FFI編 第十二章
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青地に白のライン、赤のポイント。背中の番号は二番。花織は自室の姿見の前で自分の姿を確認して合宿所を飛び出した。レプリカとは言え日本代表と同じユニフォームに袖を通して、今の彼女の心は今日の曇天など気にならないほど浮足立っていた。
……一郎太くんと、お揃い。
気持ちが晴れやかなせいか、いつもよりも速いペースでランニングコースを駆けながら花織はきゅっとユニフォームの胸元を握りしめる。彼女が身に纏うそれは風丸が着ているそれとは決定的に違うものだけれども、花織にとってこのユニフォームは特別だった。自分だけのものではないのだけれども風丸の背番号を背負って走れる。胸がドキドキして、言いようのないでも心地いい胸苦しさに身を包まれて彼女は唇を噛む。自然と体の底から力が湧くようだ。
さらさらと彼女の黒髪が揺れた。身体が軽い、気持ちも軽やかで弾むようだ。今朝、何度も鏡の前で自分の姿を確認した。風丸と同じ背番号のユニフォームを身に纏った自分に照れくさくなって笑って、それでも何となく優越感に似たようなふわふわした気持ちが花織を包んだ。風丸が好きなのだ、と周りにアピールできるそれがファンの領域を超えないのだとしても、それでも昨日より気分がいい。
「ウィンディ!」
セントラルパークいつもの場所でスカイブルーの髪の少年の姿を見つけて彼女の方から声を掛けた。いつもならばウィンディの方が声を掛ける方が先だ、だが今日の彼女はもしかして自分の姿を彼に見てほしかったのかもしれない。
「カオリ! おはよう……っ」
俯いて立ち尽くしていたウィンディは、耳に届いた花織の声に目に見えてパッと表情を輝かせて花織の方を振り返った。だがその表情は彼女の姿を捕らえて硬直する。
「おはよう、今日も早いんだね」
花織が立ち止まって晴れやかに微笑む。ウィンディは彼女がいつになく上機嫌であることにすぐに気が付いた。いつも輝いている花織の笑顔が益々キラキラしていて魅力的だ。……でも。ウィンディは眉を顰めて目を凝らす。息を整えている彼女にウィンディは核心をついた。
「今日は、ジャパンのユニフォームを着てるんだな」
「う、うん。……どう、変かな?」
頬に手を当てて少し恥ずかしそうに花織がウィンディを見つめた。恥じらっている表情が慎ましく可憐であるが、ウィンディにとって大事なのはそこではなかった。ちら、と身体をウィンディから背けた彼女の背中の番号が見える。二番……、ウィンディと同じ番号。だが、それは。
「変じゃない。けど、アイツの番号なんだな」
「……うん」
恥ずかしそうに花織がはにかんで口元を隠した。白い頬が桃色に染まっている。だがそれはきっと走ってきたからというわけではないだろう。ウィンディはさっと自分のスカイブルーの髪を払う。花織は可愛い。だが、面白くない。
ウィンディは知っていた。花織が身に纏うユニフォームが誰のものなのかを。背中に刻まれているその名を読まなくともはっきりとわかる。
……アイツのユニフォームを着て、喜んでるなんて。カオリには俺のユニフォームの方がよっぽど似合ってる。
気が付かぬうちにウィンディは眉間に深く皺を刻んで忌々し気に花織の身に纏うユニフォームを睨んでいた。自然と怖い顔をして考えに耽るウィンディ。そんな彼に何かあっただろうかと花織が心配そうな顔をしてウィンディの顔を覗き込んだ。
「ウィンディ?」
「……っ」
じっと自分を見上げている花織の視線に気が付いてウィンディは少し仰け反った。かあっと顔が熱くなる。彼女の顔がいつもよりも近かった。黒い綺麗な目が自分を見つめていて、その中に自分が映っている。心臓が大きく脈打つのを感じた。本当に今日は苛立ったりときめいたり忙しい心臓は全く持って落ち着かない。
「もう行こう。なんだか雨が降りそうだ」
少しぶっきらぼうにウィンディが花織に言いながら、彼女に背を向けて走り出した。花織もウィンディに連れて足を踏み出す。確かにあたりには雨の匂いが立ち込めている。彼らが駆けだして間もなく、ウィンディの言った通り、灰色の空からは雨雫がぽたりと地面に落ちた。
最初は大したことのない雨だったのに、彼らが走り出して間もなく雨はザアザア降りへと変わった。雨足が強くなり始めてまだ数分と立たないというのに道には水たまりができ始めている。ウィンディも花織も手で雨よけを作りながら、パシャパシャと水を踏んで走る。
「とりあえず、屋根のある所を探そうぜ」
「……うんっ」
本当にひどい雨だ。真っ黒な空から大粒のしずくが数えきれないほど滴っている。とにかく屋根のある場所を探さなければ。まだ朝が早いせいか、今まで通ってきた道にある店はまだ開店すらしていなかった。ウィンディは雨に足を取られスピードを落としている花織に手を差し出す。
「カオリ、手を……」
その時だった。二人のすぐそばを物凄いスピードで車が走り抜ける。咄嗟のことで反応ができなかった。ウィンディは目を見開く。彼らの隣を通った車は勢いよく水たまりの泥水を跳ね飛ばした。
「きゃっ……」
