LOOP80
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今日の議論では何とか沙明から投票先を逸らすことに成功した。しかし明日も同じように彼を守れるかは怪しい。バグを見つけてしまえばそれまでであるし、そうでなくてもグノーシアをいつまでものうのうと生かしておくことはできないと乗員たちは判断するはずだ。
夜時間、彼女は出歩かずに部屋の中にいた。この船が空間転移するまでの僅かな時間、沙明の元を訪れるのがこれまでの彼女の常ではある。だが今回ばかりはそうは行かない。敵対する相手には容赦がない沙明だから、顔を合わせたならばどんな罵りを受けるか分からない。
他の乗員たちに敵意を向けられることには、ユキはもうすっかり慣れてしまっている。かつては悩み苦しみ、些細な一言に心をすり減らした。けれども彼の無事を思えば、今となってはそんなもの何でもない。軽蔑の目で見られても、辛辣な言葉を掛けられても。ユキは平気なふりをしていられる。……それが、彼から向けられるものでなければ。
昨日まではあんなに頼りにしてくれていた。それがユキを利用しようとする魂胆からくるものであっても構わなかった。彼が生き延びられるならば。だが他でもないユキ自身が彼の思惑を台無しにしてしまった。彼はユキの裏切りに憤るだろうか。実現するのが怖いから、今日は出歩かずに彼と顔を合わせないようにしていたというのに。
「ユキ。……お前、何がしてェんだよ」
今、ユキの前には険しい表情をした沙明がいた。これまでのループで沙明が、自分からユキの部屋を訪ねたことはない。ユキが招くことはあっても、彼から部屋の戸を叩くことはなかった。
だが今晩は議論が終了して早々に、沙明がユキの部屋へと詰めかけてきて現在に至る。部屋へ入れないという選択肢もあった。しかし彼の身の安全のため、これから話を誰かに聞かれてはマズいかもしれないとユキは判断する。険悪な空気の中、空虚な部屋の中で彼らは向き合っていた。
「…………」
苛立った様子の沙明はきつくユキを見下ろしている。この眼差しは今まで向けられてきた彼の視線とは明らかに違う。これまでも完全に敵対関係になった時には侮蔑的な眼で見られた。その時にも心が酷く痛んだものだがそれとは違う思いを感じる。彼の目にはユキへの怒りがあるように思えた。
ユキに対する不信感を沙明が持つのは当たり前だ。バグを見つけるために投票は避けるという提案はまだしも、今日のユキは沙明に対してのヘイトを明らかに逸らそうとしている節があった。それはユキが一乗員であるならば、不自然ではない動きだったかもしれない。ただの乗員は何も確定的な情報を持ち合わせていないからだ。
しかしユキにその条件は当てはまらない。何故ならば、ユキこそがエンジニアとして名乗りを上げているからだ。その上、他でもない彼女自身が沙明をグノーシアであるとして指摘している。投票を抑制することはともかく、その人物への疑いを薄めて、庇い立てるのは妙だ。
状況が状況ならば、彼女がAC主義者であるという推測も立てられた。適当な発言でグノーシアを言い当ててしまい、その後に失態に気が付いたという可能性だ。何とか自分の失敗をもみ消すために不自然な動きをしたのだと。そうやって解釈することもできたのかもしれない。
だが沙明の立場でそれはありえないと一刀両断できる。それどころか彼女が真の占い師であると確定できる情報を持ち得ているのだ。
今回のループは、十五人の乗員の中にグノーシアが三人。エンジニアが一人、ドクターが一人の構成になっている。それが何を示すか、答えは簡単だ。エンジニアを騙って出る存在が、グノーシア以外にあり得ないということだ。そしてグノーシアである彼は、誰が自分の仲間であるのかを当然ながら把握している。
「何、って……」
「ハッ、とぼけちまって……。 俺を焦らしてオネダリさせるって寸法かよ? カァーッ意地汚ェな」
