LOOP121
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∞
ステラの言葉はその場限りだろうと聞き流して、昨晩はあの後すぐに彼女と別れた。空間転移を終えてユキは自室の中で目を醒ます。予想を外れ、どうやらまだ消されていないらしい。納得ができなくて首を傾げる。
さて今日はどう立ち回るか。ユキの直感を信じるのならば、沙明は間違いなくグノーシアだ。発言に矛盾があるわけではない。しかし百二十一回とループを繰り返していれば特に、想いを寄せている人物の嘘のシグナルは間違えない。とっくに察せるようになっている。
だからこそ、沙明が潜伏しているグノーシアであると考えるとして。昨晩の時点で残っている乗員は彼とユキを含めて五名。先の空間転移で一人この中から人間が消えていると考えるべきだ。そうなると現在この船の中に乗員は四名。
少なからずグノーシアは一体、乗員の中に紛れている。おそらくは沙明で確定しているが。それに加えてユキが見つけ出せていないグノーシアがいれば、この船はもうグノーシアの支配下にあるはずだ。そうなるとユキには、言葉にし難い、始まりへ戻るときの感覚があるはずなのだが……。どうにも今は何も感じ取れないでいる。
ベッドから起き上がって、ユキはいつものように身支度を整えながらLeViのアナウンスを待った。昨日コールドスリープしたコメットがグノーシアであったならば、本日の議論も行われるはずだ。もしもそうなら今日の話し合いでは沙明が槍玉にあげられることになるか……。
光を反射させ姿を映す鏡の前に、彼女は立って己の姿を眺めた。癖のない銀色の髪に、深い湖を思わせる深緑の瞳。いつだって決して何が変わるわけではないのだが、おかしなところがないかは気にかかる。
服の乱れもそうだ。上着やスカートの皺の有無まで確認せずにはいられない。そんなことをいったい、いつから気にするようになっただろうか。習慣となってしまえばよく分からない。
きらりと耳に飾ったピアスが光に煌めいて、ユキは光に晒された左耳を飾る金の円をじっと見つめる。鏡に顔を近づけ、ピアスを見ながら思うのは以前のループでの彼の言葉。この飾りが誰から送られたものなのかを彼は問うた。彼はあの時、一体何を言いたかったのか、嘘は分かっても未だに彼の真意には辿り着けないでいる。
「ユキ様」
心地のよいポン、という音と共にLeViの音声がユキを呼ぶ。ユキはピアスを眺めることをやめ、視線をスピーカーのある天井の方へと向けた。LeViの声は続ける。
「お見せしたいものがございます。至急、研究ラボにお越しくださいませ」
「研究ラボ?」
議論を行うのであれば、メインコンソールのはずだろうに。ユキはLeViに示された場所を聞いてまたも首を傾げる。研究ラボはこの船の乗員であれば、ステラがよく滞在している場所だ。この船の制御を任されている擬知体LeViの端末である彼女はここで多くの時を過ごす。研究ラボでステラが、花などをいくつも育てているとかつてのループからユキは知っていた。
昨日の話もある。ユキを呼び出しているのはLeViというよりもステラなのかもしれない。話し合いを差し置いてLeViにユキの誘導を命じられるのは、ジョナスのいない今、考えてみればステラの外いない。
「分かった。……すぐに行く」
ユキはさらっと髪を靡かせ、踵を返す。これまでのループでこのような展開はなかった。だが時間通りに話し合いが行われないことで、何かしらのイレギュラーが起こっていることは察せられた。ある程度の覚悟をすべきだと彼女の直感は告げている。自然と眉間には皺が寄った。気を引き締めて部屋を出る。
