FFI編 第九章
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しとしとと雨が降っている。この南の島に来てから初めての雨だ。選手たちはトレーニングルームで今は室内トレーニングをしている。午前中は雨の中でも外で練習をしていたのだが、風邪を引いてはいけないからと早めに練習を切り上げて室内練習に切り替えた。
花織は買い出しへ出るために仕度をしていた。今日は備品の買い足しに行かねばらない。秋は今日は用事があるといってどこかへ出かけてしまったし、春奈も冬花もそれぞれ仕事がある。一人で外へでるのは少々心配だが一人で行くしかないだろうか。
「花織」
靴を履き、傘の準備をしていると声を掛けられた。花織が振り返るとユニフォーム姿の風丸がそこに立っていた。タオルを首からかけて、伝い落ちる汗をそれで拭う。
「買い出しか?」
「うん、もう不足が色々出ちゃったから」
花織がそう言って微苦笑を漏らす。意外と消耗品がなくなるのが早い。今日はドリンクの粉だったり、救急箱の中の足りない備品を買いに行く。
「俺も行く、着替えてくるから少し待っててくれ」
言い聞かせるように花織に言って風丸は部屋へ戻るための階段を駆けて行った。花織は困ったように笑った。前回、アルゼンチン戦で円堂たちが試合に間に合わなかった件について説明する際、チームに影山がこの島にいることが知れてしまった。それからというもの、特に鬼道と風丸は花織を一人で合宿所から出そうとしないのだ。
花織も万が一のことがあってはいけないからなるべく不用意に外に出ようとは思っていない。だが彼女はマネージャーだからやはりやらねばならない仕事というものがある。だからこそこっそり買い出しなり洗濯なり、外に出なければならない用事を済ませようとするのだが、秋と春奈が二人に何かを吹き込まれているのか一人で外に出る用事は交代させられてしまう。
花織はそれを歯痒く感じていた。彼女は一人前の、彼に相応しいマネージャーでありたいのに、こうやってお付きがいなければ行動できないことが。しかも風丸の練習の妨げになっている、これが彼女の心にとってとても大きくのしかかるものがあった。またストレス解消法でもあったランニングすら封されているものだから、自分の中で昇華出来ない感情が蟠りのようになっている。
「すまない、待たせたな」
風丸が急いで階段を駆け下りてくる。ユニフォームからジャージに着替えており、微かに制汗剤の匂いもした。練習で疲れているはずなのに彼は何でもないように微笑んで花織の手を握る。
「行こうか、花織」
❀
風丸は紺色の傘を、花織は薄桃色の傘をさして街へ出た。雨の日はじめじめするし、練習ができないというのがかなり痛い。だが、こうしてふたりで語らいながら歩けるというのは悪くないとお互い感じていた。普段は忙しくて中々ふたりきりになる時間がないし、アジア予選の時には彼の自室へ訪室していたように彼の部屋を、夜間花織が訪れるのは色々危ういからやめようとふたりの間で決めていたからだ。だからこそ、こうして何も気にせず彼女と話ができることは風丸にとっては特に良い機会だと感じている。
「花織、疲れてないか?」
「ううん、平気だよ」
ふたりで過ごす時間を少しでも長くとりたいとお互いに思っているものだから自然と遠くまで足を伸ばしてしまった。買い物したものは全部風丸が持っているがかなりの距離を歩いてきただろう。でも花織もこの程度で疲れるほど体力がないわけではないし、純粋に風丸とふたりきりで過ごせる時間を楽しんでいた。先日は一緒に過ごすことがあまりできなかったからなおさらだ。
「一郎太くん」
「ん?」
「今日は一緒に来てくれてありがとう」
にっこりと心の底から嬉しそうに花織が風丸に微笑む。風丸はそんな花織に思わず胸をキュンとさせられる。彼女がとても愛しくて堪らなかった。本当なら今すぐに手を繋ぎたいくらいなのに、傘と荷物とが邪魔をしてそれができないのがじれったい。
「いや、俺も花織と居る時間ができてよかった」
「……うん」
目を細めて幸せそうに花織が風丸を見つめる。ああまだ帰りたくない、ふたりきりでいたい。どこかへ寄り道をしようかと風丸が花織に提案しようとしたその時だった。
「カオリ!」
風丸にとって聞きなれない声が彼女の名前を呼んだ。その少年は正面から花織に向かって走ってきて、いきなり花織の手を握る。風丸は思わず目を白黒させた。何だ、こいつは。
「最近会えなかったから心配したんだぞ。朝練やめたのか?」
「……う、ウィンディ?」
スカイブルーの髪の少年はものすごい剣幕で花織に迫る。花織はその勢いに押されて戸惑っているようだった。だがその少年の名前を知っていることと朝練、という言葉から二人は知り合いなのだということを風丸は察する。それにしても、世界には三人自分と似ている人間がいるというが、こうも似ている人間がいるとはと思考の隅で思った。が、今はそれ以上に大切なことがある。
「ずっと朝セントラルパークを走ってたんだ。カオリに会えないかなと思ってさ。今、時間あるか? この雨だ、ジャパンも練習できないだろ? どこか行こうぜ」