彼の口元は笑っているが、その目は一切笑っていない。彼にとって結局のところ、ユキが何を考えていようと彼の敵であることには変わりないのだ。容赦ない言葉を投げかけて沙明はユキを責め立てる。
容易なことでは動揺させられなくなったはずのユキの心。それが瞬時に、彼の言葉によって縮こまり固まってしまうのを感じた。何も口から弁明の言葉は出てこない。どん底にある気持ちが囁く。
――――私が、彼を追い詰めてしまった。咎められて当然のこと。
どんなときも彼の絶対的な味方であることを心掛けるつもりでいる。だが状況を見て明らかだ、今回のユキは沙明の敵。それも最も排除したいと願う障害であるに違いない。彼がユキの存在を疎むのも当然だ。
――――彼に、嫌われてしまったかな。
ユキの中に過るのは彼女にとって脅威に等しい不安感だ。それはいとも簡単にユキの軸を揺るがして、指先を急激に冷たくしていくのを感じる。
せめて沙明を庇うことは、生きたいと願う彼の命を少しでも長く繋ぐための行動だと。そう考えて実行したが彼はユキの行為を、命を悪戯に弄んだと腹を立てているのか。こんなところにまで詰めかけるほどの、彼の怒りの理由はユキには分からない。
ユキ自身は彼を信じていたいだけだ、彼女の心にそれ以外にはない。それでいて今回は誠実でありたいと願ったが、逆にそれが彼の命を縮める結果に至ったというだけ。数多くのループの内の一つだから割り切れ、とそんな簡単な気持ちで片づけられるほど彼女の気持ちは甘くない。
沙明を慕う心こそ、彼女を突き動かす行動原理そのものだ。彼があずかり知らなくても、彼こそがユキにとってのすべてだ。過去を喪失しているユキには彼の想いしかなかった。
足元が薄氷の上に立つように覚束なくて、ユキは何も言えずに俯く。長い睫毛を震わせて目を伏せ、彼の責め苦を受け止めた。それだけしか、今のユキにできることはない。ユキを罵って彼の怒りが和らぐのならば、それ以外に彼女ができる罪滅ぼしの手段はない。
下を向いたユキの眼差しで沙明の顔を見ることはできない。彼がどんな目で自分を見ているのか、想像するだけでも怖くて堪らないから確認などできないでいる。ユキは沙明の言葉すべてに感情を動員する。
凍てつく宇宙空間へ放り出されるような苦しみに視界が歪む。視界が歪んだせいだろうか、僅かに彼の足が半歩前へ歩み出たように見えた。
「何がしてェんだよ。答えろよ、ユキ」
沙明の言葉に怯えて身を震わせたが、ユキの頭上に降る声は幾分か、先ほどの口調に比べれば柔らかなものに聞こえた。ふる、とユキの身体が揺れる。
彼が今、目の前にいるユキのことをどのように思ったのかはここでは判断できない。しかし先の彼の声は彼女の行動を責めるのではなく、ユキの気持ちを聞こうとする気遣いがあった。人並み以上の情があった。彼女は己に問いかけ、思考する。
――――今の私に、何ができる。
いいや思考しなくとも分かっている、どう考えたって何もできやしない。ユキが沙明をグノーシアだと言った以上、彼への疑いをこのループで拭うことはできない。議論を先延ばしにすればするほど、エンジニアを騙っているグノーシアが理論破綻する可能性が高くなる。
逆にユキの行動は乗員たちの信頼を高めていく。かといってユキがグノーシアに消されなどしたら、ユキが本物だということが乗員たちに知れる。それはすなわち、ユキの調査結果が正しいことが知れてしまうということだ。
今のユキに、このループの沙明を救う術はない。分かっている、ならばできることは何か。
ユキはゆっくりと面を上げた。じっと己の前に立つ青年の姿を見据える。先ほど見せた苛立ちは失せ、今は困惑と。ただ単純にユキを心配していることがその瞳の色からよく分かる。どこまでも優しい人だ、生き残りたいくせに敵に情けをかけるなんて。
「私は……」
彼の表情を見て、ユキはようやく重い口を開く覚悟ができる。彼がユキの声で身構えたのが、彼女には肌で感じ取れた。今、彼は酷く警戒している。沙明はユキの言葉をどう思うだろう。……そんなことは分からない。ますます軽蔑されるだけかもしれない。
