終点
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永遠の別離からどれほど時間が経っただろう。セツが立ち去った医務室でユキは今も動けないでいた。肌寒い部屋、時が静止しているように感じられる部屋でユキは一人ぼっちだった。
壁も設備も一面の鮮やかさの欠片もない寒々しい白に囲まれ、照明はあるが薄暗く視界は悪い。もう一人の自分が入っていたポッドが存在していた場所には、ぽっかりと虚空が佇んでいる。地に付いた手のひらに感じるのは金属の冷ややかな感覚だけ。
ここは、この陽の差さない空間はユキの未来そのものであるように思えた。行く先の見えない闇だけが広がり、目的地に到達した今になってユキはその先を見失っていた。
かつては、いつか白い壁を破って、固着された時を抜け出して自由になりたいと思っていた。そのはずだったのに。ユキは静かにこぶしを握る。苦しみに苛まれ胸に空いていた穴は、色とりどりの思い出が詰め込まれ、満たされて……。喜びも悲しみも人並みに感じられるようになっていたはずだった。
それなのに今、また再び大事な何かが心の底からえぐり取られてしまった。私は今、ここに生きていていいのか、未来へ進むことを許されるのか。私だけが? そんな疑問が込み上げるほど不安定で、バランスが取れずに身体が揺れる。
心臓の動き、血を巡らせる拍動も。酸素を回すために必要な、吸って吐く呼吸という動作も。今この瞬間、私が続けていていいものかと不安になる。セツが今なお、ユキの知らぬ世界でループに捕らわれているのを知りながら、何を考えて生きていけばいいのか。
いつだって、きっと何年経ったって心に残り続ける。必然だったとはいえ、セツが身を賭してくれた犠牲によって、自分の生が成り立つのだという思いが付きまとっていくはずだ。セツがどんな思いをしているかを知りながら、この先に進むことなど許されるのだろうか。いいや、進むこともできないかもしれない。
一人囲いの外に放り出されて一体どうしたらいいのだろう。彼からも拒絶される、酷く孤独なこの宇宙の中に。
皮肉にもユキは今、時間が進まず、やるべきことなど失われた状態で居られたらと思った。行く先など元よりない人間だった。
このまま、この場所ですべてが終わったなら。この妙な罪悪感も一緒に眠りに付けるだろう。ここで心を凍てつかせ、死んでしまえたらいいのに。床を滑る指先が、縋る場所を求めて衣服の裾を握る。寒くて、寒くて堪らないとユキは身を縮める。
「ヒュウ! やーっと見つけたぜ」
そのとき、彼女の背を通して室内灯の光がさす。暗い部屋に彼女の影を生んだ光は、医務室の扉が開いたことによって作られたものだった。ユキは背後を振り返る。するとそこには一人の青年の姿があった。ここに、見つけたなどという言葉を携えるわけもない人物。
「ったく、こんなトコに居やがったのかよ。マジでヒヤッとさせるじゃん」
靴、服、そして髪。目に映った彼が纏うすべては何物にも上塗りできない黒。ユキがもう随分と前から、愛しく思ってやまないその姿に目が眩んだ。
「ああもう、どんだけ俺が探し回ってやったか……。全部チャラにしてもらわねェと割に合わねェわ。お前もそう思うだろ、なァ」
視界にユキを捕らえた途端に、気だるげな声を上げた人物は間違えようもない。その人物はユキが顔を合わせることもできないはずだと思っていた男、沙明だった。しかも今の口ぶりは……、ユキは彼の方へと向き直る。まるでユキを探してくれたかのように思える台詞だった。
必ず見つけると言ってくれた彼が脳裏に過る。もしかすると本当に、約束が果たされることがある? これまでの積み重ねが実り、彼がユキに気が付いてくれる夢のような展開が。そんなことがあるわけがないと、自分に言い聞かせながらユキは沙明に問いかける。
「……どうして」
「アァ? んなの、他の奴らがお前を連れて来いってウルセーからに決まったんじゃん。この船の奴らみんな助けた救世主サマサマ、だっけか?」
だがユキのごく淡い期待とは裏腹に沙明の返答は素っ気なかった。別段、ユキに興味ないと言わんばかりのテンションで言い放つ。これまでの経験上、彼の口調や仕草で彼からの好意が読み取れる。だから沙明が自分のことをどう思っているか、現実を突きつけられてユキは目を伏せる。感情が込み上げそうになったがあったが、何とか堪えてユキは平静を装う。
