FFI編 第六章
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夜中、不意に目が覚めてしまって花織はベッドから身体を起こした。今日は自主練をする気にもなれず、ベッドに横になってしまった。全部昨夜に起こったあの出来事のせいだ。時計をちらと見ればまだ日付は変わっていなくて、ふうとため息をつく。今日は時間が過ぎるのが遅かった。
水でも飲もう。そう思って身体を起こして食堂へ向かう。誰にも出会いはしないと思うが、簡単にシートで顔を拭いて櫛で髪を梳かした。もしも風丸と鉢合わせたとして、ぐしゃぐしゃな姿を見られてしまうのは彼の恋人として耐えられない。
誰もいないだろう、そう思っていたはずなのに食堂には明かりが灯っている、先客だろうか。花織はそんなことを思いながら食堂へと足を踏み入れる。中にいたのは彼女が今、最も会いたくないと考えていた人間だった。
「あ……っ」
射すくめるような瞳、何より特徴的なモヒカン。不動だ、花織はどぎまぎしてその場に立ち尽くす。それこそ水を飲んでいたらしい不動は花織を見つけるとつかつかと歩み寄ってきた。
「花織チャンじゃねえの、俺に何か用があるのかよ」
艶めいた声で不動が花織に言う。彼の瞳がどうもいつもよりギラギラしているようで花織は戸惑い、その場に立ち尽くす。彼が距離を詰めるたびに後ろへと下がったが、逃げ場を無くすのは早かった。背にとんと壁が当たる。
「べ、別に不動くんに用なんて……」
「ヘェ……、そうかよ」
どん、と彼の左手が花織を逃がさないように壁についた。花織は萎縮してしまって、しかも昨日のことを思い出して気恥ずかしくなって頬を染めて俯く。不動はニヤニヤと笑いながら右手で花織の顎をなぞり、くいと持ち上げた。湯上りなのだろうか、嗅いだことのある石鹸の匂いがする。
「の割には、今日は風丸クンそっちのけで俺の事見てたみてえだけどなあ?」
「……そ、それは……っ」
ただ昨日のことが気になっていただけ、そう言葉を返そうとするのに間髪を入れずに不動が囁く。
「それはぁ? 俺は花織チャンが俺を誘ってんのかと思ったぜぇ?」
違う、そう返答しようと思った花織の耳に不動がふーっと息を吹きかける。んん、と花織はそれで思わず吐息を漏らしてしまう。不動はそのまま耳元で低く色めいて囁く。
「風丸クンに相手にされなくて寂しいんじゃねえの?」
「……違う」
「違わねえだろ、あんなエッロい下着着けて」
不動の手がするすると降り、花織の胸に触れる。やわやわと手に余る大きさのそれを揉めば、従順に柔らかく形が変わる。
「触らないで……」
か細い声で花織が不動に懇願する。花織は大声を出して、あるいは不動を蹴り飛ばして逃げるという選択肢を取れないでいた。今は夜間でチームを巻き込んで騒動になるのは避けたかったし、不動はイナズマジャパンにとっては大事な選手であるから花織が何かして怪我でもされたらその責任はとれない。でもだとしたらこの状況をどうやって切り抜ければよいのだろう。
「エロい身体……。俺はてめえみたいな女は好みじゃねえが、据え膳食わぬは男の恥って言うしな」
そうこうしているうちに不動のもう一方の手が花織の内腿をすべる。びく、と花織は身を震わせて縮こまった。風丸にも触れられたことない場所へ手を伸ばされそうになって思わず不動の手を払った。だがそれがいけなかったのか、不動は器用に彼女の手をひとまとめにして拘束する。同じ学年なのに男女の差があるだけでこんなに力差があるものか。
「不動くん、いやっ」
