LOOP180
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別れ……? 扉を凝視していたユキはすぐさまセツの方へと視線を向ける。どこか厳めしい表情をしたセツはユキの方へ横顔を見せる。ユキの方は扉が現れたことよりも、セツの言葉の衝撃が強くて言葉を返せないでいる。言葉を失ったままのユキに対し、セツは淡々と続ける。
「君は、こう思っていたんじゃない? 君と私、二人ともここで、ループを抜けられる、と。……だけど、ね。私は、ループを抜けるつもりはない。いや……、抜けられないんだ」
「……セツ」
「だって私の「銀の鍵」は満たされていないのだから」
あくまでも、満たされたのはユキの鍵だけだ。どうして今までその考えに至らなかったのか。ユキはその事実に辿り着いて息を呑んだ。手にはじっとりと嫌な汗が滲む。視線を合わせたセツはちらりとユキの方を見て、悲しげに微笑んだ。
「ねぇ、ユキ。ループが始まる前に君は、私から「鍵」を受け取ったのだろう。だけど私は「この私」は……まだ君に鍵を渡したことがないんだよ」
ユキの始まりは、そう……。思い返してみればこのポッドから目を醒まして始まったのだ。初めてグノーシアを排除するための話し合いに身を投じ、その時にセツから銀の鍵を受け取った。
きっとその出来事は、この扉の先の宇宙で目覚めた自分と、そしてともに扉をくぐったセツの間で起きることなのだ。
「そう、私は、渡さなければならない。君に――――もう一人の、君に」
「……」
「扉の先で君に「鍵」を渡す。それで、初めて因果が繋がることになる」
ポッドの中で目を覚まし、セツから銀の鍵を受け取ってユキはループを始める。そしてループを繰り返すユキが、デブリ衝突により致命傷を負ったセツに鍵を渡さなければならない。
"ユキ"はループをここで閉じるかもしれないが、今"ポッドの中にいるユキ"は、この扉の先で鍵を受け取り、そしてループを始める。
ウロボロスの輪と同じ、始まりと終わりは繰り返されねばならない。ユキとセツ、ひいてはこの宇宙の消滅を避けるためにも。セツが静かに訥々と語る。
「ラキオに聞いたかな? 扉を開けただけでは「鍵」は消えないこと。これを通った先の次元で、扉を閉めた時、ようやく君の「鍵」は消えるんだ。ふふ、開けたら閉めろ、ということだね」
それは知らなかった。あちらで鍵を閉めなければならない。となるとやはりセツが行くことになってしまう。自分自身を扉の向こうに放り投げて終わり、というふうにはできないわけだ。そもそも先の前提があるからセツが行くことは免れない。
セツはユキの方へ向き直った。セツの深紅の瞳には並々ならぬ美しい決意がある。
「ああ、もう一人の君を連れて、扉を潜るよ。……そうすれば、君のループは終わるからね。ここで――――君に、皆に、未来がある世界で」
かといってセツだけが、苦しい思いを続けなければならないのは納得がいかない。ユキ一人がここでループを終えて前に進み始めても、セツはまだループに捕らわれていなければならない。テキパキと医療用ポッドのスイッチを切り替えていくセツを見守りながらユキは何を言うべきか言葉が定まらないでいる。
行かないで、とも言えない。ごめんねでもない、いったい何を言えばいいのだ。セツが行かなければならないこともまた、運命で決まっている。
ユキがセツを特別視することはない、けれどもこの境遇を共にしてきた唯一の友だ。何度もユキをサポートしてきてくれた仲間だ。彼以外にだってユキには人並みの情を抱く。セツが欠けたうえに成り立つ未来に何を望めるだろう。
「セツ、私……」
「私はね、ユキ」
無意識にユキはセツの方へと手を伸ばしてその名を呼ぶ。しかし遮ってセツがユキの声に言葉を被せた。ユキがその先を告ぐのをセツは許さなかった。動揺を隠せないユキとは違い、セツの方は後悔などないと言わんばかりの笑みでユキを見つめる。それは聖母と評すが相応しい、慈愛に満ちた優しい微笑みだ。
「君と一緒に過ごしてきた、これまでのループを無かったことにはしたくないんだ」
そのためにはセツは次元の扉をくぐって、もう一人のユキに鍵を渡さなければならない。ユキはもう何も言えなかった。この選択は変えられない、そもそも他に選択肢などないと諦めて手を下ろす。俯き、セツを否定しないことが精一杯だった。自分の未来がセツを踏み台にして作られたのだと分かっていて、ユキはこれからどんな思いでいればいいのか。項垂れるユキにセツが語り掛ける。
「ねぇユキ、今私がここにいるのはユキのおかげだよ」
背後でセツの指示に従ってコンピューターが動き始めた。だがそのすべてを無視したまま胸の内をすべて、セツはユキに打ち明けようとする。最後だからとユキへの想いを言葉にして告げた。
「私は、君に救われた。君がいたから、今まで生きてこられたんだ」