寒さを感じるほど白い廊下を歩いて目的地へ進んでいく。しばらく歩いて研究ラボの入り口に到着した。廊下には静寂だけが滞在していて、ここに来るまでユキは誰も他の乗員には出会わなかった。そもそも乗員の人数が少なくなっていたこともあるが、人間の気配を全く感じない。地肌を這いまわる冷ややかな不快感。これまでも数度抱いたことのある恐れ。
センサーが研究ラボの入り口に立つ彼女を感知して、普段と変わりなく門を開いた。彼女は深く深呼吸をしてから中へ足を踏み入れる。扉の内に立った時、いつもは感じなかった甘い香りが鼻をついた。
「ステラ……?」
恐々と彼女の名を呼ぶ。呼吸するたび噎せ返る甘い香りが肺胞までを濡れ浸す。ユキは奥へ進みながらステラの姿を探した。研究ラボ内はステラの育てている花が満開だ。甘い香りの根源はおそらくこれに違いない。
……それにしてもいささか香りが強すぎる。ユキは衣服で鼻孔を覆って先へ進む。溺れるに等しい香に包まれているからか、ユキは頭がくらくらする感覚に額を抑えた。
「ユキ様、お待ちしておりましたわ」
その時、LeViではなくステラの声がユキに語り掛けた。だがこの声はどこから聞こえてくるのだろうか、ステラの姿を視認できなくて、右左とユキは辺りを見回して彼女の姿を探す。
動くたびに余儀なく呼吸を行わなければならないから、ますます花の香りが神経に沿って身体を巡った。身体がじわじわと煮詰まるような焦燥感。ユキは声を上げる。
「ステラ、どこにいるの?」
「邪魔者は外に出ておりますから、お気になさらないでください。それよりも、うふふ……。ご覧になって、ジャスミンの花が満開でしょう?」
ユキの質問に答える気はないようだ。邪魔者、とひっかかる表現で自身のことを表ししつつも、ステラはユキに部屋中満開に咲き誇るジャスミンの花へ意識を促す。ジャスミン……とステラは言うが、彼女の言葉の不可解さにユキは眉を顰める。
この花はユキが知っている既存のジャスミンにしては大きすぎる。花弁の直径はユキの顔ほどあって禍々しい。ふと、周囲を見渡していると一面の白い花の中、焦がれてやまない黒がユキの瞳に映る。
「濃厚な香りが致しますでしょう? ふふ、不思議な気持ちになりませんか。身体の奥底が、甘く痺れるような……」
私、ユキ様のために最高のシチュエーションを準備いたしました、と。そう告げるステラの声は彼女の耳に届いていなかった。意識するよりも前に彼女は既に駆け出していて、ステラの声を聞く気などもなかった。ユキは蹲った彼の傍にすぐさま駆け寄り、彼の身体に迷わず触れた。勢いよく座り込んだために、膝が床と擦れて焼けた痛みが走るが気にも留めなかった。
「沙明!」
どうして彼がこんなところにいるのだ。ユキは沙明の状態を抱え上げる。四肢は脱力しているが、ユキが抱え上げると彼の喉が僅かに上下した。
大丈夫、息はしている……。その事実にはほっとするが、眠る沙明の顔を見ているとどうしてかいつも以上にユキは心が逸った。彼を見つめていると、いつも色気を孕む沙明が、それ以上に艶めかしく見えて咄嗟にユキは唇を噛む。
「……っふ」
噎せ返る香りのせいか、換気を促そうと自然と彼女の呼吸は早くなる。顔は火照り、ステラの言う通り身体の芯が痺れるような感覚があった。沙明が視界に映るとますます匂いをきつく感じてくらくらする……。このような状況で邪なことは考えるなと、ユキは彼から視線を逸らすためにステラの姿を探す。
「ステラ! 沙明をとにかく外へ」
冷静ではいられずにユキは叫ぶ。この部屋はどこか妙だ。匂いだけではなく、植物を育てるためか室温もやたらと高い。肌がじっとりと湿り気を帯びているのが分かる。彼が眠っている理由が何であれ、この部屋にいるのは身体によいとは思えない。