「……私が? セツの間違いじゃないの」
乗船以前のことを覚えていないが、おかしい話だとユキは首を傾げる。他の乗員たちを助け、この船に誘導したのはセツだったはずだが。少なくともこの船に重傷で運ばれたユキではない。セツ、とユキが名を出すと今度は沙明が眉間に皺をよせ、意味不明とばかりに首を傾げた。
「セツ? 誰だよ、ソイツ。ハッ……、悪ィ覚えてねェわ」
「……」
この反応は演技ではない。沙明は本当にセツという人間について知らないのだ。沙明を見てユキは悟る。あんなにセツに迫っていたこの男が、セツを忘れることは通常ならばあり得ない。……おそらくは。
いいや間違いない。きっとセツが次元の扉をくぐっていってしまったことで、セツの存在がこの宇宙から失われたのだろう。だからセツが立てた手柄がユキの物であるかのように思い込んでいる。宇宙が辻褄合わせのためにそう動いているのだ。
――――ほら、セツ……。これまでの事が失われないなんて。そんな都合の良いことはない。
心の中でそう、存在すら消えてしまったセツに語り掛ける。その想いすら今や行き場がないのだ。ユキを理解してくれる人物はもういない、この宇宙で彼女は天涯孤独だ。凍てつく現実に段々と、指先が冷え、感覚がなくなっていく。容赦ない冷たさに身体が震えるのを止められない。
「……オイオイ、お前本当に体大丈夫かよ? まだ超絶顔色悪ィけど」
黙り込んでいたユキの顔を、しゃがみこんだ沙明が覗き込む。ユキはさっと顔を上げて沙明を見た。彼が少しでも心配をかけてくれたのかと、未だ捨てきれない希望を持って彼の瞳を見たのだが……。その心は打ち砕かれた。
やはり彼の目には常にユキに向けてきてくれていた親愛はない。ただただ面倒くさい女を目の当たりにした不快そうな表情をしていた。
「大丈夫……。身体は平気だから」
目を伏せ、沙明から視線を逸らしたユキはそう取り繕った。一瞬、妙な間があったようにも感じたが、彼がユキの可愛げのない言葉にやや冷たく返答する。
「……アァ、そうかよ。んじゃ、何も問題ねェな。後遺症とか残ってたら後味悪くて堪らねェし」
どうして彼がそんなことを考える。後味が悪いも何も、ユキの怪我は沙明に関係ないだろうに。言葉に引っかかりを覚えたが、自分との対話を嫌悪している沙明とは話を続ける気はない。これ以上はもうたくさんだ。
せめてユキの胸の中に在る、愛しい彼との思い出を悲懐に染められたくない。セツは知るべきだと言っていたけれど、温かな時間に冷淡な終焉を飾られるくらいなら、対話などない方がマシだ。彼の疎ましいと言わんばかりの声色を聞くたびに、ユキの胸はずきずきと痛む。もはや指先に感覚は無い、気を抜くと何もかもが打ち砕かれてしまいそうだ。
感情を零してしまう前に、一刻でも早く彼の前から立ち去りたい。醜態を上塗りして晒せば、彼はますます自分を面倒に思うだろう。
「……大丈夫」
よろよろと立ち上がったユキは、自分にもそう言い聞かせるように吐き捨ててこの場を去ろうとする。彼の視線が、己の動きを追いかけてきているのが分かったが、怖くてとても振り返ることはできなかった。
自分を奮い立たせなければ、これまでずっとみんなの前では平静ぶって来ただろう。何のための演技力だ? 彼を守るためのものだろう。これ以上、彼に不快な思いもさせたくない。
最後くらい、彼の目には潔く少しでも美しい自分が映ってほしい。思い出に残るのは最後まで意思を貫き通した強い私でありたい。そんな思いでユキは彼の元を立ち去ろうと前へ踏み出す。ユキの銀髪が靡いて、金のピアスが踊る髪の中できらりと光る。沙明の黒の瞳の中で、金の輪がゆらり揺れた。
「……オイ!」
光に魅せられたのだろうか、彼の手は無意識に動く。
「……っ」
ユキの歩みは沙明の手に寄って引き留められた。彼の手は何の迷いもなくユキの手を握りしめる。ひやりとした手が滑り、ユキの手を固く握る。とても振り返ることなんてできない。けれど、どうして……。彼女は感覚に飲まれ、目頭が熱くなるのを感じた。
手の触れた感覚は振り返らなくたって分かる。紛れもなく沙明の、恋してやまない彼の手、そのものだ。数えられないほど重ね、触れてきた手だ。離れ難い感情が心の底から込み上げてきて、表出してしまわないようにユキは固く目を瞑る。だが。
