LOOP145
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ひとまず、知り得たグノースに関する情報はセツと共有しておいた方がいいだろうか。ユキは身支度を整えて自室を後にする。抱えた一抹の不安に対するセツの見解もなるべく早いうちに聞いておきたいところであった。
セツが利用している共同寝室の客室はユキの使用している客室からほど近いが、もうこの時間ならセツはメインコンソールに向かっていそうだ。人が来る前にそこで話ができたらよいかもしれない。ユキは廊下を歩きながらちらと天井を見上げた。
そろそろ話し合いのためにLeViが乗員たちに集合のアナウンスを行う頃合いだ。早く行かなければセツと悠長に話をしている暇はないのかもしれない。他に気がかりなことが多すぎて、今回の状況をまだ確認できていないから少し急がなければ。そう考えると自然とヒールが床を叩くテンポが速くなる。ふわふわと髪を靡かせて歩く彼女がロビーを突っ切ろうとすると、彼女を呼び止める声がかかった。
「……ユキ⁉」
あまりに真に迫った声で呼ばれたので、思わずユキは足を止めて振り返る。その声の主は、歓談の輪を抜けてこちらへと向かってきた。淡い色のオッドアイが驚愕に見開かれている。彼女は乗員の一人ジナだ。彼女は何か信じられないものを目の当たりにしている表情でこちらへと向かってくる。
ジナとはこれまで仲が良かったかと問われても、ユキ自身あまりよく分からないというのが実情だ。特定の誰かとの時間を求めるユキは、情報収集目的でしか彼以外の乗員とは時を共にしない。
そして相手側から積極的に話しかけてくる乗員……、しげみちやSQなどであればともかく、控えめなジナから声を掛けられることはそう多いことではなかった。彼女が責任感の強く真面目で、心根の優しい乗員であることはこれまでのループで知り得ていたが。
そのジナはユキに駆け寄ると、ユキの二の腕を支えて顔を覗き込んでくる。
「怪我は? …………もう治療が終わったの?」
「怪我?」
迫真のジナの問いかけにユキは思わず首を傾げる。一体自分が何の心配をされているのかが分からなかった。視線を下げて己の身体、胸のあたりをちらと見る。
別段いつもと変わりない。身体に痛みがあるわけでもなく、動かないわけでもない。今だってこうやって、ここまで歩いてきたのだから十分にユキは五体満足だ。
「おぉう、ユキ。大変だったNE。もう元には戻らないカモ……、って聞いてたからSQちゃん心配してたんだZE」
「え、……あの」
まったくもって話の筋が読めず、ユキは言葉もなく困惑する。一体何の話だ、他の誰かと間違えているのではないだろうか。ユキは先ほど目を醒ましてここに来たばかりだというのに。怪訝そうな表情を見せるユキに対し、SQもジナも矢継ぎ早に話を続ける。
「……そういえば、他の人にはもう会ったの? みんな貴女を心配していた」
「そーそー。特にユキをこの船に連れてきたお連れサン。真っ青なカオしてたから早く会いにいったほうがいいカモ……」
「あの、ごめんなさい。全く話が見えないんだけど」
意味の分からない話に耐えかねてユキは二人の話を遮った。油を売っている時間は無い、これからセツのところに行かなければ。……そう、もう話し合いの時間が迫っているのだから、急がないと。ユキはそっと己の腕を掴んだままのジナの手を下ろして、ユキは話の輪を抜けようとする。
「少し急いでるから、二人ともまたあとで」
「あ……、ちょっとユキ!」
今度は呼び止めにユキは足を止めなかった。ジナとSQを振り切って廊下を進む。そろそろメインコンソールへの集合が掛かるのに、彼女たちはあんなところで何の話をしていたのだろう。先ほどの二人の話を思い返しながらユキは己の手を閉じ開いてみた。その間も歩みは止めずに前へと進む。
これまでと変わりなく手も足も問題なく自由に動く。これまで何十とループを重ねてきたが身体の心配をされたのは初めてだ。今回は何か特殊な条件下であるとでもいうのか。あの生物汚染事件やククルシカ騒動の時のような。
考えながら廊下をユキは進む。急いでいたものだから、不意に眼前に現れた人物にぶつかってしまってよろめいた。相手の肩口にぶつけた頬を抑えながらユキはまず謝罪の言葉を吐く。
「っ、ごめんなさい」
「……あ」
食堂のから出てきたその人物の足元の色を見てユキはハッとした。一言漏れ出た声だけで、その人物が誰であるかを認識するのは彼女にとって容易だった。胸の中に沸き上がったのは温かな感情だ。どんなに急いでいたって、彼と出会えたことには純粋に喜びを抱く。ユキは顔を覆っていた手を下ろし、彼の姿を見上げる。
「テメー……」
「……っ」
慕ってやまない彼の名を呼ぶつもりだった。この目に彼の表情が映るまでは。……いいや、ユキの意志で押し留めたというよりも、反射的に呼べなくなってしまったというのが正しいかもしれない。
