FFI編 第十章
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朝、一日の始まりは不愉快な感情なく始まる。昨晩、吹雪がマフラーを巻いてくれたおかげだろうか、花織は幾分軽い気持ちで目覚めることができた。ただ、もっと頑張らなければならないという気持ちだけはさらに高まっていた。
まだ夜も明けないうちに彼女は目を覚まし、顔を洗って意識を覚醒させた後、すぐにミサンガを編み始めた。朝は良い、日中の出来事を感情に含むこともなく作業ができる。彼女はただ風丸の事だけを考えて、そして時折願いを呟きながら一つ一つ丁寧に糸を編み続ける。
五時を過ぎれば洗濯機を回し、順次外に干す。六時を回れば朝食の下ごしらえを秋たちが降りてくる前に済ませてしまう。昨夜、効率よく動くためのスケジュールを組んだ。よりイナズマジャパンのマネージャーとして役に立てるように。
いつもこなすトレーニングやストレッチは考え事をしてしまいやすい夜に組み込んだ。明らかにオーバーワークだった。イナズマキャラバンで行動していた時だって、ここまで無理を押して練習はしていなかった。だが、花織は自分を身体的に追い込むことで余計な嫉妬心と不安を払おうとしていた。
「一郎太くんが試合で活躍できますように」
ただ今は、一日がまだ何の色にも染まらない朝いちばんはひたすらに風丸のことを想い、指を動かしていく。丁寧にゆっくりと祈りを織り込み、ただ愛しい彼の為、ミサンガを編んでゆく。
「一郎太くんと、また一緒に走れますように……」
彼のことばかり考えていたからだろうか。ふいに心からの願いがぽろりと零れる。いけない、今はFFIでの彼の活躍だけが願いなのだから。花織は首を振って今編んだ部分を解き、再度編みなおす。
「一郎太くんが誰より速く走れますように」
丁寧に丁寧に糸が編み込まれる。彼のための祈りを込めたトリコロールがまだ寝静まる日本代表の合宿所の一室で刻まれていた。
❀
ウィンディ・ファスタは朝のランニングを終えて、合宿所内の電話機の前に佇んでいた。国には無い、イマイチ使い方の分からないこの機械。彼は一枚の紙を握りしめてじっと電話機を見つめている。
今日こそ会えることを願っていた。だが今日も彼女は来なかった。彼は会えないことに落胆してしまうのだけれども、先日あった時、今は事情があって走れない、と言っていた。まだその事情が解決していないということなのだろう。それは仕方のないことだ。
そして時刻は現在午前六時を過ぎたところ、おそらく向こうの合宿所も起床時間を迎えているはずだ。朝の時間は貴重だというが、きっと彼女なら、起きて今日の支度を終えているだろう。あんな時間に起きて走っていた習慣が身についているなら間違いない。
一分でも一秒でもいい、とにかく声が聞きたかった。だからこの機械の使い方を学んでここに立っている。朝からは迷惑だと分かっているが、朝一番に彼女の声が聞きたいとも思った。
ウィンディはそう思って受話器を持ち上げる。握りしめた紙に書かれた番号をゆっくりと確認して押してゆく。最後の番号を打ち終えて呼吸を置くと、プルルルルと聞き慣れない奇妙な音が耳元に聞こえる。
”出てくれる確証はないわよ”
この番号を強引に聞き出し、渋々教えてくれた彼女がそう言っていた。なんでもウィンディがその彼女に聞いた話によると、日本では知らない番号の通知に応対する人間は少ないらしい。
ワンコール、ツーコール……。延々と続くコール音にウィンディは少し不安な気持ちになる。ダメか、と思い落胆のうちに受話器を彼がおこうとする。そんな時に受話器から緊張したような声が聞こえた。
『も、もしもし……? どちら様でしょうか』
ウィンディはバッと受話器を耳にめり込まん勢いで押し当てる。彼女の声、聴きたいと思っていたあの声。喜びからウィンディの表情が綻ぶ。
「おはよう、カオリ。俺だ、ウィンディだ」
