LOOP71
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私のどこにこんな力が眠っていたのだろうと最近は良く思う。ユキは自室の鏡に映り込んだ己の表情を見る。その翠玉の瞳にはいつしかの気弱な彼女は存在していない。生気のなく枯れ果てる一途を辿っていた深緑は、きらびやかではないが強い光を掲げ、凛とした美しさを湛える。
以前、身も凍る眠りに取り込まれる直前に掲げた目標は、彼女の在り方を根本的に変えていった。彼女は握りしめた拳を胸に押し抱く。目を閉じれば彼の言葉と体温を今でも鮮明に思い出せる。あのループで彼女は自分自身に誓ったのだ。
どんな時も沙明を信じ、自分のすべてを賭して守り抜くと。
粘菌が船を侵食した生物汚染事件から、ユキは早くも十以上のループを重ねている。あの出来事はユキという存在の大きな変革であった。いいや、沙明に思慕を抱くことこそが彼女の殻を破る要因であったと言える。
生物汚染事件はユキが気づいていなかった沙明に対する恋心を自覚させ、彼女を開花させたきっかけにすぎない。沙明へ抱く気持ちの大きさが、彼女をこれまでとは比べ物にならないほど飛躍的に成長させた。
彼女一人の身の安全を確保するだけならば、求めることは少なくてよい。自分自身の潔白を示すことさえできれば、自分自身の身の安全は保障できよう。しかしながら、それだけでは沙明を守ることはできない。
彼が人間であるか、グノーシアであるか。それとも他の敵なのか。ループ開始時点では沙明からの信頼が確実に得られるとは言えないし、ユキ自身も彼が何者であるかに判断はつけられない。不明瞭な状況でも彼を守るならば、彼の安全性を保証できるだけの説得力をユキが持たなければならない。
ユキ自身が沙明の援護をするだけの力、必然的に彼女には彼を固守するための力が身についていく。ユキが議論の流れを操る術をループの中で学べば、彼女の発言で沙明を守り通すことができるようになるはずだ。
過去のユキであれば、力を身に着けるための努力をしようとは思わなかった。彼女は決して強い人間ではない。彼に救われる前には現実からも目を背けようとし、事象に流されることを繰り返していた。彼女だけでは何事も成せそうになかった。
だが今は違う、沙明を守るという明確な目標に彼女はひた進む。心の底から慕ってやまない彼への想いがユキを高みへと押し上げていく。
このグノーシアを排除するための戦いにおいて、肝要なポイントがいくつかある。理論が破綻しているか否か、それも当然重要であるが必須事項ではない。票を入れる乗員たちがそれぞれ思考する、”誰を信頼し、生かしたいか。そして誰に消えてほしくないか”その点を考えることが重要なのである。
ユキにとっての三十二回目のループで、彼女自身の行動が示すように。多少怪しい部分があったとしても、好感が持てる人物であるなら信じたいと思ってしまうのが人間なのだ。これはゲームではない、生き残るための戦いだ。
ユキが心がけることはたった一つだけだ。誰に対しても愛嬌を持って接し、まるで自分が人畜無害な人間であるように振舞うこと。自分の敵を作らないことを第一。守ってあげなければ、と相手に感じさせる印象を持たせれば議論では優位に立ちやすい。乗員のうちの一人、儚げで声の出ない少女ククルシカの立ち回りがユキにそれを学ばせた。
他、議論においての話の切り出し方や効果的なアピールについては、経験を積むうちに自然と身についていく。向上心があれば学びは多い。疑いの躱し方も嘘も、ユキは格段に上手くなっていった。今となっては多少の疑い程度では、虚言を吐いたとてユキは心拍のリズムすら乱さないはずだ。
本日の議論を終えてユキはこれまでと同じく彼の姿を船内で探す。議論が終わってから、空間転移を行うまでの僅かばかりの時間。この時間が乗員との親密さを高めるためには重要であった。
ループ開始日、この船に乗っている乗員たちは、数名乗船前から面識がある者もいるようだが、ほとんどがお互いに初対面の状態である。同じスタートラインに並ぶ人間が多いのならば、少しでも交流を持っておく方が有利に働く。全く初対面の人間よりも多少人となりを知っている人間の方が、信用できるか否か判断する材料があるだろう。
効率を考えればそうなのだが。ユキの足が向かう先は一つだ。何度目のループであってもユキが何より望むのは恋い慕う彼の信頼だ。ユキは沙明を守るという信念のもとで行動をしている。今回のループでユキは守護天使などではなく、ただの乗員だから直接的に彼を守ることはできない。
それでも議論では、ユキの経験に基づく力を行使して守りたいと考えていた。しかし沙明がユキの意図を分かっていてくれなければ元も子もない。自分は彼の味方だということを、彼に承知してもらわなければ。
沙明に会うためにやってきたのは娯楽室だった。この部屋では宇宙数多の遊びを楽しむことができる。3Dゲームだったり、ビリヤードだったり。要望があればLeViが遊具を即時生成することもできるそうだ。
グノーシアが潜むこの状況で遊んでなどいられるか、と大多数の乗員たちはこの場所へ寄り付かない。しかし特に沙明は何度繰り返してもこの部屋で寛いでいることが多かった。彼が今度も、部屋にいることを期待してユキは娯楽室を訪れる。
「……沙明」
