了、男子陸上部一年です。月島さんですよね」
「私の名前、どうして?」
「風丸さんに聞きました! じゃあ行きましょう!」
「ちょ、ちょっと待って!」
無邪気に笑う少年は、花織のことなど構わずに歩を進めようとする。置いてけぼりの展開の速さに、花織は慌てて宮坂を止めるとタオルで汗を拭いている入山へ声を掛けた。何をするにしてもまず部長の了解を得ねば話にならないだろう。
「あの、入山先輩」
「行けばいいじゃない。私達五時半で上がるから、鍵は返しといて」
冷たく花織を見下ろしながら入山はそう吐き捨てるように言うと、他の部員の所へと歩いて行ってしまった。花織は困ったように眉間に皺を寄せる。右手で左の二の腕に触れ、視線を落とした。入山の態度に多少傷ついた様子の花織に宮坂はきっぱりとした口調で言った。
「気にしないほうが良いですよ」
「宮坂くん」
入山の背中をしれっとした表情で見送っている。
「どうせ僻みでしょ。あの人いつも自分の足が速いこと、鼻にかけてましたから。……それより、早く行きましょうよ」
瞳を輝かせて宮坂が言う。花織の腕を引いて、早く行こうと言わんばかりだ。花織は宮坂の多少強引な態度に微苦笑を漏らす。それでも彼の提案を呑むことにした。さらりと美しい黒髪を靡かせて、彼女は宮坂の後を追って歩き始めた。
2
「やれやれ、宮坂の奴」
「ホントにしょうがないよな」
男子陸上部の部員たちが呆れ顔で休憩を取っている。風丸一郎太もその一人だった。先ほど風丸の言葉も聞かずに、彼の後輩の宮坂は女子陸上部の方へ駆けて行ってしまったのだ。
それは今から十分程度前の事だった。三年生の男子陸上部員が唐突にトラックを見つめて声を上げた。
「なああの子、速くないか?」
そんな言葉がストレッチをしていた風丸の耳にも飛び込んできた。入山のことだろうか、あの人は確か地区大会でも名前が通じるような人だったはずだ。そんなことを思いながらも興味から風丸は顔を上げた。だが違った。風丸の目に飛び込んできたのは流れるような黒髪だった。その美しさにはっと風丸が息を呑む。
「月島……?」
今日知り合ったばかりの転校生の名前を思わず呟いてしまう。目に見えて圧倒的に速い。しかし彼女の走りはそれだけではない。フォームもなめらかで、周囲を魅了するほどに綺麗だ。その姿は一瞬で風丸の心を奪っていった。
速い……。そこらの男子よりも、もしかすると俺よりも。
花織は悠々と女子陸上部の三年生エースを引き離し、ゴールラインを越えた。悶々とした気持ちが風丸の中に生まれる。興味があった、月島花織のスピードに。美しいフォームで、すべてを置き去りにして駆ける少女のスピードを自分も間近で実感したいと思った。
「風丸さん!」
風丸が花織を見つめていると宮坂が風丸の名を呼んだ。宮坂了、風丸を慕う雷門中の一年生だ。セミロングの金髪を真っすぐに下ろしているから、本人曰く女子と間違えられることも多いらしい。そんな彼は興奮した様子で風丸に声を掛けた。
「宮坂、どうしたんだ?」
「あの人! ほら、あの黒髪の人ですよ!! あの人、足速くないですか?」
高揚しきった口調で宮坂が風丸に言う。風丸はその様子に落ち着け、と言いながらも今日話したばかりの転校生の名前を口にする。
「月島のことか?」
「月島? あの人、月島さんっていうんですね! じゃあ俺、ちょっと行ってきます!」
「あ、おい! 宮坂!!」
少女の名前を知るや否や、宮坂はさっさと花織に声を掛けに走り出す。風丸は宮坂を引き留めようと手を伸ばした、しかしそれをすり抜けて宮坂は女子陸上部の方へ駆けて行ってしまった。風丸は呆然とした後、呆れた様に微苦笑を漏らす。結局そうして、風丸は成り行きを見守ることに決めたのだった。
「風丸さん! 連れてきましたよ!」
聞きなれた自分を呼ぶ声に風丸は振り返る、と同時に思わず困ったような表情をしてしまった。花織を連れ、手を振る宮坂に風丸は再び微苦笑を漏らす。まさか本当に花織をつれてくるとは思わなかったのだ。加えて宮坂の口ぶりだと、まるで風丸が花織を連れてくるように言いつけたふうにも取れる。決してそうではないのに。風丸は花織の表情を窺う、嬉しそうな宮坂の傍に立っている花織は、戸惑いの表情を見せていた。
「お前なあ……。勝手なことしてると先輩に怒られるぞ?」
呆れた口調で風丸が言うと、噂をすればという風に宮坂を呼ぶ三年生の先輩の声がこちらまで届いた。呼び出しをくらい、風のように走り去った宮坂に風丸は思わずため息を漏らした。そしてちらりと花織に視線を寄せる。
改めて花織を見ると、髪型が違うためか全く違った印象を受ける。今日初めて会った時に感じた印象は、大人しい物静かで目立たないタイプ。多分、俗にいう守ってあげたいタイプなのだろうと風丸は感じていた。しかし今の彼女は活発とは言わないが、凛としていてまるで一匹狼のような雰囲気を纏っている。さっき走っている姿を見たせいか、その印象深さが浸透していて、美しいと思ってしまった。風丸がまじまじと自分を見ているのが気になったのか、花織はさっと目を逸らした。
「迷惑……、だった?」
「い、いやっ、そんなことはない」
先刻は困ったように自分を見ていたから花織は、風丸が自分の存在を迷惑に感じたのではないのだろうかと思ったようだ。花織に見惚れていた風丸は慌ててそれを否定する。そうすると花織は目に見えて安堵の表情を見せた。