「慌てないで、ユキ様。沙明様は眠っているだけです。それほど強い薬は使っていませんから、直に目を醒ましますわ。そうすればおふたりとも永遠に邪魔が入らずに愛し合えますから」
「なに、を……言っているの?」
些細なことでは動揺しなくなったユキであっても、さすがに現状は飲み込めなくて困惑の色を見せた。ステラはユキを余所に雄弁に語る。彼女の言葉は自身の発言に寄っている印象をユキに感じさせた。
「あら、昨日お約束したじゃないですか。私はユキ様を応援いたしますと。……ねえユキ様、ジャスミンの香り、素敵でしょう? 私の粗悪な体ですら疼かせるのです。……ええ、そのように改良いたしましたから」
ユキの白い肌に汗が伝い落ちる。
「ねえ、ご存じですか。ユキ様」
ユキはごくりと生唾を飲んで、ただ腕に抱えた温もりを守るためだけに抱きしめた。腕の中の存在はジャスミンの香りよりもユキの芯を刺激する。
「ジャスミンは古き地球では『夜の女王』と呼ばれていたのですよ。そうですわね、ヒトの雄を色欲に染め上げるのには有効とされていたとか」
真面目な口調で語り掛けてくるステラが何を示唆しているかは理解しているつもりだ。彼女の高揚しきった声、発言も。
「きっとおふたりを満たしますわ」
どう考えても正常ではない。ステラの奇行も知識から思い当たる要因がある。
ユキは己を律せよと心に言い聞かせながら唇を噛んだ。今すぐ彼で己を満たしたいと、沙明の尊厳を穢す思考が浮かぶことが嫌でたまらない。彼を抱き寄せた腕を手繰り、己の腕に爪を突き立て痛みを与える。疼痛により何とか理性を保とうとした。
「だから思う存分愛し合ってください。おふたりの愛しあう姿を眺めて、私にもこんな幸せがあるのだと理解したいのです。ねぇ、愛し合うもの同士の情事は甘美だと聞きますわ。体感して、私に教えてくださいませ」
ステラの声は猟奇的な発言を繰り返している。グノーシア汚染されたものが動物的な本能を強め、理性の箍も外すとユキに教えてくれたのは、他でもないステラことLeViだった。それを彼女自身が今まさに体現している。
愛し合うもの同士か、その表現は当てはまらない。汗をぬぐう余裕もなくユキは僅かに微笑む。ユキは確かに沙明に想いを寄せてはいるけれども、これは己の独りよがりな感情だと解釈している。ユキの欲を満たすために彼を使うことはできない。彼を守るという誓いを自ら破ることは在り得ない。
ユキは熱い息を吐く。噛み締めた唇から薄らと血液が滲んだ。するとユキの腕にかかった体重がふっと軽くなる。それとユキの頭上から声が降ったのとほとんど同時だったかもしれない。
「……ハッ、とんでもねェこと言ってんなァ。これのために俺をおネンネさせてたっつーわけだ。ステラ、グノーシア仲間のくせに手荒すぎじゃね?」
「しゃーみ、」
彼を呼ぶ前に世界が反転した。熱く火照ったユキの背を冷たいラボの床が支えている。驚きに震えた彼女の瞳には黒の眼差しが映った。視線が交わると焼かれたように身体が熱くなる。
生物としての本能が刺激され、白い肌には汗が伝い、瞳孔が開いた瞳は爛々と輝いている。目を離すことができない魅力があった。サラサラの黒髪がユキの上で揺れている。全身に張り巡らされた神経はユキの意識とは裏腹に興奮を高めていく。
「アーハァ。にしても、お膳立てっつーワードがこれ以上にピッタリな状況はねェよなァ」
沙明が自らの唇を舐める舌の動きを見るだけで、制御も利かずに腹の奥が疼く。
「……ユキ、無防備に俺に近づくのはどうかと思うわ。自覚在るのかは分かんねェけど、お前すげぇ美味そうなんだぜ?」