その場で花織が蹲ってしまう。車が跳ね飛ばした泥水は花織の身に纏ったユニフォームを穢した。清々しいユニフォームの青色は腹部から胸元にかけて茶色く濁った色に変わっていた。
突然の出来事にも関わらず、花織の表情がスローモーションのように見えたウィンディは息を飲んだ。彼は見た。花織の表情が酷く傷ついた様にまるで今の空のように曇ったのを。今にも泣き出しそうなほど彼女の瞳が揺れたのを。
「カオリ、とにかく屋根の下に」
ウィンディが花織の手を少し乱暴に引っ掴んで駆け出した。もつれそうな足取りで花織はウィンディについていく。何とか開いている店を見つけて二人はそこに駆け込んだ。ウィンディは店の奥に進み、手洗いの前で立ち止まる。
「カオリ、大丈夫か?」
「うん、平気。ちょっと服が汚れちゃったけど」
泥だらけになったユニフォームを指先でつまんで引き伸ばして、びしょびしょの彼女が困ったように笑う。まるで繕ったような笑い方だった。無理もない、今の彼女は笑っていられるような状況ではないほどに泥だらけだ。
でも、彼女の微笑みには言いようのない痛々しさがあった。泥だらけになったユニフォームを見つめて彼女は黙り込んでいる。今朝会った時の彼女と比べるとその表情があまりにも痛々しくてウィンディは見ていられなかった。自分のジャージの上を脱ぎ、花織に突き出す。
「カオリ、ユニフォームを脱いでこれを羽織ってろ。濡れてるけど、そのユニフォームよりはマシだ」
「え、いいよ……。ウィンディのジャージが汚れちゃう」
驚いたような表情で花織が静かに首を横に振る。だがウィンディは真剣な顔で花織に自分のジャージを押し付ける。花織の肩を掴めば、彼女の服は自分のものよりも明らかにびしょぬれなのがわかった。
「このままそれを着ていたら、風邪をひく」
「大丈夫だよ、平気……」
だが意地でも彼女はそれを飲まずに首を振る。ウィンディは顔を顰めて花織のことを見つめた。花織の潤んだ瞳が自分を見上げる。今にも頬に零れてしまいそうな彼女の涙。彼女を動かす言葉は自然と分かった。
「カオリ!」
少し強い口調でウィンディが花織を呼ぶ。
「そのユニフォーム、汚れたままにはしとけないだろ」
つうっと彼女の瞳からひとしずく涙が零れ落ちた。ウィンディは今日彼女に会った時から気が付いていた。花織がどれだけ自分が身に纏ったユニフォームを大事に誇らしげに思っているのか。何しろ今日の彼女はいつになくキラキラと輝くようだったのだから。そのユニフォームを汚されて彼女がショックでないわけがない。
「タオルとか、買ってくるから。とりあえずそれ着とけ」
「……うん」
ウィンディの強い瞳に押されて花織はようやく頷く。ウィンディの手からコトアール代表のジャージを受け取って、ウィンディに背を押される形でトイレに押し込まれた。荷物かけに彼のジャージを掛けて、自分の身体にぴったりと張り付いた茶色いユニフォームを何とか脱ぐ。ひやりと冷たいエアコンの風が花織の晒された素肌を舐めた。
……一郎太くんと同じ、ユニフォーム。
大事な大事な、彼と同じ背番号のユニフォーム。泥だらけに汚れてしまって……。彼が好きだとアピールするために今日はこれを身に纏った。だが汚されたことにより彼が好きだと主張してはいけないのだと言われているような気持ちになってしまった。
なんだか胸が酷く苦しくなって天井を見上げる。ライトの光が目に染みて涙が零れた。だがぐっと息を堪えて花織は手に握ったびしょびしょのユニフォームの泥を水道の水で洗い落とした。ユニフォームは誇り。たとえレプリカであってもそうだ。だからだろうか、自分にとっての大切な何かを汚されてしまった気持ちがぬぐえなくて胸がキリキリと痛んで仕方なかった。
❀
下着の上から直接ウィンディのジャージに袖を通して花織はトイレから出た。花織がトイレから出てくるとウィンディが外で待っていて、花織にタオルで髪を拭かせ、脱いだユニフォームをビニールに入れさせた。彼はてきぱきと花織のために動き、対応をしてくれた。
「ありがとう、ウィンディ」
真新しい匂いのするタオルで髪を拭き終えて花織が、申し訳なさそうにウィンディに言った。ウィンディはこのくらいなんでもない、とまだしっとりとする花織の髪を撫で、花織の手を引いて合宿所へ戻ろうと言った。花織が着替えている間にいつの間にか購入していた一つの傘に二人で入り、日本の合宿所への道を歩く。
……それにしても。
ウィンディはちら、と同じ傘に入る花織を横目で見る。自分のジャージを身に纏った花織。ウィンディはどきりと胸を高鳴らせる。見ているだけで何となく顔が熱いような感じがした。
彼女にとってウィンディのジャージは多少大きいようだった。ぶかぶかとまではいかないが、袖が余っているところを見るとやはり大きいのだろう。自分のジャージを身に纏っている彼女を見ているとまるで花織が自分のものであると主張しているようで、不思議と満足な気持ちになった。
「カオリ……」
「ん?」
「もっとこっち、濡れるから」
さり気無く肩を抱き寄せて花織が濡れないように傘を傾ける。ありがとう、と花織が優しく微笑む。ウィンディは無性に恥ずかしくなってぎゅっと唇を噛んで花織から顔を背けた。何て、可愛いのだろうか。顔が熱くって仕方がない。彼女が抱えている不透明なビニール袋の中身さえなければ完璧なのに。