そしてユキは息を呑んだ。心がざわめきを感じたのは、セツの想いを嬉しく感じたからではない。それ以上に、その台詞に酷く既視感を覚えたからだった。いいや、既視感などという生易しい表現では足りない。この言葉は、心は。他でもないユキ自身が、沙明に対して抱き続けてきた気持ちだった。
面を上げずにはいられなかった。ユキは改めてセツの顔を見上げる。
「……ユキ、私には恋愛というものは分からない。けれど君の話を聞いていて思うことがある。多少身勝手な部分もあるかもしれないが、人間味があって温かい君を」
ユキを見つめるセツの眼差しは、まるで。
「一途で誰かのために懸命な、助けを必要とする人に手を差し伸べずにはいられない君を。私はきっと、愛しいと思っている。誰よりもね」
今……、口にされた真実は、恋愛感情ではないのかもしれない。しかしそれだけセツはユキを案じ、大切に想ってきてくれていたのだ。セツが一途と表現したユキは初めて、セツの心を知る。セツのユキに対しての気持ちは、ひとりの人間を思い、幸福を願う愛として遜色ない。
つきり、と胸が痛む。そんなふうに自分のことを想ってくれていたセツに、かつての自分はなんて言葉を掛けただろう。誰かを愛しく思う気持ちなど、セツには分からないかもしれないと。苛立ちに任せてそんなことを言わなかったか。
「セツ、あの私……」ユキは過去を謝罪しようとしてセツを見たが、セツはそれ以上の言葉を望まなかった。私の言葉を聞いて欲しい、とばかりにセツはユキに語り掛けるのをやめない。
「だから誰より君には幸せになってほしいと思ってる。……ユキが好いた相手と、明るい未来に向かって進んでいってほしい。それが私の願いだ」
ふるふる、とユキは静かに首を振る。ここから去ってしまうセツのためにも、ここで頷いて安心させて送り出すことが優しさなのかもしれない。だがユキはとてもこの件に関して嘘をつけなかった。ユキが願う相手との幸せな未来は、このグノーシアのいない唯一の宇宙において存在はしないと確信しているからだ。
「セツ、セツ……。ダメなの、この宇宙の彼とは一緒になれない。分かるでしょう、ループしてる私たちは覚えてるかもしれない。けれど」
これまではゼロからいくらでも彼との関係が構築できたかもしれない。だがこの宇宙は例外なのだ。それをもう二度も確認してしまっている。これ以上守れない約束をするのは嫌だと、ユキはセツに訴えかける。セツがユキの幸せを願いだというのならば、尚更虚構の希望など持っていてほしくない。
関係を形成するのが不可能なほど、彼に嫌われてしまっているのだと。そう言おうとしたユキの唇をセツが人差し指で留めた。セツはユキの不安をすべて理解しているかのように頼もしく微笑む。そしてユキがかつてセツに何度も言い聞かせた台詞を、今度はセツがユキに告げる。
「大丈夫だよ、ユキ」
ユキの潤んだ眼差しを温かく見つめてセツが言い切る。ユキの頭をポンポンと撫で、確固たる決意を含んだ瞳でセツは言葉を続ける。
「ユキ、すべてなくなったりはしていないさ。私がさせない、そんなことはね。……それにきっと、彼はバツが悪いだけだよ」
バツが悪い、とはいったい何のことだろう。セツの言葉にユキはひたすら首を横に振る。この宇宙では沙明とまだ一言も言葉を交わしていない。交わす前から嫌われているのに、これ以上にユキに何ができるだろう。縋るようにユキはセツを見つめる。セツは困った様子で笑み、そして次はユキの背中をそっと労わるように撫でた。
「……ユキは彼を守りたいって言っていたね。……心配をすることはない、ちゃんと君は彼を守ってきたんだ」
「でも……」
「『疑うな、畏れるな、そして知れ。すべては知ることで救われる』……私に教えてくれたのは、ユキだろう」
セツの手が離れて、ポッドを乗せた荷車の持ち手を掴む。ユキとは違い、セツは未練など欠片も感じさせない。そう振舞っているだけかもしれないが。晴れやかな表情をしたセツは、ユキを置いて別の未来へと進んでいく。
「さぁユキ。……今、返すよ。これから、君が幸せに生きていくための世界を」
闇の中に片足を踏み入れても臆することなくセツは笑みを保ち続ける。ポッドが積まれた荷車から闇に溶け、セツの身体が徐々に見えなくなっていく。
「――――私の大切な、君に」
ユキは全身の力が抜け、その場にへたり込んでしまった。強い風が次元の穴から吹き付けてユキの髪を舞い上げる。冷たい床の感覚をブーツ越しに感じながら、今のユキにはセツを見送ることしかできなかった。「セツ、セツ……」思いつく言葉もなく、何度も目の前で消えゆく友の名を呼ぶ。
「……セツ‼」
「今までありがとう、ユキ」
闇の中からひらひらと、別れを告げるためにセツは手を振っていた。手首、掌、そして指先。セツの手は闇に溶けて見えなくなっていく。セツの姿がこの宇宙から消えてしまうと、空間に口を開けた闇は影も形も消え失せた。何事もなかった顔をした静寂と共にユキはここに取り残された。
力なく握られた拳を開いて見つめる。そこには、彼女の手の中には何一つ残されていなかった。