このままでは、花織はぎゅうと固く目を瞑る。恐怖と、風丸以外の男に触れられているという思わず彼女の目には涙が滲んだ。何とか身をよじって助けを請う。
「助けて、一郎太くん……っ」
懇願するような声で花織が呟いた。しばしの沈黙の後、ため息が花織の頭上から聞こえた。それと同時に花織の手の拘束が緩まる。力がすっかり抜けてしまって花織はぺたんとその場に座り込んだ。そして恐る恐る花織が目を開ければ呆れた表情をした不動が花織を見下ろしている。
「ほんと、馬鹿じゃねえの。オマエ」
ぱさりと不動のジャージが花織の肩に掛けられる。着ていろ、ということなのだろうか。花織はきょとんとして不動を見つめる。
「無防備すぎなんだよ、最近の花織チャン。今みたいにヒーローの名前呼んだって来るわけねえだろ。自分の身は自分で守るしかねえんだよ」
「どういう……」
花織が訳も分からずに不動に問いかければ、不動は面倒そうに花織に答えた。
「思わせぶりな行動は、好きな男の前でだけしてろってことだよ」
思わせぶりな行動など、した覚えがないのだが。花織は腑に落ちないといった表情で顔を顰める。ただ不動が自分を心配して忠告をしてくれたのだということは分かった。花織は肩に掛けられたジャージを不動に返す。すると不動は舌打ちをしてそれを受け取った。
「たく、本当に面倒な女。……お前に惚れてる風丸クンや鬼道……」
「不動‼」
びり、とその場が痺れるようなほど厳しい声が食堂に響く。不動はあからさまに嫌そうに顔を顰めて後ろを振り返った。花織はゆっくりと立ち上がってその声の主を確認する。いや、せずとも声で分かった。花織が立ち上がったことで鬼道は花織の存在に気が付いたようだ。益々顔を険しくしてこちらへ歩み寄る。
「花織……、不動貴様……‼」
鬼道は観察眼に優れた男だ。ことに花織と春奈のことにおいては。花織の頬に涙の跡があること、今まで彼女がへたり込んでいたことから何がこの二人の間にあったのかは想像できた。
「ハッ、鬼道クンじゃねーの。こんな時間に夜食は太るぜ?」
あっけらかんとした態度で不動は鬼道を迎える。そんな不動に鬼道は怒り心頭の様子だった。何しろ意中の女とこの合宿所で最も嫌いな男が夜中にふたりきりで、しかも彼女の目には涙のあと。これが彼の心を荒立たせずに済むだろうか。
「お前には関係ない。それより花織から早く離れろ!」
「はあ? 何で鬼道クンに指図されないといけないのかねえ」
だがこの状況を不動は逆に面白いと思ったらしい。何しろあの帝国の鬼道が、自分が惚れている女と一緒にいるだけで嫉妬しているのだ。これが面白くないわけがない。不動は花織の肩を抱き寄せて肩をぽんと叩いた。たゆん、と彼女の胸が揺れる。
「花織チャンが寂しいって言うから、俺が慰めてやろうとしてただけだぜ。関係ない鬼道クンにどうこう言われる筋合いはねえよ」
「貴様……‼」
鬼道がこぶしを握って怒りに震える声を出した。花織は不動の身体を押して、彼から距離を取る。そして彼を変態、と言いたげな目で睨みつける。不動は肩を竦め、食堂の出口に向かって歩き出す。そしてひらりと手を振って今度は花織にニヤりと笑った。
「じゃあな。また寂しくなったら俺が相手してやるよ。花織チャン」
最後まで不動は鬼道を煽るような言葉を残して食堂を去っていった。ぴしゃん、と扉が閉まる。食堂には花織と行き場のない怒りを抱えた鬼道が取り残された。鬼道さん、と花織が彼の名を呼ぶ前に鬼道は勢いよく花織の顔の横の壁に両手をついた。あまりの剣幕に花織は驚いて目を見開く。
「き、鬼道さ」
「花織、不動に何をされた。正直に答えろ」
