LOOP174
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∞
スクリーンに表示された文字列を確認してユキは踵を返した。グノーシアである時とは違い、この衝動は議論の最中には沸かないものだが、終わると途端に増幅するからたちが悪い。急がなければ今回のすべてを無に帰してしまうことになる。
数字と言う名の結果だけを見れば悪くはないと評価できる。乗員十五名のうちのグノーシア三体のコールドスリープを完了した。犠牲者も最小限に抑えたから、乗員たちも健やかに生き残っている者たちがほとんどだ。彼がこの船の中に一人取り残され、宇宙を漂流しなければならないシナリオは回避している。
あとは、バグであるユキが生命活動を停止すればこの宇宙は安泰だ。
コールドスリープルームへと駆け足で向かいながら、彼女はグッと唇を噛む。後ろ髪を引かれるという言葉そのままの気持ちが彼女の心に存在している。このループの終点には未練を残していたくはなかった。たとえ伝わらなくても、別れの一つでも言える状況をこの場に残しておきたいと思っていたのに。
だがこれは自分の蒔いた種だ。昨日の意味不明な発言に加え、彼の願いを踏みにじった自分がこれ以上顔を合わせられるはずもない。今この瞬間、視界が歪むのはバグ特有の感覚のせいか、それとも。
目的地の扉の前に立つと自動ドアが開く。ひやりと肌寒く、不吉な感覚が漂うコールドスリープルーム。ここにはコールドスリープしている人間の他、人っ子一人いないはずだった。
薄暗いその部屋に廊下の光が差し込む。ポッドの上に腰を下ろし、佇む人影の姿がくっきりと浮かび上がった。何故、ここに。ユキは息を呑む。
「よぉ、来ると思ったぜ」
声の主はユキの姿を認めて得意げに笑う。ユキは瞳を大きく見開いたが声は出なかった。軽快な口調の黒づくめの青年。
「アー……にしても寒いわ、なァユキ。デートの待ち合わせにゃ向いてねェってな。ま、それでも女を待つのが男の役目だろアンダスタン?」
「……どうして、ここに」
「どうしてって……。そりゃ、お前待ってたに決まってんだろ」
待っていたとはいうが、彼のその主張は不自然だ。ユキは不可解を顔に表出して彼を見つめる。ユキを待つならば昨日までの夜時間を共に過ごした娯楽室か、もしくはユキの部屋辺りが妥当なところだろう。コールドスリープルームを訪れる理由はないはずだ。どうしてこの瞬間、彼はこの場所に存在しているのだ。ユキの疑問を感じ取ったのか、沙明は口元を緩めてユキに語り掛ける。
「アア……、俺ァな、知ってたんだよ。お前が議論ん時、嘘ついてるってな。何なら一日目から分かってたんだぜ? アーハァ、俺の目も捨てたもんじゃねェだろ」
「だったら尚更……」
「ハッ、最初はお前利用して、最後にコイツぁ嘘つきだって言ってやろうと思ってた。……ま、そう上手くやれなかったけどな」
百戦錬磨のユキの嘘は精度が高い。表情や声色から感知をすることは、非常に難しい度合いに今となっては仕上がっているはずだった。仮に沙明がユキの嘘を知っていたのならば、人類にとって有力な情報であることは確かだったのに。何故告発しなかったのか。ユキが残れば宇宙が滅ぶことを解っていたんだろう。……それとも、ユキが最後にこうすることすら分かっていたとでも?