そのように握った手を認識したのは、ユキだけではなかった。
「……なァユキ、お前」
彼が名前を呼ぶ。この宇宙で初めて、彼に名前を呼ばれてユキは恐る恐る振り返る。
彼の瞳に先ほどの彼女を拒絶しようとする色はもうなかった。夢から醒めた……、いいや単色のはずの彼の瞳が鮮やかな光に煌めく。今の彼の瞳が映す感情はただただ困惑だった。目の前にあるユキをじっと見つめ、彼はようやく唇を開く。
「前に会ったこと、あったか……?」
「……っ」
心臓が大きく飛び跳ねた。ユキは動揺して目を剥く。ユキも沙明もお互いに理解が追い付かないでいる。沙明は自分の感覚を見つめ、ああでもない、こうでもないとぶつぶつ呟く。自分の感覚に刻まれた何かに困惑しているようだ。それでもユキの手を握ったまま離そうとはしない。
「なァ、ルゥアンで俺のことを庇ったのは……、そのせいかよ?」
「……?」
「いや、違ェよな……。……でも」
その眼差しはユキが一番見続けた彼の瞳の色だった。何をどうすべきか、失われていたパズルのピースが揃い合わさったように彼は動く。そうっと沙明がユキの手を取り上げる。そしてこれまでと変わらない、手馴れた動きで撫でた。ユキは目の前にある現実が理解できずに立ち尽くす。
――――そして今、ここにユキが勝ち取った未来が実現する。
「……俺ァ、お前を知ってる。アァ、理屈じゃ全然わかんねーけど。ハッ、なんなんだよ……ユキ、お前さ」
それでもいつしか彼の目は、いつもユキが見つめていた優しい温もりを宿し、間違いなくユキを見つめていた。沙明は先ほどの態度を払って……、おそらくはもう取り繕うつもりをなくしたのかもしれない。
どうしてだろうか、もうすっかりいつもの彼だ。ユキの手を握って離さないまま、八重歯を覗かせて機嫌よく微笑む。困惑するユキを見て彼は目を細めた。
「……アァ、そういや俺、まだ名前言ってねェな? ……ハッ、ホントこれ以上お前と関わる気とか、サラサラなかったのになァ」
空いているほうの手でがしがしとバツが悪そうに頭を掻きながら沙明が言う。彼の態度の豹変ぶりにユキが不可解そうに眉間に皺を寄せる。それを見てか彼は「忘れてくれてた方が都合いいっつーわけよ。慰謝料請求されても払えねぇし、なァ、アンダスタン?」と続けた。
面と向かって事実を言われたわけではない。だがこれまで知って来た彼のことを思い返す何となく答えが見えてくる。そんな程度の事だったのか。彼が何を気にしてユキに冷たく当たったのか、理解できたような気がした。誤魔化すように沙明が手を握る。
「俺は沙明。シャー・ミンだ。ミンと呼んでくれりゃいいぜ。……だから、なァユキ」
まるで夢みたいだ。そんなことがあるのだろうか、永遠に失われたはずの約束が実現すること。これまで積み上げた何もかもがすべて失われたわけではない。一部だけでも肯定され、何らかの形で残り続けていること。本当にループがなかったことになっていなくて、ユキの祈りが現実となったならば。
「お前のコト、話してくれねェか? ……知りてーんだわ、お前を」
――――セツ、私はどうやって生きればいいだろう。
幾度となく交わした懐かしい言葉を聞く。そこまでがユキが我慢できる限界であった。堪えられなくなったユキの目からは、はらはらと涙が零れ落ちていく。目の前にいる沙明がギョッとした表情をしたが構わなかった。喜びなのか、苦しみなのかどちらとも取れない感情が、とめどなくユキの瞳からは零れ落ちていく。
「沙明……」
おどおどしつつユキの涙を拭う彼の名を呼ぶ。ユキが名を呼ぶとどうした、と記憶はなくともこれまでと変わらない彼が彼女を見た。この感覚を疑わずに信じてもいいだろうか、これからもずっと。ユキ自身も変わらぬ信念を持っていても、許されるのだろうか。
「……ありがとう」
彼は今、また私を見てくれた。ユキは自分を受け入れてくれる青年の手に己を委ねる。彼はすぐさま、迷い一つなくユキの手を握り返してくれた。この腕の力強さ、心音、体温もすべていつもの彼そのものだ。本当にどんな顔をしていればいいのか分からない。けれどもこの世の何よりも温かく、心地よい。
優しく自分を受け止めてくれる腕の中で、彼女は心を隠さず子どものように泣いた。