LOOP160
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幾度となく繰り返した始まりをユキは横目にすり抜けていく。思考を停止させることは事実から目を背けるということだ。考えなければ彼女は苦しむ必要などなかった。
なんせ現実は恐ろしいばかりである。自分が誰かを宇宙から葬ってきたこと、彼に対して積み重ねた非道の数々。これまでの己の行いはすべて間違いだったのではないか。その不安は足元から這い上がって自分を覆いつくす勢いだ。
冷えた床の上に座り込んでいた。膝を抱え、その中に顔を埋めて光を閉ざす。目の前にはいつもと変わらず鏡があるけれども、見上げることができなかった。目を背けたまま、ユキは部屋を飛び出て安息の場所へ向かう。
「沙明」
その名を呼ぶと、彼はユキの姿を見つけてニヤリと笑って見せてくれた。ユキ、と確かに彼女を呼び、その腕に抱き寄せることすらしてくれる。まるでこれまでのユキとの時間の積み重ねが存在しているように錯覚する。甘く優しい夢幻だ。こんなにも、彼が優しくユキを受け入れてくれるのだから。
彼がいてくれればユキは幸福だ、他に何もいらない。後にも先にも進まなければ、彼はこうやって普遍的な優しさをユキに向けてくれる。考えることをやめていれば、ぬるま湯の中にいるような心地よく温かな夢を見ていられた。
沙明にとってユキという存在がどのようなものであるのか、おそらくそれは彼にしか分からないことであった。悪く言えば軽薄だが、沙明は女性とセツに対してはいつだって嫌な顔をせずに応対した。
心中でいかに疑っていようと、たとえ嫌悪を抱いていようと。沙明は彼女たちに対して、あからさまに嫌味な感情をみせつけたりはしない。誰にだって彼は優しい、それがユキの沙明に対する評価であった。
前へ進むことのない時間の中でも彼らの関係に変化はあった。もちろん、繰り返されるごとにリセットされる乗員たちには分からない、当人である沙明もそうだ。さすがにユキは己のことであり、ループする世界の記憶を保持しているからその変化を明確でなくとも悟っている。だが、分かっているのは決して彼女ひとりではなかった。
議論が終わり、今日を生き残ったことに喜ぶ沙明はユキを誉めそやした。廊下を複数の足音が行く。ユキは彼の横に付き従って、彼の明るい笑顔を見ては柔らかに微笑んでいた。
「ハッ、ユキサマサマってなァ? お前さえいりゃ、心強いぜ」
沙明がそうやって髪を撫で、自分が傍に居ることを肯定してくれるのはユキにとって非常に安心をもたらす。後先を考えず今だけを見つめるのならば、沙明にとってユキは生き残るのに役立ち、そして扱いやすいことこの上ないに違いない。沙明はユキの髪を撫で、そのまま手をするりと彼女の腰に滑らせる。
ユキは彼の瞳を見上げてその色を眺めた。
「なァユキ、礼をしねェとな? ま、俺が返せるモンっていったら一つしかねェけど……」
何を思っているのかは知らないが、単純な下心だけではなさそうだ。きっと彼はユキが自分に抱く好感を多少なりと自覚し、それを活用することを考えている。ユキを、純粋に女性として求めているわけではない。いつかのループのときのように心を通わせてはくれていない。あの沙明は過去のもので、今に続いてはいないからだ。触れられていても、心が通じ合う感覚はない。
「返すぜ、身体でな」
あまりに妖艶に囁きかけてくるためにユキは俯く。これは真にユキの欲しいものではない。だが望まないものでもない。たとえ彼であって彼でなくても、沙明が友好的にくれる言葉は喜びに等しい。だからユキは、さわさわと臀部を撫でつける彼の手を払いのけたりはしなかった。
彼が求めるのならばそのまま受け入れるだけ。求めて貰えるのならばそれだけでよかった。何十回とこれまでそうやってきた。
いつもと異なるのは、そこに第三者の声が割って入ったことだった。
「沙明、やめないか!」
パチン、と乾いた音がした。ユキの長い銀髪がさらりと舞い上がって、再び重力に従うまでの間に新緑が彼女の目に映る。ユキの目は既に、不躾にも彼と己との間に割り込んだ人物を捕らえていた。
