LOOP122
夢小説設定
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
ブラックアウトしていた世界が光を取り戻す。閉じていた瞼をゆっくりと押し上げれば、いつもと変わらない部屋の天井が目の前に在った。長いのか短いのかも分からない眠り。それを終えた今、ここはいつもと変わらぬ始点だ。
彼女は左手を持ち上げて、手の甲を己の額に当てた。過去のループの中での出来事は時が塗り重ねられていくたびにやがて色薄れていく。忘れることはないけれども情報として統合され、微細なすべてを思い出すことが困難になるのを実感している。
特に同じ時間を繰り返していると、それが果たしていつのことだったか。どのループで、何の出来事によって引き出されたものかを失念してしまうことがある。それでも今ならばまだ、鮮明に前回のループのことが思い出せた。
彼の声を脳内でリプレイするとキュウと心臓が温かさで締め付けられる感覚を覚えた。ユキは緩んでしまいそうになる口元を引き締めて、手の甲でそのまま降ってくる光を遮った。ベッドに横たわったまま何度も何度も、前回のループの終わりで彼が掛けてくれた言葉を噛み締める。
“お前さぁ、もうちょい自分を大事にしとけって“
その言葉と共に沙明はグノーシアとして前回の私を葬った。結果だけを見れば、沙明がユキを消滅させ前回のループは終了した。それだけなのだが、あの状況に置いての沙明の言葉。そして彼の行動の意味が分かったから、ユキは今彼が愛しくて堪らないのだ。
異質な空間だった。ステラの花の香りによりユキは理性を失いかけていたし、それは沙明も同様であったはずだ。加えて沙明はグノーシアであったのだから、人間の倫理など取るに足らないものだったに違いない。それでも彼はユキに対して、人間じみた優しさを与えてくれた。
ユキに辱めを与えても前回の彼は問題なかったはずなのだ。ユキは沙明に好意を抱いているし、彼にされることに対して抵抗の意志はなかった。そんな状態の女が目の前で据えられていて、彼自身にも本能的な欲求があったはずだ。
しかしそれを無視して、彼がいつも抱く恐れを瞳に宿していながら。沙明はそれでも即座にユキを消滅させることを選んだのだ。おそらくは、ユキの人間としての尊厳を守るために。
あの場においての沙明は、人間を消すという単純なグノーシアとしての欲求を満たすよりも。自分という魔の手からユキを逃れさせることを目的として、沙明が力を行使したと、ユキはそう思っている。だからこそ、こんなにも心躍る感情が胸に込み上げてくるのだ。
彼は優しい人だ、下品で軽口を叩くけれど情に厚い。それはこれまでのループでも証明されてきている。敵対している相手にも、決して非情になり切れない部分があるのが彼だった。女たらしだが、弱者に対しても人並みの感情を向けるだけの心がある。不器用だが、誰かを重んじるに長けているとユキは沙明を評価している。
ユキは寝返りを打って身をベッドの上で丸める。前回最後に彼が握ってくれた右手を胸に押し抱いた。そう、だからこそ少しもどかしくなってしまうのだ。
きっと、誰に対してもそうなんだろう。例えば前回のループの状況に立たされたのがユキではなく他の女性……、例えばSQやジナであっても。沙明は同じ行動をとっただろうとユキは考える。決してユキだけに向けられた特別な行為ではないと思った。
この繰り返す宇宙の中で、すべてが巻き戻ってしまう時間の中で。積み重ねによって彼の特別に成り上がることはできない。随分と前から分かっていて頭では理解している。けれども心のどこかでは諦めきれない気持ちがあることをユキは感じ取っている。
それでもこの時間が損なわれるよりはマシか。ループが終わってしまったら、きっと彼と共に過ごす時間も失われる。
――――私は、どんなときも目的のために動くだけ。
「ユキ様、そろそろお時間です」
ポン、と。LeViが前回の何もかもは忘れ去って、変哲もない言葉を掛けてきた。ユキはベッドを押しやって身体を持ち上げる。そろりと足を下ろして素足に黒い皮を纏わせた。いつまでも過去にこだわってここに居座ってはいられない、また今回だって彼との時間を作ればいい。
銀の髪を翻して彼女は数歩、前へと歩み出る。鏡の前に立つと気分にハリが出るのを感じた。穏やかで優しくて、人畜無害な女の子ユキ。彼女の在るべき姿でみんなの前には現れなければ。そして、どんなときも彼が生き残るための最善を。彼が好いてくれる女の子の姿を。
鏡に映ったユキは赤い瞳を妖しく光らせて、彼女自身に微笑みかけた。今回のユキはグノーシアだ。彼が味方ではないのが残念だが、役割としては味方であることの方が少ないのだから味方の時がラッキーなだけだ。それにどんな役割を与えられてもユキには立場を覆す上回る信念がある。
誰にも疑われることのない振る舞いで、場を制し彼を守り続けよう。できるかぎりの猶予を彼にもたらすことが、ユキとしての欲求だ。願わくはユキがこの宇宙での活動を終えるまで、彼を長らえさせたい。それを違わせることはない。……けれども。