「そう、よかった……。先輩といるの、ちょっとしんどかったから」
柔らかく、そして嬉しそうに微笑む花織に思わず風丸の心臓が大きく音を立てた。よく分からないこの鼓動に疑問を感じながらも風丸も花織に笑って見せた。
しばらくして宮坂は戻ってきた。先輩に軽く注意されたようだが、彼はそこまで気落ちしているふうでは無さそうで、はしゃいだ声で花織と風丸に言葉を掛けた。
「さぁ、走りましょう!! 風丸さんも!」
宮坂の声に急かされて花織と風丸はスタートラインに並んだが、花織は少し緊張していた。何しろ相手は男子、普通に考えて身体能力値から見て勝ち目はない。それは彼女の中で強い対抗意識を生んだ。先ほどは久しぶりにフィールドを駆ける心地よさ以外に何も思わなかったのだが、今になって酷く緊張がこみ上げた。負けられないのだ、彼女は。
スターティングブロックに足を置き、ちらりと横を向けば、花織の瞳に隣に並んでいる風丸の横顔が目に映る。男らしい真剣そうな表情に、思わず花織の目が大きく見開かれる。胸が大きく波打つのを感じた。既視感のある感情だった。
ホイッスルの音と共にスタートダッシュを成功させ、前へ出たのは花織だった。再び感じる、全身を風が包み込むような感覚。このまま走りきれば。花織は絶好の駆け出しを実感する。だがそれを易々と青髪が追い抜いて行った。
速い……! 花織がそう感じたときには既に時遅し、風丸が完全に先頭に躍り出ていた。そしてそのまま彼との差は広がらず狭まらず、花織はゴールラインを通過した。
「うわあ! 月島さん速かったです、女の子なのに」
感心した様子で宮坂が言う。花織は宮坂には何とか僅差で勝ちを納めていた。
「ありがとう。でも風丸くんには追い抜かれちゃった」
宮坂の言葉に笑って見せる花織だったが、内心とても複雑だった。彼女にとって誰かに敗北したこと、そして後ろから追い抜かれたことが酷く胸を締め付けていた。短距離で後ろから抜かれるというのはかなりの実力差があるということに他ならない。相手が男子だということを差し引いても花織にとって辛い事実であるということには変わりない。
彼女は風丸とのスピードの差が、花織が心から想う人との距離そのものに思えたような気がした。一瞬だけ寂しげな表情を花織は浮かべる。もうこれ以上遠く離れることもない、しかし狭まることもないあの人との距離。陸上など、負けてしまえばその他大勢と変わりはしない。結局、あの人も花織のことをその他大勢としか見ていなかった。帝国学園一速い、と賛辞してくれた言葉は嘘だった。あの時、どれだけ胸が痛かったことか。
「月島?」
「……えっ?」
ハッと風丸の声に花織は我に返る。ちらりと風丸の方へ花織が視線を寄せれば、ほんのりと頬を赤く染めた風丸が真っ直ぐに花織を見つめていた。
「あのさ、その。もし、月島さえ良かったらこれからも一緒に走らないか?」
「え、でも」
私は風丸くんに全く及ばないのに、という言葉を花織は続けることができなかった。私は彼に劣るのだ、彼に私は邪魔だろう。そう思ったのに、風丸は柔らかく優しい表情で花織を見つめていた。花織と一緒に走りたい、心からそう思ってくれているのだろうと感じさせるような笑顔。
「いいんだ。一緒に走った方がお互いを高めあえるだろ?」
「……うん」
風丸の優しい笑顔に、花織はつられて表情を緩めた。風丸の言葉が本当に嬉しかった。自分を認め、必要としてくれている。そう思うと胸がきゅっと締め付けられるような気がした。ふたりは言葉もなく見つめ合う。だがそんなふたりの間に宮坂が何かに気づいたように声をあげて割り入った。
「……それって俺じゃ不足ってことですか!? 風丸さん!!」
風丸の言葉に宮坂が迫る。そうは言ってないだろ、と風丸が苦笑を漏らしながら宮坂を宥める。その光景が何だか花織には微笑ましく、彼女は口元に手を当て、くすっと表情を綻ばせるのだった。
花織が風丸に負けたことで複雑な思いを抱いているのと同様に、風丸もまた花織と共に走ったことで、花織に対して、今まで他の誰にも感じたことのない感情を抱いていた。自分には劣るが、十分に彼女は速かった。ずっと一緒に走っていたいと思った。そんな思いから勝手に口を突いて出ていた言葉。女子を練習に誘うなど初めてだった。自分でもどうかしているのではないかと思うような気持ちだった。それでも不思議と花織のことが気に掛かり、しきりに視線を寄せてしまう。
今の陸上部に風丸よりも速い人物はいない。だからこそ今、一緒に彼女とフィールドを駆けてみて思うのは、彼女の能力値の高さへの賞賛だった。女子がこれほどのスピードを持っているなどかなり稀だと思う。全国に通用するレベルだと言っても遜色ないかもしれない。
そして直感した、彼女となら自分を高め合って行けると。彼は謙虚な性格をしていたが、自分のスピードには自信があった。だから思った、自分のスピードに近いものを持っている花織となら良いライバルになれるかもしれない、と。先輩や同期、そして後輩でなく、出会ったばかりの少女に対してこんな思いを抱くのはどこか妙な気がした。どうかしている……、風丸は胸の中で自分に対し小さく呟いた。