LOOP160
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未来を約束したあの時も、同じ夢を見た終わりも。隣にいて欲しいと願ってくれた前回もすべて、始まりに巻き戻ると何もなかったことになる。
何もなかったことになっているのはユキの主観であり、沙明にとってはそうではないのだろうか。そもそも何も起こっていない、ないしはその約束が保たれている場所が本当に存在しているのだろうか。確認できないから霧を掴むような話だ。
一緒に居たいと望んでくれる彼は今の彼なのか、それとも。ユキは己の欲求と、本当に彼のためになることを天秤にかける。
ユキには彼が必要だ、彼がいてくれなければ今まで生きてこられなかったし、これからだってきっとそうだと思う。このまま生ぬるい環境の中で永遠に繰り返しに身を任せていれば、ユキは永遠に彼を失うことはなく、半永久的に彼の傍に居られる。
……またあの寒さの中に取り残されるくらいならば。彼だって、これまで幾度となく一緒に居ることを望んでくれた。
鏡に映る赤い瞳を尻目に、ユキは向かうべき場所へ進もうとする。自分がグノーシアになるのは、真実を知ってからは初めてのことだった。今回はもう終わりになる。最後に彼の顔を見ておこう、今回のループにおいても迷いなく自分を信じてくれた沙明。その彼を誰にも奪われないために。
グノーシアとして目が覚めると、人間を消したいという欲求が己の意識を支配する。それはユキの支柱でもある恋心でも抗えないもの。グノースの正体を知り、グノーシアが人間を消すために存在するのだと知った今はその理屈も理解できる。こうして、人を前にすると消したいという欲求が増々強くなる。
「……よ、ユキ」
彼のいる娯楽室に踏み込むと、ユキの気配を感じ取った沙明がすぐさま声を掛けてきた。様々なゲーム機器の横を抜けてユキは一歩一歩彼の元へと歩み寄っていく。沙明はいつも使用しているソファから立ち上がり、変わらない挑発的な笑みをユキに向けた。
「さすがに分かってるぜ。俺をヤリにきたんだよな」
話し合いが意味を成さない状況にまで追い込んでいた。他に選ぶ手はない、ユキは今から彼を消滅させる。
「……ごめんね。……大丈夫、苦しみはないようにするから」
そんな言葉が何の慰めになるだろうか。せめて話し合いの間に彼を消していれば、空間転移という意識のないままに消滅させていられた。知らないままでいられたかもしれない。
だが、少しでも沙明を長らえさせたいユキはその手段を選べない。今だって、心は彼を消したくなくてもグノーシアである自分がそれを許さない。それに彼をこの宇宙に一人取り残すくらいならという苦渋の決断だった。
なんてことはない。これまでだって数えられないほど彼を消してきた。そして今の彼がこれまでを覚えていて、思い出話を盾にユキの情に訴えかけてくるのならばともかく、この沙明がユキに対抗できるような手段はない。
騒ぐならば騒げばよい、消滅によってすべて痛みなく失われるだけだ。グノースに従うことは沙明のためになる。ユキもこの船の制圧さえ済んでしまえば、次の沙明に会うことができる。これも彼のためだ。最低な思考に陥るからグノーシアとなるのは嫌で堪らない。
「ま、なんつーか、しょうがねえよな……」
「……沙明?」
抵抗しないの、と聞くのはおかしいかもしれない。だがユキは少なからず疑問に思った。沙明がいやに大人しいからだ。
彼は敵だと疑ってかかるだけで、声高に叫び倒すこともある。今から彼を消すにあたっては絶対に一筋縄ではいかないと覚悟していた。協力関係に持ち込んで彼を騙したのだから、罵られるのも仕方がないと思っていた。どんな手を使っても生き延びようとするのが彼なのに。