『えっ、ウィンディ? ……どうしてウィンディが私の番号を?』
困惑したような彼女の声。ウィンディは正直に彼女に理由を語る。
「ジャパンの他のマネージャーに聞いた。こんな朝早くに、いきなり連絡してすまない。でもカオリの声が聴きたかったんだ」
顔の見えないもどかしさを感じながらもウィンディは一心に受話器に語り掛ける。彼女の息遣いからまだ混乱している様子は伝わったが、彼女は電話の相手がウィンディだと分かって少し安堵したようだった。
『あ……、そうなんだ。ちょっとビックリしちゃった。知らない番号だったから』
「すまない。でも朝からカオリの声が聴けて嬉しい。今日もこれで練習を頑張れそうだ」
相手がウィンディだとわかり、安心したからだろうか、彼女の声が心なしか和らぐ。耳に心地よい優しい声色がウィンディの心を擽る。だが今日はそう長電話はしていられない。彼女も忙しいだろう。
「突然連絡して悪かった。今日は唐突だったからもう切るよ。……なあカオリ、時々で良いんだ、また連絡してもいいか?」
ドキドキと緊張で高鳴る胸を抑えながらウィンディが問う。もしも断られたらきっと立ち直れない。彼女が電話越しに少し考えているような沈黙を醸す。そしてウィンディにやわらかい声で返答した。
『忙しい時は出られないかもしれないけど、それでもいいなら良いよ。電話くらいなら』
よし、思わずウィンディは受話器を持っていない方の手でガッツポーズを取る。そしてにやける口元を抑えながら、気持ちを抑え電話越しに聞こえる声に対応した。
「ありがとう、カオリ。じゃあまた連絡するな。デートにもまた改めて誘いに行く」
それじゃあ、と言ってウィンディが電話を切ろうとするとあっ、と引き留めるような彼女の声が聞こえた。ウィンディは素早くぴったりと受話器を耳に当てる。
「どうした、カオリ」
『ううん、なんでもないよ』
花織は優しい声でウィンディに言う。
『……今日も練習頑張ってね、ウィンディ』
「……っ」
きゅん、とウィンディの胸が鷲掴みにされたように締め付けられる。彼女が掛けてくれた何気ない一言はウィンディにとって最高の殺し文句だった。彼の褐色の頬にほんのり赤みが差す。
それじゃあね、と電話が切られ、虚しいコール音が響いてもウィンディは浮かれる心を落ち着けるのに必死だった。ドキドキと今も大きく拍動する心臓を落ち着けながらウィンディは受話器を置く。腰に左手を当てて、にやける口元を右手で隠した。とっても素敵だ、彼女は。
「楽しそうだな、ウィンディ」
舞い上がる気持ちを噛み締めていたウィンディを茶化すような声が呼ぶ。我に返ったウィンディが背後を見れば、彼のチームのストライカー、ゴーシュとケーンの姿があった。
「愛しのハニーにでも連絡してたのか?」
バン、と手を銃のように形作り、打つような動作と共にゴーシュがウィンディを茶化す。ウィンディは顔を真っ赤にしてゴーシュから目を逸らした。
「ま、まあ……。そんなところだ」
「ヒュー、やるじゃないか」
ゴーシュが口笛を吹き、感心したようなからかうような口ぶりでウィンディに言う。ケーンは穏やかに笑ってウィンディに言葉を掛ける。
「あの時の黒髪の子でしょ、ウィンディ。よかったじゃないか。話、できたんだろ?」
「一体何を話してたんだ?」
面白がっているゴーシュと、幼馴染のウィンディの恋路が微笑ましいとばかりに笑うケーン。ウィンディは益々照れくさそうに口元を抑える。彼女にストレートな言葉をぶつけるのは得意だが、周りから指摘されるのは少々恥ずかしかった。
「べっ、別になんだっていいだろ! ……俺、少し走ってくる」
ウィンディが風のように早く真っ赤になった顔を隠してその場から逃げ去る。残されたゴーシュとケーンは彼の後姿を見つめながら言葉を交わし合った。
「ウィンディ、朝練は終わったって言ってたのに」
「いいじゃないか、やる気も出たみたいで」
時刻は午前六時半。爽やかな朝の出来事だった。