エピローグ
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風丸と花織は生徒のいなくなった雷門中学に足を踏み入れた。この十年の間に雷門中学は立て直しが行われており、見た目も建物も大きく変わってしまっている。サッカー部の扱いも良くなっていて、あのぼろぼろの部室の代わりにサッカー棟なんてものが建てられたという。
だが風丸と花織がやってきたのはサッカー部縁の場所ではなかった。変わらない陸上グラウンド、そしてその傍に在るベンチ。ベンチは新設されているようだが、配置は変わっていなかった。花織は懐かしさでいっぱいになって辺りを見回す。風丸はそんな花織を微笑ましげに見つめていた。
「懐かしい……。ここに来るの、何年ぶりかな」
ぎゅうと締め付けられるような胸の痛み。この場所にはいろんな思い出が詰まっている。サッカー部の誰も知らない、花織と風丸の始まりの場所。
十年前この場所で初めて彼と一緒に走った。彼のスピードにかなりの衝撃を受けたこと、そして負けたことがとても悔しかったことをよく覚えている。あの日から彼をライバルとして走るようになって、そして彼の優しさに触れることになった。
中学生の頃の未だに褪せない懐かしい記憶。花織は風丸を振り返った。花織はハッと目を見開く。一瞬、自分よりも背の高い、髪を高く結い上げポニーテールにした中学時代の風丸が見えたような気がした。
「……」
花織の瞳が大きく揺れる。今、自分の目の前で微笑んでいるのは、紛れもなく二十四歳になった大人の風丸一郎太だ。自分よりも十センチ以上高い身長、自分と同じくらい長い髪。もうすっかり大人になってしまった彼の姿がそこにある。ただ……、変わらないのは自分を優しく見つめる茶色の瞳だけ。
十年という長いようで短い時間を共に歩いてきた。時に傷つけ、それでも支え合いながらふたりで寄り添って歩いてきた。この場所に来れば思い出す、胸が張り裂けそうなくらいたくさんある青春の日々を。
「花織」
風丸が花織の名を呼んで手を差し出す。大きな手、あの頃よりもずっと大きくたくましくなったその手に花織はそっと自らの右手を預ける。彼はタータンの上を歩き、スタートラインに立った。風丸は花織を見つめて微笑む。
「行こう、花織」
スタートラインを越えて、彼らは歩き始めた。静かにゆっくりと柔らかいタータンを踏みしめていく。青葉がそよ風に揺れていた。花織は自分に合わせて歩く風丸の顔を見上げる。風丸は花織の視線に気づいて、少し迷ったように目を伏せ、そして心を決めて彼女に話し始めた。
「花織。今まで俺の傍にいてくれてありがとう」
花織は思わず声を漏らして驚く。彼の口から出てきたのは思いにもよらない、花織に対する今までの感謝の言葉だった。風丸は静かに語り始める。あの頃より低く、落ち着いた声色で。
「俺の人生は振り返ってみればサッカーばかりだ。十年前サッカーを始めたあの日からずっとこの場所を走ってきた。……ずっとお前と一緒だった」
初めて帝国学園と試合をした時、彼は助っ人として雷門サッカー部に参加した。その理由には少なからず花織の存在があった。ゴールラインを越えてそれでも風丸は歩き続ける。花織のサッカーの始まりは風丸だと言うが、風丸のサッカーの始まりにも花織の存在があった。
「花織は俺がサッカーを始めたときからずっと俺を支えてくれたよな。俺が何もかもに絶望してダメになった時だってお前はいつも隣にいて俺の手を離さないでいてくれた」
一歩一歩、階段を上りながら思い出す。地上最強を求めた過酷な旅に彼は疲れ果て、そこから逃げ出したことがあった。それでも花織はずっと自分の傍で自分を支えようとしてくれた。力に目の眩んだ自分を彼女の声が目覚めさせてくれた。
「花織がいなかったら今の俺はここに居ない。花織がいないサッカーを俺は考えられない」
花織がいたからサッカーを始めようと思った。花織がいたから、強くなりたいと努力した。守るための力が欲しいと願った。彼女の声援が力に変わるから今まで走り続けられた。
陸上グラウンドを出て、来た道を戻る。青々とした葉の揺れる木々が並んだサッカーグラウンドへ。新たな始まりの場所へ、ふたりは足を踏み入れる。
「俺はこれからもこのフィールドで走り続ける。お前の隣で誰より近くで、これからを、いつまでもお前と一緒に走っていきたいんだ」