しかし沙明は、いつもと変わらぬ微笑みすら浮かべてユキを見つめている。そこにユキを拒む感情はなかった。それどころかユキの方へ手を差し伸べて、こちらへ来いとばかりにユキを呼ぶ。
「お前のために死ねるんなら、悪くねェかもな。責任とれよ、ユキ」
「……え」
「苦しくねぇんだろ。信じてっから、今度こそ裏切んなよ?」
冗談めかして沙明が笑う。先ほどまでは仕方がないのだと決めていた覚悟が揺らいで、ぴたりと彼の方へと向かう足を止めた。未だに自分を非難せずに信じている。それだけでも心中が揺らぐがその直前、今の彼の言葉は。
『お前を庇って死ねる男になりてェわ。……なれるっつーなら』
「……ッ‼」
過去の彼の言葉が思い出されて、ユキは揺らぐ。なぜ、今この瞬間に彼は。足元が覚束ないながら、ユキは後ずさりする。覚えているわけなんてないくせに。
「来いよ、ユキ」
死にたくないと泣き叫べばいいのに、だってそれが沙明の本心だろう。ユキが知っているこれまでの彼を統合して考えても、ここで死ねないと沙明は己の中で思うはずだ。それなのに何故、この場面でユキを受け入れる。いいや、いつだって彼は人間であっても、グノーシアであっても、ユキと向き合うと自分自身の最良を選ばない。
ユキは目に見えて狼狽した。今だってこちらに伸ばした手は震えている。笑顔だって、無理をして浮かべているのがよく分かる。消えたくないという心理は透けて見える。誰よりも生き汚いという評価を得ているくせに、どうしてそんな態度をとるの。
「……オイ。ユキ、なんでお前が泣くんだよ」
「……っ」
気が付けばまた、頬には涙が伝う。ここのところ、こんなことばかりだ。ユキは自分の手に零れた涙を見て、彼の言葉通りのことを思う。何故ユキが泣かなければならないのか。これから消えるのは沙明で、ユキが彼を消すのだろう。泣きたいのはきっと彼の方だ。
沙明は心配そうな眼差しでユキを見つめる。ユキ、と呼びながらこちらへ歩き出す彼とは反対にユキ自身は後方へ引いた。来ないで、と震える声で何とか彼に告げる。これまでのことを思い出してしまうと、ユキは心を抑えられなくなった。
今も自分を信じようとする彼、いつかはユキに傍に居てほしいと懇願した彼を。一緒に生きてと約束をした。亡くした友のために生きながらえなければならないと打ち明けてくれた彼のことを。全て覚えていながら、今ここで彼を葬る気なのか。
時が巻き戻り、すべてがなかったことになるのならそれでもいい。前の自分は真実を知らなかったからできたのだ。だがこの世界はこの結末のまま進むのだと知っていて、自分が彼を消せばこの宇宙の彼は永遠に失われるのだと理解してしまった。
知れば知るほど彼を消してしまえる理由はない。それも自分の身勝手によってなど許せるはずがない。グノースが望んだって私は誰にも彼を渡せない。ユキの手は無意識に、己の太ももに以前から装着していたレッグホルスターに初めて手を伸ばす。使い方が分からないと思っていたそれを引き抜いて、胸に押し当てるまでの間に思考は無かった。
「……ユキ!」
――――貴方を守ると決めたのは私だ。
彼が呼ぶ声には止まらなかった。見失いかけていた己の存在意義を取り返して、ユキはためらいなくトリガーを引いた。意思で止められないのなら、彼を殺さなければ進めないのなら。この手段しか思いつかなかった。
冷酷な電子音と共に一線上に激痛が胸を突き抜ける。銀色の髪がふわりと宙を舞ってそして地に伏した。その場に立っていられなくなったユキの胸に空いた傷からは、その銀によく映える赤を広げていく。これまで幾度となくこの狭い宇宙でやり直しをしてきたが、自死を選ぶのは初めてだ。