――――もしもの時は、私が消してあげる。
自身の願望に対して、正反対の生理的欲求を胸に宿す。誰かに彼を奪われるくらいなら私自身が……。そのように歪んだ欲求が生まれるのは今自分が人間ではないからなのだと解釈した。これだけはユキの恋心でも捻じ曲げられない。
自分自身の存在意義すら揺ぐから、グノーシアとなるのはあまり好きではない。無論、彼が一緒にいてくれるのならば話は違うけれども。
乗員の総数が十五名。その内グノーシア三名、エンジニア、ドクター、AC主義者、バグ。役職がすべての役職が揃い踏みしているのが今回のループのようだ。グノーシアであるユキの仲間はオトメとラキオ。今回のループは状況に応じて彼らをサポートすればよいわけなのだが……。
部屋に足を踏み入れた瞬間に、彼女はすぐさまに気が付いた。ユキはきょろきょろとメインコンソール内を見渡す。乗員はそれぞれ自席についている。彼らは自由に過ごしており、歓談をしているものや一人で思案に耽る者もいる。とにかく乗員がここに全員揃うはずだ。というのに、沙明の姿だけがここにない。
「沙明は……、まだ来ていないの?」
心配を露わにユキが、彼の所在を確認するための質問を投じる。以前のようにどこかで眠り込んでしまっているのだろうか。それとも話し合いに参加する気が無いループなのか。どちらにせよ、それならば彼の元へ行ってみたいと思う。
様々な考えを浮かべ、ユキは彼を案じる。口々に誰もが知らないと返答する中、ばつが悪そうに彼女に語り掛けたのはセツであった。
「ごめん、あの」
「セツ?」
「……我慢できずにやってしまいました」
やって、しまった。一瞬何のことだか分からなかったが、セツの示す事柄を察するのに時間はかからなかった。すぐにセツ言葉の意図を理解してしまってユキは目を見張る。
それは胸を押しつぶすほどの衝撃ではあったが、目を見張る程度に自分の感情の表出は抑えきった。僅かな驚きのまま、表情を凍り付かせてユキはセツの言葉を受け止める。瞬間、胸の奥底からはどす黒い感情が煮え立ち、血液が沸騰するほどの苛立ちとなってユキの中に込み上げた。
「……そうなんだ」
やってしまった、と。セツは具体的に何をやってしまったのかは濁したが、これまでのセツと沙明との関係で答えは容易に導き出すことができる。現場を見たわけでもないが、理由さえ手に取るように分かった。以前のループにだってこの行動を匂わせるような言動はあった。
この宇宙に、もはや沙明は存在しない。セツが殺してしまったからだ。
ユキにとってみれば沙明という男は魅力的である。だが他の乗員たちからは微妙な評価を得ているのが実情だ。悪人ではないのだが、彼のデリカシーのない下品な発言を嫌う人間は多い。特にセツは彼を酷く苦手としていた。
おそらくは今回も、いつものように沙明がセツに対してセクハラを働いたのだろう。セツはそういう沙明の言動を嫌悪していた。自分は女性ではなく汎だ、女性として扱うことはやめてほしいと苦言を呈すループをこれまで何度も見てきた。その苦言の中には、沙明に対する殺意を滲ませているものもあった。今起こっている事象は想定できない展開ではない。
沙明はもう、この宇宙船にかけらも残っていないだろう。セツの手でエアロックから放り出されて、きっと肉体は今や宇宙の藻屑と化している。確かにこの度の彼の結末は、セツの尊厳を侮辱する沙明の自業自得だ。根は優しくても、軽口の中にデリカシーの欠如している内容があることは事実。セツの殺意を全否定することはできないと、ユキは脳内では分かっている。
「……やってしまったものは仕方ないね。今は緊急時だし、悔やんだって彼が戻るわけでもないから議論を始めようか」
徹して穏やかにユキはセツに微笑んだ。このループでは初対面の乗員たちはユキの意見に同意を示している。今は非常事態で最優先事項はグノーシアの排除だ。放っておいたってセツが自分たちに危害を加えるわけではないから、きっと何かをする必要はないと思っているのではないか。
人を葬ったというのにやけに落ち着いているのは、セツがユキと同じようにループを繰り返しているがゆえだろう。どうせ次のループが始まれば、沙明の死は無かったことになる。人の生き死への感覚が麻痺しているのだ。
ユキもセツと同じだから事情は分かっている。セツはすまない、と一言告げて苦笑した。ユキはたおやかにセツを見て目を細める。
「気にしないで、セツ」
口調はあくまでも平静だった。セツの気持ちも分かる、ユキだって同じ。彼女の感情もすっかり鈍ってしまって、特定の感情以外は鈍い。それでも彼女の中で唯一、恋だけはいつでも鮮明だった。……ただひとり、彼だけがユキにとっての例外であった。
沙明の消滅は今でも恐ろしく、身を切られるような痛みを呈している。仕方がない、仕方がないと繰り返し言い聞かせる言葉の中に、ナイフのような切れ味の一つの真実がすべてを切り裂く。
――――これはグノーシアが人を消すのとは違う。
ユキは囲んだ円卓の下で、己の太ももに血が滲むほど爪を立てた。