ヴィンテージ物の革製ソファに掛けた、気だるげな姿勢でいる彼。その傍に歩み寄ってユキはその名前を呼ぶ。警戒されないだろうか、振り向いてくれる? ユキは些細な不安を抱いたが杞憂だった。沙明は彼女の声に気が付いてちら、とユキのことを見上げた。小さな黒の瞳がユキの姿を捕らえる。
「ンー? ユキじゃん。何、俺に会いに来たのかよ?」
薄く彼の口元を歪める微笑みには、じわりと蕩けたチョコレートのような甘さがある。そう感じるのは自分の抱く勝手な心ゆえだと、分かっていてもユキは心を制御できない。
彼の何の変哲もない言葉にすら感情を動かされている。議論で繰り返される懐疑的な言葉などにはすっかり耐性が付いて、狼狽することも少なくなってきた。それでも沙明の、こういう言葉だけはいつでも新鮮にユキの心を揺さぶってくる。
「……うん」
はにかんで視線を俯かせながらユキが彼の言葉を肯定する。会いに来たことは紛れもない事実。否定する必要もない。彼に何も偽りたくなどないのだ。そしてそれを、より効果的に彼に伝えるためにどのような態度をするべきか、彼がどのような振る舞いに顔を綻ばせてくれるのか。既に身体が覚えてしまっている。
「誰かと一緒に居たくて。……それで」
誰か、という言葉であえて彼の名は濁す。仮に不特定を装っておいても、ユキは沙明以外の誰かを選ぶつもりはない。だがはっきりと明言し、重い感情を向けられても彼が戸惑うだけだろう。このループではまだ彼とは大して親密ではない。
どれだけの関係性を築き上げても、時間が巻き戻ればなかったことになってしまう。仕方のないことなのだから、これは割り切って受け止めてしまうしかない。
たとえ何度繰り返したとしても。ユキは沙明を守るために。いいやそれ以上に彼の心を求めて同じ時間の中を生き抜こうとする。人を慕うというのはそういうことだ、ただ彼の傍にいたいだけ。
「リアリィ? ……フーン、ヘェ……。ユキ、お前それはどういう意味で言ってんの?」
ニヤリと口の端を釣り上げた沙明の視線が、下から覗き込むようにユキの瞳を射抜く。意地の悪い、というよりも下心があるように思わせる眼差し。娯楽室と言うごちゃついた雰囲気の中でも、彼の意図は鮮明に伝わってくる。
こういう空気になるのも一度や二度、などとは言わない。しかし何と言おうとも沙明は無遠慮にユキの身体に触れたりしないのだから、言葉通りに彼は軽薄ではないのだと思う。
「沙明は、どういう意味だと思う?」
「俺が欲しいってことじゃねェの?」
……あながち間違いではない、正解でもないけれど。ユキは答えとばかりに彼の目を見つめ返して、静かに微笑みかける。そっと沙明に手を伸ばすと彼はユキの手を強く引き寄せて、そして彼女の腰にも反対の手を回してきた。
惚れた弱みか、未だに沙明にだけは強気に出ることはできないから、ユキは彼の発言を大きく覆すことはできない。しかしそれを良しとしている。
「……寂しいんじゃないかな」
…………きっと貴方も私も。ユキの場合は間違いなくそうだ、この宇宙の中に決して手放しで信じられるものはない。今この瞬間も、貴方は私を出し抜こうと考えているのかもしれない。その可能性に目を瞑ってでも、沙明のことだけは信じていようと思わされる。
ぽつりとユキが呟くと沙明は彼女の身体をいっそう引き寄せて、ソファの上に優しく押し倒す。ソファの上には彼女の銀色の髪がきらめき広がる。一瞬笑みの失せた彼の表情には再び、妖艶な微笑みが貼り付けられた。
「ハッ。煽るなァ、ユキ……。グノーシアじゃねェ奴にも襲われんぜ。 据え膳食わぬは男がンーフーン? つーだろ?」
彼が何を言わんとしているかは分かっている。これは沙明なりの忠告なのだ。けれども生憎ユキは、好きでもない人間に軽々しく自分の身体を明け渡す趣味はない。ユキは彼を拒むこともなく見つめる。
受容的な態度を取ることで、沙明は私のことを軽い女だと思うかもしれない。記憶に在る中で、私は貴方以外の人間に身体を許したことはないけれど。……それでも自分の行動を客観視すれば、そう思われても仕方がない。彼にとっては出会って数日そこらの女が、簡単に身体を開こうとしているのだから。
しなやかな、ユキの唇を撫ぜる彼の白い指に、己の身体がふるりと身体が震えるのが分かった。余裕ぶってみせたら、彼は上手に誤魔化されてくれるか。……決して、慣れているわけではないことを。
「……ユキ」
なおも確認するように沙明は声を掛けてくる。毎々のことながら、彼は絶対に独りよがりなことはしない。そして女に恥をかかせない懇切さが垣間見えるから、ユキは迷いなく沙明に身体を預けることができる。ユキは繋がれた彼の手をきゅっと握り返す。
“初めて”の夜伽というわけでもないのだから。ここまで来ておいて、今更怖気づいている場合ではない。議論は続いても精々七日が限度。短い時間で彼の傍にまで歩み寄るためには、手を尽くさなければならない。
構うことはない、この行為に本来の目的や睦言などが存在しなくても。ただあの時の貴方の温かみを思い出すことができるのならば、それだけでこの行為には得るものはある。
「沙明なら、いいよ」
何よりも、貴方の信用を勝ち得るために。貴方の心がほんの少しでも、私の方へ向いてくれるのならば。手を尽くすことを躊躇ったりしない。開けた視界に影が掛かる。かたん、と遠くで彼の着けていたゴーグルがテーブルに置かれた音がした。