答えの見えない疑問にユキは戸惑いを見せる。だが彼は「お前のコト、気に入っちまったんだから仕方ねェだろ」とさらりと理由を言ってのけた。彼は続ける。
「んなことはどうでもいいんだよ、またあとで話そうぜ。なァ、俺ァそれよりも昨日の話を聞きたくて来たワケ」
「……」
沙明はコールドスリープ用のポッドから立ち上がり、ユキの方へと向かって歩き始める。そしてユキの目の前に立ち、ユキの目を見つめながら核心を突く。
「俺ら、別に会ったことねェよな? なのに、、前にも約束してるっつーのはどういうことよ?」
どくん、どくんと心臓の鼓動がはっきりと聞こえる。間違いなく己の心臓の音だ。拍動はユキに審判を求め、時間切れが差し迫るのを感じさせる。ユキは力いっぱい己の腕を握りしめて衝動を堪えた。沙明から顔を背け、彼女にしてはややぶっきらぼうに言い捨てる。
「そんなの……、あの場凌ぎの嘘よ。約束なんか」
「オイオイ、んな分かりやすい嘘つくなって」
ユキの精一杯の強がりであったが、沙明に対して効力は無に等しかった。呆れ口調で沙明はユキの方へとまた歩幅一つ分歩み寄ると、まず先にユキの手に自分の手を伸ばした。少しだけひやりとした手で触れられるとユキはびくりと身を震わせる。
いつも変りなく滑らかで、わずか指先が触れるだけで彼だと分かる。自分自身に刻まれた感覚。肌に馴染み、かつてにもこうして触れ合った記憶を蘇らせる温もりだ。沙明はユキを真摯に見つめたまま、彼女の心に語り掛ける。
「ユキ。……なァ、俺の独りよがりっつーんなら、恥ずかしすぎて死ねるわ。でもお前も分かってんだろ」
熱烈な視線を受け、ユキは恐々と沙明を見上げた。沙明はユキの手を引き、自分の元にきつく抱き寄せる。指先まで絡めてユキの手を強く握りしめる。ユキを覗き込むのは柔らかな瞳、まるで慈しみを持っていると、そう感じさせる眼差しで握り合った手を見つめる。
「俺ァ、オツムもカンも大して良くねーワケ。……アッハ、それでもお前の……。ユキのことだけは分かんだよ、オゥケイ?」
何を根拠にして彼はそんなことを豪語するのだろう。彼がこれまでと同じ沙明ではないことは明確で、彼にはユキと紡いできた時間の記憶もないはずだった。今の彼と、これまでの彼は同じでも違う人だと分かっているのに。彼の言葉を聞くとすべてが繋がっているように思えて胸が苦しかった。まだ口を開かないユキのために言葉の結び、彼はユキのための殺し文句を用意する。
「ハッ、難しいことは言ってねーよ。お前が人間じゃなくてバケモンでも、俺がお前を知りてェっつー話だ」
幾度となく願われ、ユキが叶えられなかった彼の願いがここにある。胸の中でのたうち回る雑多な感情に表情も繕えないまま、ユキは堪えられずに彼の名を呼んだ。
「……沙明」
噛み締めるように彼の名を口にして、ユキはいよいよ覚悟を決める。このループで銀の鍵は満たされると踏んでいる。おそらくは、きっとこれが沙明と語らい、気持ちを伝える最後のチャンスだ。
結果が残るわけではない。卓越した科学力で今の彼と再び出会えるわけでも、神が存在していてユキに奇跡を施してくれるわけでもない。ただ何に掛けたのか、ユキは彼にこれまでの歩みを語る。ここにすべてユキは胸中を明らかにする。
彼を見つめ、ただ端的に己の思いの丈を言葉にした。
「……私は、沙明が好きよ」
告白を皮切りにユキは己の記憶する生きた軌跡を口にする。これはかつての彼にもしたことがある話だった。やはりこれも彼は忘れる、というよりもユキがこの場所に置いて行ってしまうのだろう。それでも彼が望んでくれるのならば、ユキも彼に自分のことを知っていてほしいと思う。これがいったい、何になるかはユキにも分からない。