ユキはいつの間にか赤に染まった手のひらを掲げて、ぼんやりとそんなことを考えていた。……ああでも、大したことはない。彼に救ってもらう前の方がもっと胸は痛かったように思う。遠くで、床を蹴る音が聞こえる。
「ア、ァ……、ユキ……」
血に濡れた手の先に、呆然とした沙明が照明の明かりを背負って立っていた。彼は自分が汚れるのも構わないでユキへと手を伸ばす。酷く狼狽したその表情は、彼が冷静ではないことを十二分にユキに感じさせた。
「なんで、お前……こんな」
「……よかった」
これほど消耗していたならば、貴方に触れてもグノーシアとしての能力を行使する力は残っていない。ユキはせめても気丈に微笑んで見せる。先ほど荒波のように荒れていた心が今は驚くほど穏やかだった。今この時、ユキと沙明は先刻とは完全に立場が逆になっていた、ユキが倒れる一部始終を見ていた沙明は先ほどのユキ以上に混乱している。
他に選べる選択肢がなかったのだ。目の前に知り合いの自害を目の当たりにするなど、ショッキングに違いないが、消滅するよりはきっとマシだ。こちらの方が、遥かに彼が未来を生きられる可能性は上だ。消えてしまえば終わりだが、生きていれば新たな救いが彼の元に訪れてくれるかもしれない。……彼が絶望で自死を選ばないことだけは確信している。
「あ、アァ……、血が……っ、クソッどうすりゃいいんだよ‼」
これまで見たことないほど彼は取り乱している。宇宙船が粘菌にまみれた時も、議論で追い込まれた時も彼はここまで慌てなかった。「クソッ、なんでこんな……っ」荒く呼吸を繰り返していながら、必死にユキの胸から零れる血液を抑えて、これ以上出血しないように抑えようとする。「誰か、残ってねぇのかよ……ッ」そんなことをしても急所に入っているのだから、助かりようもない。
ユキはそっと沙明に手を伸ばす。「助けを……、クソッ」血に濡れた手で力なく彼の手を握った。
――――いつだったか、前にも同じような場面があった。見覚えのある光景がいつ展開されたことだかは全く思い出せない。間違いなく、自害を選ぶのは初めてだから同じ場面があるわけはないのだけど。彼を落ち着かせるために声を絞り出した。
「沙明……」
これは大した問題ではない。またユキは別の宇宙で五体満足で繰り返す。彼と共には生きられない。仮にこの宇宙に残れるのだとしても、彼の傍にはいられない。……私は、グノーシアだから。
その光景は数分前の時間を鏡で映したようだった、いつのまにか彼の方が涙をこぼしていた。ユキは彼と握った手と逆の手で、彼の涙を拭う。何も悲しむことはない。この船で出会って精々三日、顔見知り程度の関係で何をそんなに取り乱す? 貴方にとっての危険はこれで排除され、生きられるのだと堂々としていていいのに。
「沙明が無事なら、それで……」
「ユキ……っ」
彼が私を背負いあげて何処かへと向かって走り出す。人一人抱えて走るだなんて、意外と力持ちなのだと初めて知った。黒髪が靡いて覗く横顔がいつだったかと同じように懸命に見えた。ゆらゆら揺れるせいか、彼の温かい背中のせいか酷く眠気を感じる。眠ってしまう前に、精一杯の力を振り絞って彼に聞こえるように話しかけた。
「幸せに、生きてね。……沙明」
彼の背で目を閉じる。それがユキの心からの願いだった、後悔などない。今ここには以前、迷いながら現実から目を背けた時の不快感は無かった。消える意識の中、走馬灯だろうか。この船の中ではないどこかの景色が瞼の裏を巡る。
雨の降る星、水溜まりに滲む鮮やかな赤。同じ色に染まった私の手を強く握り、誰かが何かを語り掛ける。霞む目ではよく見えないけれど、その青年が黒い服を身に纏っているのだけは何となく分かった。この記憶は一体いつの出来事だろうか。