風丸の気持ちは十年前から変わらない。彼女の走る姿をみたときの衝撃を今でも覚えている。風丸は自分を黙って見上げている花織を見つめた。誰よりも美しく可憐だった少女は、あの頃よりも大人びて益々綺麗になった。短かった髪も揃いにするという約束を守るため、風丸と同じほどに伸ばしてくれそのままだ。艶やかで美しい黒髪が風に靡いている。
「花織」
ぴたり、とセンターサークルの中心で風丸の歩みは止まった。彼は両手で花織の左手を取って静かに花織を見つめる。優しい茶色の瞳が花織の瞳を覗き込んで、愛おし気に微笑んだ。大人になった彼女の中で唯一変わらないのは、彼女の黒い瞳だ。意志の強く優しい、いつも自分を応援してくれる大好きな瞳。十年という長い月日の間傍に居てくれたこの世界中で何よりも大切な人。
「愛してる」
その言葉と同時に、夕闇に街灯の光が灯る。まるで未来を照らすような眩しいその光は未だに彼女の胸に飾られたペンダントをキラキラと輝かせた。風丸は彼女のそんなところも愛おしく思う。初めてデートをしたあの日、風丸が花織に贈ったペンダント。十年たった今も、彼女は肌身離さず身に着けてくれている。彼女のひとつひとつ、何もかもが風丸にとって愛おしい。
「初めて走ったあの日から、この気持ちはずっと変わらない。十年前に誓ったお前を守るという言葉、一度だって揺れたことなんかない。俺の全てを掛けてお前を守ると何度だって誓うよ」
フットボールフロンティア・インターナショナル決勝戦の朝。これからずっと花織を守ると誓った。円堂大介の最後のノート心のその三”ソコナシノヤサシサ”今もその心は消えず彼の力の支柱となっている。それは花織がいたからだ。
「だから、花織」
目を細めて風丸が花織の名を呼んだ。涼やかな風がふたりの髪を揺らす。風丸は花織を見つめ、花織は風丸を見ていた。他の誰も、映りはしない瞳。風丸は静かに地に片膝を付いて、花織に傅く。真摯な瞳が花織を見上げた。
「俺と結婚してほしい」
その言葉は十年の関係を打ち壊す言葉だった。静寂の中に彼の決意が凛と響く。花織は僅かに目を見開いて、それでも風丸のことを見つめていた。風丸は僅かに顔を赤く染め、強く花織の手を握りただひたすらに言葉を紡ぐ。
「花織を、俺の全てを掛けて幸せにする」
その大きな黒い瞳から静かに涙が零れ落ちた。花織は目を伏せ、彼の告げてくれた大きな決意を飲み込んで、目を伏せる。胸がいっぱいで、心がどうにかなってしまいそうだった。ずっと望んでいた言葉だった。花織の夢だった。
「返事を聞かせてくれないか」
微かに花織の手を握る彼の手が震えている。花織は声にならない声を漏らして、込み上げてくる涙を堪えた。ゆっくりと瞼を上げ、前を見る。大好きな彼、愛している人。緊張した顔でいるなんておかしいよ。返事なんて言わなくたって分かっているくせに。
「一郎太くん……、私は」
絞り出すような涙声で花織が風丸を呼ぶ。風丸は何も言わずに花織の言葉を待った。花織は右手の人差し指で涙を拭う。きらり、と光を受けて彼女の小指に嵌められたそれが輝く。これも風丸が花織を守ると言ってくれた証。
「これからも一郎太くんの隣を走っていたい」
濡れた瞳が柔らかく微笑む。
「私でよければ、喜んで」
その言葉と同時に風丸は立ち上がって花織を抱き寄せた。花織は彼の胸に頭を預けて目を伏せる。心臓の音が大きく聞こえる。風丸は花織の身体を掻き抱いて、はあっと緊張が解けたように息を吐いた。
「待たせて悪かった。ちゃんとお前を幸せにできる自信がついてから言おうと思っていたんだ」
「……そんなことだろうと思ってた」
泣きじゃくる花織の顔を覗き込んで風丸が言えば、花織は喜びの涙を流しながら笑った。風丸は照れたように苦笑する。そしてポケットからあるものを取り出して花織の前で開いた。
「ずっと前から渡そうと思ってた。……着けてくれるか?」
「……うん」
風丸は花織の左手の薬指にそれをぴたりと嵌める。彼が花織のために選んだ婚約指輪はシンプルだが、中央の台座に嵌められたダイヤモンドが光を集めて煌めいていた。花織は感嘆の息を漏らして自分の左手に嵌められたそれを見つめ、また静かに涙を零す。今度は風丸の大きな手が、花織の涙を拭った。
「これからも一緒に走っていこう、花織」
花織は風丸の問いかけに頷く。今この場所で、ふたりのサッカーの始まりの場所で、新しい物語がスタートする。きっと幾多の困難が彼らを阻み、壁が立ちふさがるだろう。それでもふたりは結ばれる、永遠に。誰よりも強く。
これが風を愛した、愛し合うふたりの物語の新しい生まれ日だった。
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