今まで聞いたことがないくらい低く、怒りを孕んだ声だった。基本的に鬼道が花織に語り掛けるときは他の者に対してより柔らかく、そして優しく話しかける。だが今は不動への怒りと、この頃の花織の無防備さへの不満も相まって酷く冷たい声色だった。
「別に何も、ばったり鉢合わせただけで……」
花織は咄嗟に嘘をつく。もしここで正直に身体を触られた、などということを口にしたら不動の身に何が起こるか分からない。花織が若干、鬼道の剣幕に怯えながらそう言えば鬼道はゴーグル越しに目を細め、眉間に皺を寄せた。
「本当だな?」
「は、はい……」
花織が首をこくこくと縦に振る。そこでようやく鬼道は息をついて花織の横の壁についていた手を下した。
「お前は酷く魅力的だ。不動の奴が何か間違いを働こうとしているのではないかと思って少々乱暴なことをしてしまった、すまない」
「い、いえ……」
花織が首を横にふる。まさにその通りなどとは今更言えない。鬼道はじっと花織を見据え、まだ厳しい面持ちで花織に忠告する。
「花織、お前は女だ。そしてこの合宿所にいるのはお前の恋人である風丸を含め大半が男。あまり煽るような……、いや」
あまり煽るような言動は慎め、と鬼道は一番忠告したかったが、どうせ彼女はわざと男を煽っているわけではなく、無意識にそれをしているのだ。だからたちが悪い。そもそも無意識に彼女は男を惹きつけている。そういうフェロモンが出ているのかと訝しむくらいには。
「とにかく自分を飾るなら、なるべく風丸の前にだけにしておけ。いいな?」
その忠告は不動と同じだった。意外と彼らの思考は似ているのかもしれない、と思いながら花織は頷く。そこで鬼道はようやく表情を解した。
「わかったなら良い。……用件が済んだなら部屋まで送ろう。明日は決勝戦なのだから、俺もお前も早く休まなくてはな」
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4
翌日、迎えた決勝戦当日だ。日本代表イナズマジャパンの相手は優勝候補、韓国のファイアードラゴン。熱戦が今からでも予想できる。色々トラブルはあったものの、無事に会場に辿り着き、今は試合開始時刻を控室で待っている。
この緊張に包まれた空気に選手でもないのに花織は緊張してしまう。選手にそれが移ってはいけないからリラックスしようと心がけているのだが、これに勝てば本当の意味で世界へ行けるのだ。
「花織」
胸に手を置いて深呼吸を繰り返す花織に声を掛けたのは風丸だった。風丸はいつも通り落ち着いているように花織には見える。
「ちょっと外で話さないか? ここ、なんだか空気が重いだろ」
ふっと微笑んで風丸が花織に手を差し出す。花織は目を見開いてその手と風丸を見比べた。ここの所、ずっと手を繋いでいなかった。避けられていると思っていた。でも今、彼は自分に手を差し伸べている。
「……うん」
恐る恐る、そうっと花織はその白い手を風丸の差し出した手の上に載せる。彼の温かい手は花織の手をぎゅっと握って引き寄せた。
「時間がないからな、行こう」
手を繋いで歩く。たったそれだけ、なのにそれがとても幸せで。行く当てなどなくても隣にいるのが彼ならばそれだけでよかった。人気のない廊下、本来なら選手以外立ち入り禁止と立てられた札の奥で、彼は立ち止まる。
「花織」
その名を呼ぶ声はどこまでも優しい。花織は彼を見上げる。風丸は、ふっと口元に微笑みを浮かべて花織を見つめる。彼の茶色の瞳の中に映る愛しい少女の姿をただ見つめている。
「いよいよアジア予選の決勝だな」
「……うん」