時間が多く残されているわけではないから、ユキのこれまでの体験をできるかぎり簡潔に述べていった。自分がある一定の時間をループしていること、いかにして自分が沙明という青年に惹かれ、好意を抱いてきたか。彼の反応は、いつだったかの沙明と同じだった。そしてユキの語りは、彼と交わしてきた約束へと辿り着く。
「何度も貴方とは親しくなった。……これまで出会った沙明も、私を知りたいんだって言ってくれた。一緒に生きようと言ってくれた。その言葉がどんなに私を幸せにしてくれたか……」
「……」
神妙な顔をして沙明は話を聞いている。あまり詰め込みすぎても仕方がないか、タイムリミットもいよいよ迫ってきている。衝動を誤魔化し、ブーツの踵で反対の足を踏みつける。これだけは最後に言わせてと、ユキは彼に伝えたいと願っていた一番の気持ちを口にする。
「何言ってるか分からないと思う。でも貴方は、これまでずっと私を生かしてくれていた。沙明がいたから私は生きていられたの」
じっと彼を見つめて、瞳に沙明の姿を焼き付ける。こんなふうに見返してくれる彼を見るのは最後だろうからと。彼を見ているだけで不思議と幸福だった。自然と表情が綻ぶ、心一杯にユキは沙明に微笑みかけた。
「ありがとう、いつも私の傍に居てくれて」
その言葉を皮切りに、ユキは彼の手を離した。彼を置いて歩き出し、コールドスリープルームのポッドのスイッチを入れる。ユキは彼に背を向けたまま、衣服の裾を掴んだ。まずい、少し気を抜くだけで形が崩れてしまいそうだ。背中越しに、何とかユキは彼に語り掛ける。
「これから……、私は時を遡って、グノーシアのいない世界で旅を終える。乗員のみんなが無事に宇宙船を降りられる世界に。……だけどきっと、私は沙明の傍にいられない」
たとえ同じ宇宙に生きられてもどうにもならない結末だ。ループを閉じる宇宙の貴方は、私のことを酷く嫌っているから。考えるだけでも辛い現実をこれ以上口にする気はなく、ユキはそこまで言って口を噤む。ポッドのハッチが開いて冷たい世界に踏み出そうとしたその時、逞しい腕に後ろから強く抱き寄せられる。心地よい温もりがユキを包む。
「待てって! ……行くなよ、なァ……」
切実な声で彼が請う。ユキは振り返りもせず首を振った。彼の顔を見たらきっと我慢できなくなる。歯を食いしばってユキは絶え絶えに言葉を紡いだ。
「私がいなくてもこの船にはみんながいる。……大丈夫、ひとりにはならないから」
「ユキ……‼」
「大丈夫。……守るよ、最後まで」
彼がこの宇宙で生きるためには、バグである自分は退場しなければならない。最後の最後で彼のことも、自分の信念も裏切りたくはない。彼を振り払って前へと進もうとする。だがそれでも、彼の手がユキの手を掴んだ。彼の心からの叫びがユキを貫く。
「守んなくていい……‼ ハッ、いらねェよそんなん」
「……」
「俺と一緒に生きてくれや、なァ……」
すべてを叶えたくても、その願いだけは叶えてあげられない。頼む、と縋る彼の手をすり抜けてユキはポッドの中に入る。背後で何かが崩れ落ちる音がした。ユキの心が大きく揺れる。あんなにも言い聞かせていたのにハッチを閉める前、我慢できなくなって一度彼を振り返った。
「沙明……」
地にへたり込み、力なく項垂れる彼を見て切り刻まれるよりも胸が痛む。しかし同時にユキは心から嬉しい気持ちになった。彼がそこまで自分を求め、傍に居てほしいと願ってくれることが心の底から幸福だと思う。ユキは無意識に己の左耳に下げた金のフープピアスを外す。
「……だったら。覚えていて、私のことを。もしもまた出会えたら……、私を思い出して」