「あ、あの、ウィンディ……」
「国際間の親睦もこの大会の目的だろ。な、行こう」
あまりの勢いに困惑する花織にウィンディは畳みかけるように言う。強く花織の手を握りしめて真っすぐに花織を見つめるその目は、風丸に言わせれば完全に花織に特別な感情を抱いているとわかった。
何しろ花織の隣に立っている風丸が見えてすらいないのだ。風丸は眉間に皺を寄せてぐいと荷物を持った手で、花織が先ほどからウィンディと名を呼ぶ少年を押しのける。
「お前、誰だ。花織に何の用だ?」
冷え切った声と目でウィンディを見据えながら風丸が問いかける。急に押しのけられたウィンディはやっと風丸の存在に気が付いて不機嫌そうに顔を顰めた。
「……お前こそ誰だ。ジャパンのジャージ……、ということはカオリのチームメイトか」
花織に接していた時より低い声でウィンディが反応した。花織を他所に二人は睨み合う。先に名乗ったのはウィンディだった。
「俺はウィンディ・ファスタ。コトアール代表、リトルギガントの選手だ。で、お前は?」
南アフリカの代表かと風丸はウィンディをじっと睨む。花織の前に立ち塞がってウィンディが花織に手出しできないようにした。花織は二人の雰囲気の悪さにどうすることもできずに立ち尽くしている。
「俺は風丸一郎太。イナズマジャパンの代表で、花織の恋人だ」
「コイビト?」
聞き慣れない単語にウィンディが顔を顰める。風丸は睨み合ったまま、はっきりとウィンディに宣言した。
「ボーイフレンド、だ」
どき、と花織は風丸のその紹介の仕方に胸がときめくのを感じる。こんなに男らしく紹介してくれるとは思わなかった。ウィンディはその言葉に衝撃を受けたようで益々眉間に深い皺を寄せ、風丸から視線を逸らして花織を見つめた。
「は?それは本当か、カオリ」
「うん、一郎太くんは私の……」
花織が改めて風丸を紹介しようとするが、それよりも速くウィンディがキッと風丸を睨みつけた。先刻よりもさらに殺気に近いものを孕んでいる。風丸も負けじと睨み返し、むしろ勝ち誇ったような笑みを見せる。だから近寄るなよ、風丸の微笑みはそう言っていた。
「お前がカオリのボーイフレンドだろうが関係ない。俺とカオリが話したり、出かけるのを止める権限なんてないだろ」
「……っ」
口の減らないウィンディに今度は風丸が苦々しい表情をする。だが、それは花織がこの男を迷惑だと思っていなければの話だ。今彼女は明らかにウィンディの襲来に戸惑っていた。さほどは親しくないのだろう。
「それは花織が迷惑じゃなかったらの話だ。花織がお前を迷惑だと思ってるなら、俺は花織の彼氏として花織を守る義務がある」
「カオリが俺を迷惑だなんて思うわけないだろ? 一緒に朝のランニングをした仲なんだぜ?」
ふふん、と自慢げにウィンディが笑った。そんな事は知らない、とばかりに風丸の表情が引き攣る。花織が影山の話が上がるまで、早朝に走っていることも、彼女が隠していたから知らなかった。
「な、カオリ?」
ずいと風丸を押しのけてウィンディは花織に笑顔を向ける。
「め、迷惑だとは思ってないけど……」
その続きも聞かないでほれみたことか、と言わんばかりに今度はウィンディが風丸に勝ち誇った笑みを見せる。膠着状態のまま二人はじっと花織を間に挟んで睨み合う。
「おーいウィンディ、何でいきなり走り出した……」
突如後ろから黒い傘をさして走ってきた緑髪の男がウィンディを呼んだが、あまりの重い空気に口を噤む。ウィンディはちら、とそちらを振り返って憎々し気に風丸を見るとはっきりと宣戦布告をした。
「カオリ、今度ジャパンエリアまでデートに誘いに行く。こんな鈍そうなボーイフレンドなんて放っとけよ」
そう言ってウィンディは素早く花織に顔を寄せ、ほっぺたにちゅっと軽く口づけた。花織はびっくりして頬に手を当て、風丸は思わず目を剥いた。ウィンディは花織だけに微笑んでひらりと手を振った。
「じゃあまたな、カオリ!」
そのまま迎えに来た緑髪の男と共にウィンディは去っていく。風丸と花織の間にはしとしとと雨の音だけが響いている。あまりの出来事に呆気に取られていた風丸はハッと我に返ると傘も荷物もその場に落とす。
「きゃっ、一郎太くん」
そして花織の頬に触れ、ごしごしと先ほどの出来事をなかったことにするために花織の頬を優しく手で擦った。花織は風丸の方に傘をさしかけて、だが何も言えずに押し黙っている。今の風丸は不機嫌そうでとてもではないが声を掛けられるような様子ではない。
「花織」
普段なら人目を気にするはずの風丸が、人目などお構いなしに花織の頬に口づけを落とした。まるで消毒だ、と言わんばかりだ。そしてそのあと唇にもキスを落とす。ざわ、と周囲の通行人が騒めいたような気がしたが、それでも風丸はしれっとした様子で荷物を拾う。花織は彼らしからぬ大胆な行動に顔を真っ赤にした。
「い、一郎太くん」
「帰るぞ花織」
傘と荷物を右手に一括りに持って左手で花織の手を取る。濡れてしまうだとか関係ない。風丸は突如現れた押しの強いライバルに酷く不愉快な気持ちを抱いていた。