思い出すと緊張で跳ね上がる鼓動、花織は緊張でめまいがするほどだった。時間が迫っている、イナズマジャパンが世界へ羽ばたくことができるか、その結末がこれからの一戦に掛かっている。それなのに風丸はとても落ち着いているように見えた。
「緊張してないの?」
「してるさ」
花織が問いかければ当然のことのように風丸が言う。そうっと花織の頬に右手を滑らせる。花織の瞳がじっと風丸を見つめる。言葉の割には花織の黒の瞳に映る風丸のその表情に緊張は感じられない。風丸は花織を見つめて優しく表情を綻ばせた。
「でも花織が見ていてくれるなら、俺はいつも通りの俺でいられる」
頬に添えられた手がゆっくりと背に回る。彼の腕が壊れ物を包むようにゆっくり花織を抱き寄せる。花織はされるがまま、風丸の腕の中に抱かれた。温かくて逞しい胸板に耳を寄せれば、早い彼の胸の鼓動が聞こえた。
「花織」
静かに彼が花織を呼ぶ。花織は彼の腕の中でただ呼吸を繰り返した。彼の香りがして、とても胸が落ち着いた。風丸もまた、彼女の匂いに心を落ち着かせる。しばらくそうして抱き合っていた。花織、ともう一度風丸は彼女を呼び、顔を上げさせる。その頬はほんのりと赤い。花織を見つめる瞳は何よりも愛おし気に花織を見つめている。
その瞳は好きだという言葉以上に花織を好きなのだと主張している。そんな瞳に射すくめられて花織は心の中の蟠りが少しだけ解れたような気がした。
「俺、最近花織を避けてた。でもそれは断じて花織に飽きたからとかじゃない」
風丸が呟く。花織は風丸の言葉に驚いた。
リカが何か言ったのだろうか。動揺に意識を散らす花織を呼んで風丸は彼女の意識を自分に向けさせる。
「あのさ、俺……。ずっと花織が欲しいって思ってたんだ。花織の全部が今、手に入ってない部分も全部」
「一郎太くん……」
大事な試合の前にする話ではない、だが大事な試合の前だからこそする話だった。蟠りを残したまま試合に臨むことはできない。風丸は言葉を濁して花織に伝える。だが花織は風丸が何を言おうとしているかはわかっていた。彼女は頬を赤らめる。風丸も恥ずかしさからか頬を赤くしていた。
「自分任せにお前をどうにかしてしまいそうで、怖かったんだ。……最近の花織は俺にはあまりに……その、魅力的に見えたから」
気づいていてくれたのだ、花織の瞳がきらりと輝く。その事実は嬉しいと共に申し訳なかった、そのせいで彼は少なくとも悩んでしまったのだろう。風丸の指先が花織の頬を撫ぜる。
「俺はさ、無責任なことをしてお前を傷つけたくない。今はまだ、花織が隣にいてくれるだけで俺は満足だから。……あのさ、花織」
風丸が微笑む。慈しみ、ただただ愛おし気に花織を見つめる。
「俺の事、応援してくれるか?」
その問いかけの答えは決まっている。
「……うん」
やっと腕の中で花織が花のように微笑んだ。数日間、すれ違っていた何かが嚙み合った瞬間だった。性別も何も関係ない、今目に映るこのお互いがただ好きで、触れていたい。
「誰よりも私は、一郎太くんを応援してるよ」
もっと先を求める気持ちはある、でもまだ今はこれでいい。風丸は手の中の愛しい少女を見つめる。今はこれで十分だ、この衝動も彼女の気持ちを思えば堪えられる。
手に入らないと思っていた心がこの手の中にあるのだ、それをみすみす自分の本能で失ってどうする。
風丸が優しく花織の髪を撫で、頬に再び手を添える。慈しむようなその瞳は真っ直ぐに逸らされることは無い。花織は静かに目を閉じた。柔らかい触れるだけの感触がまるで永遠のように残る。目を開けば映るのは愛しいその人。嬉しくて笑みが零れて、それを見て彼も安心したように微笑んだ。
「絶対に勝つ。勝って、一緒に世界に行こう」