あるいは残酷な嘘かもしれない。今回ユキは彼に平行世界に関することは言わなかった。ただ同じ時間を繰り返してきたことだけを伝えた。今の彼とはもう二度と会うことはないと、ユキ自身が口にするもの辛くて伝えなかったのだ。白い手を彼に差し伸べる。これが彼に付いた唯一の嘘だった。
仮初の希望を彼に魅せる。ユキはピアスと共に彼に手を差し伸べた。沙明が顔を上げ、そしてユキの掌に手を重ねた。細い眼が一層細められて息を吐く。か細い糸のような希望は彼の光になれただろうか。
「アア……、待ってろ」
星屑よりも小さな可能性に賭けて、ようやく彼は首を縦に振る。強く拳を握って、彼は決心の眼差しをユキへと向けた。嘘のない黒い瞳だ。
「必ず、見つけっから」
その約束が果たせないことを知っている。けれども彼の決意に満ちた言葉が嬉しくてユキは微笑んだ。沙明はユキの目の前で右耳のピアスを外し、ユキのフープピアスを着けた。そして自分が着けていたシルバーのピアスを彼女へ差し出す。
「ホレ、お前もコレ着けとけな。どっかの星じゃ、自分の一番大事なヤツと愛を誓って交換するっつーし?」
僅かに赤い頬を誤魔化しながら、沙明が早口でまくし立てる。ユキに口を挟ませない勢いで彼は言葉を続けた。
「これがありゃ、俺だってお前を見つけられんだろ。アンダスタン?」
「……うん」
時が巻き戻るのに、平行世界へ移動するのに物など持っていけるわけがない。それを知っているユキは頷いて彼のピアスを受け取りつつ、歯切れの悪い声で答えた。それを目敏く察知して沙明が顔を顰める。
「オイオイ……、そんな不安そうな顔すんなって。アーハァ、さては信用してねェな?」
沙明は少し強引にユキの手からピアスを拾い上げて彼女の耳にピアスを着けてやった。ユキの髪と同じ色の輝きが彼女の耳元で煌めいた。それを見て満足げに沙明が笑う。そんな子供じみた彼の行動が酷く愛しい。
「これがありゃァ、さすがに俺にだって分かりますよ?」
「……本当に?」
苦笑しながらユキが意地悪くも問いかける。先ほど自分でも言っていたように彼は勘が良いわけではない。それどころか彼女には答えが分かり切っているのに、なぜこんなにも期待しているのか。ユキの眼差しに思うことがあったのか沙明はユキの頬に手を這わせる。そして顔を寄せて、一瞬だけそうっと唇を重ね合わせた。
「トラスト・ミィ。……俺を信じろって」
目の前にある彼の顔が悲しみを堪えた様子で、気丈に笑って見せた。ユキも彼につられて微笑む。離れた愛しい唇がそうユキに信じろと語り掛けるのならば、……いいや、そうでなくても。
ユキは彼の言葉に深く頷く。もう随分と前、ユキが彼と出会ったその時から、沙明のことを信じ続けると決めていただろう。今更曲げる気は、ない。
「沙明」
この宇宙での永遠の眠りにつくために寒さに体を浸した。ポッドの中で身体を横たえ、彼を見上げる。最後の最後、ユキは何もかも悟り切って彼に別れを告げる。自分の手を強く握りしめてくれている沙明の手の温もりを脳、感覚、神経に記憶させ覚悟と共に別れを告げる。
「さよなら、沙明」
今ようやく、彼から手を離す。ハッチが閉じ切ってしまうと視界は暗闇によって支配された。徐々に冷えていく体の感覚を感じながら左耳に触れた。彼の感覚を忘れぬように反復させる。
一瞬のうちに何もかも片付く、そのまますべてを手放してユキは目を閉じる。寒い、寒い。貴方がいなければいつだってそうだ。
「ユキ、待ってろ」
水中で音を聞いた時のように反響してしまって、ポッドの外で彼が何を言っていたのかは分からない。けれども彼が私に語り掛けることがあるのなら、私は凍えたりはしない。そう、信じている。
「必ず逢いに行くから」
叶わない約束が果たされることを夢に見て。
《銀の鍵が満たされました》