FFI編 第三章
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あれから一時間ほど練習をして花織は風丸の部屋を後にした。そろそろ夕食の支度をしなければならなかったからだ。
それにしても、スクワット後の休憩をはさんでからの風丸は少し余所余所しいような感じがした。これはあくまで花織の感覚的なもので実際はいつもの同じ対応を彼はしていたはずだ。だが彼の視線だったり、仕草だったりが妙に落ち着きがないような気がした。何かあったのだろうか。
そんなことを少し考えつつ、花織はシャワーを浴びて食堂へ向かう。秋たちはもう準備を始めているかもしれない。食堂の扉を開こうとしたその時、ふっと花織の視界が真っ暗になった。
「えっ?」
「久しぶりやな、花織!」
瞬時にその声の主によって視界を遮られたのだと理解する。花織はくるりと振り返ってその姿を確認した。浅黒い肌の少女だ。ニコニコといつも絶えない笑顔を浮かべて花織の視界を遮っていた手を下す。
「リカちゃん! どうしてここに?」
「陣中見舞いにな、塔子も一緒に来とるんよ。まあ、肝心の円堂たちは練習できひんみたいやけど」
ちら、とリカは花織から視線をそらし、階段脇で本を読み続ける久遠監督を睨んだ。だがすぐに花織に笑いかける。だがその微笑は先ほどの人の好い笑みではなかった。どこか花織をからかうようなにやっとした笑顔。彼女は花織の方に手を回す。
「ところでぇ、花織今まで何処に行っとったん?」
「ど、どうして?」
「いやー、ホンマはさっきからずっと花織のコト探しててたんやけど、秋も春奈もあの新しいマネージャーさんも知らんいうとったからなあ」
リカが花織の顔を覗き込み、にやあっと笑う。つんつんと左手の人差し指で花織の頬をつついた。花織は照れたように頬を赤らめて視線を逸らす。
「一郎太くんの部屋で一緒にトレーニングを……」
「へえ、それは詳しく聞かんといけんなあ。相変わらず仲がよろしいみたいやし、たっぷりおもろいこと聞けそうや」
「お、お手軟かに」
リカはただ単純にからかっているような口ぶりだが、内心安堵の気持ちもあった。キャラバンに乗っているとき、花織と風丸の関係は拗れてしまい、花織がひどく憔悴したこともあった。だからこそ今でもふたりの関係は心配で気になるのだ。花織は間違いなくいい子で、風丸もいい男だ。互いを大事にするふたりにはどうか幸せになってほしいと思っている。だから花織の口からお惚気を聞けるのはふたりの関係が良好な証だとリカは感じている。
「ま、なんかあったらウチが相談に乗ったるから安心しいや」
❀
リカに散々からかわれ”ホンマ羨ましいわー”を連発されたその晩、花織は再び風丸の部屋を訪れていた。今度はトレーニング目的ではなく、ただ単純に彼と語らうためだった。先日のように二人で並んで座り手を握り合って、とりとめのない話をした。ただ風丸はどうにも昼間のあの出来事から花織の傍にいることでこみ上げる愛情によく似た他の衝動を胸の中で感じていた。
「一郎太くん、何か悩んでる?」
花織を見つめてぼんやりとしている風丸に花織が心配そうに問うた。いつも通りのようで、どこかいつも通りではない風丸。些細な変化だがやはり花織は簡単に察してしまう。
「どうしたんだ、急に」
「ずっと考え事してるみたいだったから」
風丸を想う花織の優し気な瞳。どき、と心臓が大きく拍動するのが分かる。この子が好きだ、出会った時から今でも新鮮な気持ちで恋をしていると思う。以前とは違い、純粋に自分に向けられる愛情を実感できて心が満たされている。
「なんでもないよ」
本当に何でもない。監督の事やチームのこと、不安がないわけではないが大した悩みではない。かつて自分が抱えていた闇に比べれば。何でもないのだ。
「花織」
ただ、花織に触れたいという気持ちが腹の中で増幅する以外は。
風丸が花織の髪に指を伸ばして愛おし気にそういった。花織の黒い瞳が自分だけを見つめて揺らめいている。彼女の艶やかな髪を梳き、滑らかな白い頬に触れる。本当に、なんて愛おしいのだろう。
「花織……」
低い掠れた声で花織を呼ぶ。彼女の手を握っていた左手を緩めて花織の背に回す。そうすれば花織は静かに目を伏せた。風丸は、右手は彼女の頬に添え、そうっと唇を重ねた。いつもこの瞬間、背中に突き抜けるような何かが走るのを感じる。唇を押し当て、離す。角度を変えて何度もそれを繰り返すも彼女は絶対にそれにこたえ、受け入れようとしてくれる。それが堪らなく風丸の中の何かを刺激する。ふたりは互いを想いあい寄り添う。ただこうして隣り合って座っているだけでも十分に幸せなはずなのに。
彼女が漏らす吐息が、揺れる身体が、瞳に滲む涙が、彼を彼でなくしてしまうように誘惑する。
花織の全てを手に入れたい、何もかもを奪ってしまいたいと思う。無意識にただ純粋に花織を求めてしまう。
風丸はそっと花織の身体を床に押し倒す。花織は困惑して、ただ長い口づけによる酸欠で、思考が回っていないようなとろんとした顔をして風丸を見上げている。風丸はゾクゾクと己の中のある感情が沸き立つのを感じた。はあ、と風丸は吐息を漏らす。彼の瞳はいつになくギラギラしていて、少年というよりも男という色を宿している。ふたりの視線が絡み合い、再び唇を重ねようとした時だった。
リミットを告げる鐘がなる。
ふたりは現実世界に引き戻されてハッとした表情をした。風丸は花織の傍から退いて、花織を引き上げる。風丸は困惑した。今一体俺は、花織に何をしようとしたのだろうか。