先のステラとのやりとりをどこまで沙明が聞いていたのかは定かではない。だが、意中の人間にそんなことを言われてますます冷静でいられるわけがない。彼の言葉に心が打ち震えた。せめても性の対象として見られることはあるということだ。それだけでユキの瞳は歓喜に潤む。
「……っ」
「なァ、ユキ……。どうするよ?」
艶めいた声で沙明がユキの耳元に囁きかける。妖しい笑みを浮かべた沙明の指がユキの頬を滑って、そのまま首筋を撫でた。それだけでユキの身体はぞくぞくと身体は打ち震える。そして彼は愛しげに、血の滲んだ唇を撫でつけるので思わず声が漏れてしまう。
「あ……」
彼もまたステラと同じくグノーシアだ。ステラが理性を暴走させているように、彼もまた同様の状況にあっても不思議ではない。むしろこの催淫の香りに満ちた空間は彼の動物的本能を刺激するはずだ。人間であるユキですら、これほどまでに身体への影響を感じているのだから。
そのはずなのに、こんなときであっても彼の眼差しは温かい。目の前の女がどんなに無力でも、無理に己の意志を通したりはしない。
「俺はいいぜェ? ステラに見せつけてやっても」
「……」
沙明のいつもと同じ誘いの手に、簡単に衝動のまま乗せられてしまいたい。いつだって沙明に求められるのならば、それを拒む理由はないのだ。彼がユキを好きにしたいと考えているのならば、ユキもそうしたい。沙明に望まれること以上に望むことはない。ステラに沙明は自分のものだと示せるのも悪いことだとは思わない。いや、いっそこの場で彼の物にしてほしい。
――――ただ彼に、失望されなければそれでいい。
「ユキ」
甘ったるく己を呼ぶ声に視線を絡ませた。寄せられた彼の白い頬にも赤みがさして、小さな瞳は熱を持って潤む。「……沙明」彼の名を切に呼んで求めた。この異常な環境において、彼もユキと同じく身体の興奮を感じ取っているはずだ。「いいよ、……私も」彼の望むままにしてほしい、それだけを願ってユキは瞼を下ろす。
「……っ」
「……沙明?」
だが彼の唇が触れたのはユキの額であった。接吻を交わすものだと思っていたものだから拍子抜けしてユキが瞼を押し上げる。目の前の彼はユキの髪をそうっと撫で、至極穏やかな声で彼女を呼ぶ。交差した彼の視線は浅ましい情欲を律してユキを見つめていた。ユキも彼に感化されて我を取り戻す。
その瞳は人の倫理に支えられた理性を宿していた。彼の瞳はいつか見た時のように寂しさを滲ませている。
「お前さァ、もうちょい自分を大事にしとけって。……ま、今更どうしようもねェけどな」
ユキが彼へと伸ばした指先は彼の手に絡めとられる。目の前の光景に夢が弾けて現実に引き戻された。彼が触れるとそこからユキの身体が膨れ上がり、めくれ上がる。唐突に迎えたループの終わりにユキは目を見張った。痛みはないこの感覚は何度も体感したことがある。
じっと温もりすら感じる彼の眼差しは今も消えゆくユキに向けられている。だからこそユキは何も言葉を発しなかった。もう声を紡ぐ器官も消滅していたからかもしれないが。
「沙明様! 何をしているのですか⁉」
別室から見ているのだろうステラが、ユキの異変を察して悲鳴を上げる。空を掴んでいた沙明の手がユキの顔があった場所に手を這わせる。消えゆく意識の中で彼の声が聞こえた。ユキが消えることを惜しみながら、後悔のない声色だった。
「悪ィなステラ、こっから先は有料なんだよ。見られながらヤるのは俺らの趣味じゃねーんだわ」
止まる思考とユキの意識がこのループの終わりに捕らえる。ユキの深緑に焼き付いたのは純粋な黒。これまでと変わらぬ優しさを持った、誰にも上塗りさせることはできない沙明の瞳の色だった。