目の前に立つ黒い服を身に纏った青年。沙明は普段通りの出で立ちでユキの前に立っていた。彼の浮かべた表情だけが、いつも彼が見せるものとは違っていたが。ユキは彼との間にある寒々しい空気によって身体が震えるのを感じる。
これまでのループでユキは沙明と多くの時間を過ごしてきた。きっとこの船内では誰よりも多く彼と時間を共有しているに違いない。
だからこそ、彼の些細な表情や声のトーンで彼の言葉の嘘の有無と、そして何を思っているかの端くれ程度は読み取れるようになっていた。そのために今彼がどのような感情を抱いているのか、確証には至らくとも分かってしまうのだ。
「あぁ…………。目ェ、覚めたっつーわけ」
小さな黒い瞳がユキから逸れる。困った様子で寄せられた眉は、この場を逃れたいという彼の感情をありありとユキに感じさせた。繰り返すループにおける、溢れんばかりの親愛を向けてくれる彼が見せることのない様相。
苛立ちや嫌悪とは異なるのかもしれないが、ユキを視野に入れることすら拒む態度を彼は見せる。…………こんな態度をこれまで彼に取られたことがなかったから、対処のしようもわからなかった。
「意識、戻ったんだな。……元気そうで何よりだわ、ホント」
彼が大きなため息をついた。真意の分からない彼の発言にユキは身を竦めた。身体の芯を凍えさせる恐ろしい不安感で心が埋め尽くされそうになる。動悸がする、感じなくなって久しかった心臓の拍動が乱れる苦しさ。これは彼に救われる前に嫌と言うほど覚えた感覚だ。
「……あの」
せめても理由を聞くことができたらと思った。何か気に障ることをしたのなら謝りたいと思ってユキは言葉を絞り出す。だが沙明は聞きたくないとばかりにユキの言葉を遮り、手を振って彼女に背を向けた。
「俺ァもう行くわ。……じゃ」
それ以上、ユキが彼に掛けられる言葉はなかった。ユキとの会話を彼が拒んでいることは、誰が見てもきっと一目瞭然だった。振り返ることもない彼の背中を見て、ユキは後退するしかできなかった。目的地に行かなければならないということも忘れて、ユキはこの場から逃げ去ることしか選べなかったのだ。行くべき道を引き返し、目についた部屋の中へと滑り込む。
「……」
扉が閉まると足の力が抜けて、その場にへたり込んでしまうのを止められなかった。暗い絶望が胸を締める。これまでループを繰り返すたびに、明らかに乗員たちから感じる自分への好感が変化しているのは感じていた。
でもここまで、顔を見るのも嫌だと言わんばかりに避けられるのは初めてだった。沙明によく思われていないと感じた時でも、いつだって話くらいは聞いてくれていた。痛む胸を抑えて息を零す。気を抜けば涙まで零れ落ちそうだ。
「どうして……」
知らずのうちに彼に何かをしてしまった……? だがまだ言葉を交わす前だっただろうに。何かが、おかしいのか。ユキはぐらぐらする頭で何とか状況を思い返す、そして今回のループはいつもとどこか違う流れであることに彼女は気が付いた。
つつがないユキのことをやたらとジナやSQが心配してきたり、議論の時間が迫っているのに誰もメインコンソールに向かう様子はなかった。……そういえばとっくに議論の時刻になっているはずなのに、未だにLeViからのアナウンスが無い。
「何か……」
何かがいつもと違うのではないか。鍵を、とユキはショックの中に居ながら震える手のひらを差し出す。すると彼女が願った通りにかつてセツが渡してくれた銀の鍵がユキの掌の上に現れた。情報を記録する銀の鍵はこれまでの出来事を記憶するだけではない、現在のループにおける最低限の情報をユキに提供する。
このループにおいての乗員の数、役割の存在やグノーシアの数についてだ。ユキは目で文字を辿っていく。今回は乗員十五名、役職無し、そして。これまで在り得なかった状況が記載されている、ユキは大きく目を見開く。
――――グノーシア数、ゼロ。
「ゼロ……?」
そんなことがあるのだろうか、ユキは半信半疑の眼差しで映し出された状況を見つめる。これまでループを繰り返していて、グノーシアがいない環境なんて一度もなかった。粘菌に汚染され船が壊滅状態に追い込まれても、隕石の衝突で船体が破損する事故に見舞われたときだってグノーシアは必ず存在していた。
不可解な現象を飲み込めなくてユキは映し出された『0』の文字をただただ見つめていた。遠くで何かが動くような機械音がしているような気がしたが、気にも留めなかった。長く、長く、衝撃を受けた頭は思考を続けられずに呆然と画面を眺めさせた。
空中に投影されたビジョンの、水色を基調としたシステム画面の裏で何かが動いて、ようやくユキは視線を動かした。わずか二メートル先、ユキの目の前に立っていたのはおそらく人だ。豊かな銀髪と深緑の目、その人物と視線が合った瞬間にユキは意識を失った。