険しい顔をしたその人物はユキを撫でつけていた沙明の腕を捻じり上げる。声を荒げてユキに触れていた彼の手を叩いたのは、これまでにも何度かユキに忠告を与えてきたセツであった。
「ってェな! ンだよセツ、お前には何もしてねえだろ!」
「しているのと同義だ。…………ユキから手を離してくれないか、彼女にそのような働きかけは遠慮してもらおう」
唐突に捻られた腕の痛みに沙明が声を荒げ、セツに抗議するとセツは淡々と彼に言ってのけた。沙明はパッとユキから距離を置いて立つ。ユキは初めて見るその光景を、口を挟まずに見ていた。
…………どうして今更セツはそんなことを言いだしたの。ユキの中に在るのは沙明のセクハラを退けてくれたセツへの感謝ではなく、どうして彼との時間を邪魔したのかという不服さであった。セツも幾度となくループをしているのならば、ユキがこのように沙明に扱われていることを見るのは初めてではないだろうに。
とりあえず、彼の名誉のためにも彼がユキの意志を無視したわけではないことを釈明しておかなければ。そのように考えたユキはセツに弁明を語り掛けようとする。だが、それを遮ったのは沙明だった。セツの手を振りほどいて、ずいとセツに身を寄せる。
「アーハァ、じゃあ何か? セツさんが俺の相手をしてくれるっていうんですかねェ」
ユキから離れた沙明の視線はセツへと向けられていた。胸に重しを乗せられたように息が詰まる。ユキの瞳は揺れ、それでもぼやける世界を見つめていた。心を押しつぶす痛みを感じ取っていてもそれをどうすることもできなかった。
声帯を潰されてしまったかのように何も言えずに動向を見守る。沙明はユキの心など知らずにセツのおとがいに手を掛けた。
「俺ァ、それでも構わねェけど。汎だろうがセツならイケるぜ?」
彼の眼中にユキは無かった。セツが何やら不本意ながらに沙明に言葉を返しているようだが、音は何も聞こえない。というよりもユキの聴覚は聞こえる音を言葉として認識できていないようであった。
ユキの思考は彼女の意志を汲む間もなく五感から得られる情報を拒んだ。ホワイトアウトしたユキの心に、ポタっとオイル染みのような黒が降る。
――――知ってた。
自分が何百回と紡いできた時間の中で、どんなに彼との距離を詰めても。自分の未来にそれが反映されることはないこと。沙明との距離は近づいてなどいない。すべては錯覚だ、分かっていただろう。今の彼は、過去の彼ではないのだから。
「ユキ……?」
不明瞭な視界の中でセツが自分を呼んだような気がした。だが、答える気には到底なれなくて胡乱な瞳でセツを見つめる。熱された瞳から零れる雫が頬を伝い落ちるのも拭えない。心配そうに己を見つめる赤みがかった瞳を見つめてもう一度思った。
――――知っていたんだ、ずっと前から。
自分が彼の特別になり得ないこと、セツには到底及べないことを。ユキは何も言わずに目を伏せる。沙明が本当に望んでいるのはセツか、……とにかくユキではない誰か。自分が彼の傍に居られたのは、ユキが沙明にとって扱いやすく手頃で、そこにいたからという理由だけだ。彼は自分にとって都合のいい誰かを選んだだけであり“ユキ”を望んでくれていたわけではない。
セツが汎だから、セツが沙明を拒むから。女性である優位さがユキを沙明の隣で居させてくれた。だが沙明にとってはきっと、セツが汎であってもセツの方が良いのだ。
「ユキ?」
セツの表情を読み取り、ユキに異変があることを察したのだろう。沙明の黒い瞳がユキを見る。そこでユキは我に返った。セツは未だにユキを心配そうに見つめ、沙明は心配というよりも困惑をこちらに向けている。
ユキは重たい腕を持ち上げる。冷えた手で触れると自分の頬が濡れているのが分かった。ここに留まっていることが、あまりに惨めであることも。ユキは踵を返して口を開く。
「……ごめん、私。部屋に戻るね」
追随を許さない声色で言い放った。
期待していたわけではなかった。これまでは時が巻き戻っていると考えていたし、今となっては、彼はこれまでの彼ではないと知る。彼に何かを期待するなんてことが馬鹿げていると考えていた。何も残らない、というよりもまっさらな彼に何を期待しても仕方がない。それなのにどうしてか涙が止まらなかった。