だがそれでも、ユキは凛と言葉を紡ぐ。淀みなくここに告白する。彼にただ、自分の気持ちを知ってもらいたいがために。ユキにできることはひたすら彼に誠実であることだけ。
「沙明に、生きてほしいだけ」
それだけがユキの中の真実だった。信じたかったから、調べた。ユキは言葉を続けて口を閉じる。ユキの告白を聞いて沙明は、彼女のことを理解に苦しむとばかりに凝視した。目に見えて彼の瞳に動揺が映り込む。だがユキの言葉に嘘偽りはない。
「……見つけちゃって、ごめんね」
口にすると自分の無力さが頭を殴りつけて、思わず涙が零れてしまった。こんなの、一体誰に対して誠実だなんて言うのか。寒くもないのにこの身は震えを止められない。あまりの情けなさに、ユキが彼から顔を逸らそうとしたその時だった。
「……っ」
零れた涙は振り落とされた。冷たい事実に浸されたユキの身体が抱き寄せられる。ユキは状況が飲み込めなくて目を白黒とさせた。状況は飲み込めなくても、ユキに触れる温かさをこの身はもう既に知っている。今自分の身体を包むのが何なのかは、この目で見なくても分かる。
「……あァ、そうかよ」
ユキを抱く、低く呟かれた声はユキを咎める色はなかった。それどころかユキを抱きしめたその手は、慰めようとしているのかは定かではないがユキの髪をぎこちない手つきで撫でつけていく。どうして、ここまで貴方は優しく私に触れてくれるのか。
彼の顔が見えないから、沙明が何を考えているのかは真に悟ることはできない。しかしそれでも、彼はこんなにも簡単にユキの震えを取り除く。ユキが縋るように沙明の背に手を回すと、いっそう彼は力強く。何より温かにユキを包んでくれた。それ以上に望むものは無くて、ユキは静かに瞼を閉じる。
「……沙明」
私が憎かったら、消してほしい。涙声でユキは彼に囁いた。
きっとどんなことをしたって、今回の私は貴方を助けることはできない。私を消せば、沙明の正体も露見するかもしれない。結末が同じならば、私に抱くはずの恨みを彼の良いように晴らしてほしい。貴方が望むのならば、決して安楽でなくてもいい。
それが、ユキができる最大限の覚悟のつもりだった。しかし沙明はますますユキの身体を掻き抱いて判決を口にする。強く抱きしめられているから、ユキには彼がどんな顔をしているかは分からない。その声から分かるのは、沙明がユキの態度を呆れ、それでも彼がユキを許してくれたということだった。
「ユキ、お前イカレてんな。ハッ、俺なんかにそこまで言う必要なんかねェだろ? ……俺はさ、お前が期待するような奴じゃねェってのによ」
そんなことはない、とユキは彼の腕の中で首を振る。今も、前にも。どんな時でも沙明はユキにとって期待以上の人間であった。彼の存在がユキを生かし、彼女自身を確立させていく。
――――貴方を守るためには、まだ力が足りない。
今回の敗因、それを二度と繰り返さないように。ユキはいっそうの決意を抱く。
私が無力だからいけなかったのだ。今回、より確実に貴方を守るための材料として貴方を調査した。けれどもそれは私の力不足が招いた行動だ。絶対的な信頼を寄せるつもりならば、貴方に不利をもたらす調査などするべきではなかった。たとえ貴方が何であろうと、どんなときも庇って私自身の言葉や振る舞いで貴方を守るべきだ。
確証や真実、そんなものがなくても貴方のことを守れるだけの力を持っていたい。まだ私は、貴方を守るためにより強くならなければならない。真実を塗りつぶす真っ白な嘘を携えても。
――――これほど優しい貴方に、私は何も惜しむものはない。
曰く概念伝達は遮断されているから、言葉に出さない思考が互いに通じ合うことはない。ただひたすら、ふたりの間には沈黙があった。ユキが彼を離さなかったからかもしれない。だがそれでもタイムリミットを迎えるまで、沙明はユキを抱きしめ続けていてくれた。