LOOP59
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求められたユキが抱いた感情が、これまでとは違っていた。以前までは何かの対価として、例えば庇ってもらったお礼にだとか。沙明の信用を勝ち得るために自分を差し出すことをした。沙明に味方でいてもらうための、好感を持ってもらうための。信用を得る一つの手段に過ぎなかった。
でも今は違う、彼に望まれて彼に求められることが……。言葉の通り、彼の天使になれるのだとしたら。灯された光が闇すべてを照らすように、心の底から幸福だと思った。
幽暗の中に瞬く星を見る。ユキは自分の中で積もり積もって溢れ出した感情に気が付く。燃え滾る熱い心。気づかなかっただけで、彼に救われた時には既に生まれていた。過去の己を結び付けてユキは悟る。自分自身がどうして彼に執着し、沙明に安らぎを覚えて近くにいることを望んだのか。今になって分かった。
顔が寄せられるのを感じる。近い距離が一層近くなる。
「やめなさい」
燃え上がった炎に水をぶっかけられるとはこのことだ。ビビ、と警告音とステラの声が割り入る。ユキも沙明も驚いて、狭いポッドの中、できる限りの距離を置いた。
大きく脈打つ心臓、冷静になるとユキはステラに対し申し訳ない気分になる。今の自分は完全に、沙明しか見えていなかった。ポッドの外にいるステラのことは失念してしまっていた。気まずさから、ステラには見えもしないのにユキは髪をいじって何かを誤魔化そうとする。
「あ? ステラァ? 何だよオイ、ピロートーク盗み聞きすんじゃねェって」
いいムードをぶち壊された沙明は、先ほどに比べて余裕をもってステラに不満げな声を上げた。ステラの方もモニターをしなければならないから、嫌でも見なければならないと苦言を呈す。甘い空気に認識が薄れていたが、現在の状況はまさに非常事態だ。
妙な空気、そのあとに沈黙が訪れる。暫しの後、一番に口を開いたのは沙明だった。
「……ヘイ、ステラ。空気を戻した後で、ユキだけが目覚めるようにできね?」
低く、落ち着いた声で彼が口にしたのは、思いにもよらない言葉であった。え、とユキは僅かに声を洩らす。何を言っているのだ、彼は。コールドスリープとはいえ、目覚めない眠りとはイコール死に等しいだろうに。それは彼が一番疎むべき事態ではないのか。
ユキは彼の言葉に酷く驚いた。可能だ、と返したステラの声もどうやら当惑しているようだ。しかし沙明は二人の反応も気にせず続ける。
「だったら、そうしといてくれや。俺はもう起こさなくていいからよ」
「沙明……」
「……沙明様、あなたは」
すべてを、運命を受け入れた口調。実のところは自殺宣言だが、そう言ってしまえば聞こえはいいかもしれない。闇の中、彼の顔は見えなかったが悟らずにいられない。ユキもステラも、沙明が何を言わんとするのかを感じ取った。この彼がいったい何であるかを。
沙明は何も見えない暗黒の中でも二人の反応を手に取るように分かって、己の決断を何でもないことのように言う。
「ハッ、そうさ。俺ァ、グノーシアだからな。ここまで来といて、俺が目覚めた途端に台無しとかさすがにそりゃ無いだろ?」
「……承知、いたしました」
――――待って沙明、貴方は。
彼の決意にユキは言葉が出なかった。それは胸を貫かれたときと同じ衝撃だった。これまで何度も決められた時間を繰り返して彼を見てきた。いつだって自分が生き残るための最善の策を、人間であろうとグノーシアであろうと彼は選ぶはずだった。そのためにならば恥も外聞もかなぐり捨てて、みっともなく土下座までする姿だってユキは見てきた。
今からコールドスリープしたとして、目覚めた後にユキを消せば沙明はこれからも生きていける。だというのに、彼はあえて自分が目覚めないことでステラが繋いだ命を。ユキの命を選ぶというのだ。グノーシアとしての人を消したいという衝動にまで抗って。
どんな天秤にかけても、何を考えても納得ができない。沙明が身分を明かさなければ、ステラは危機が去ったと同時に彼も目覚めるようにポッドの設定を行ったはずだ。脅威から逃れた場所で目を覚まし、欲求のままにユキを消せばそれでいいはずだ。どうして? 私は貴方にとって重要な人間ではないだろうに。
見えるはずもないのに晦冥の中、彼がうっすら笑んだ気がした。納得して飲み込める答えが導けないまま外の音が、ステラの声が聞こえなくなる。ポッド内の空気が徐々に冷気を帯び始めた。耳には微かにこの世のすべて、空気までもが凍てつく音が迫ってくる。冷え切った闇の中で今にも消えてしまいそうな声が語り掛けてきた。
「寒くなってきたな。そろそろおネンネの時間ってワケだ」
肌を撫でる空気が彼の言うとおりにいっそう冷たい。コールドスリープはこれまで何度かユキも経験させられた。急激に低体温になることにより強い眠気が引き起こされ、目を閉じてそのまま。苦しみや痛みはない、ただただ冷たく寒いだけ。そんなものもごく一瞬に過ぎない。ふわふわとした浮遊感の中に眠るだけ。一人孤独に。
「ハッ……、俺がグノーシアじゃなけりゃ……」
彼の言葉の続きが気になる。グノーシアでなければ、どうだというのだろう。今も本当は沙明が眠り続ける選択をする必要などない。
生きたくないわけではないはずだ、どのループにおいても、乗員たちの中で生に対する執着の強い人だと言える。それなのにどうして今、彼はユキの命を選ぶ。やはり納得がいかなかった、ユキにはまだ理解が及ばなかった。
一瞬が永遠のように感じられる。寒さから彼が衣服を擦り合わせる音が聞こえた。身じろぎするたびに触れる彼の身体を抱きしめる資格はない。ループするとはいえ、ユキは沙明の命を犠牲に生を得るのだ。礼を言うのもおかしな気がした。
ユキは凍える息を吐き切った。刻々と深まっていく冷気が身を包む。数々の疑問を抱きながら、遠のく意識の中でユキは声を聞いた。闇の奥を見ようと押し上げた瞼が震える。沙明の声が今もなお、ユキを呼ぶ。深い眠りの底から彼女を呼び起こす。
「……ユキ。これで、いいんだよ、な……」
「……っ」
閉ざしかけたユキの意識が沙明の声で呼び戻される。今のはいつだったか、聞き覚えのある声色だった。彼の声はユキの記憶を呼び覚ます。思い出したのは彼女の心を救ってくれたあのループの、沙明の記憶。忘れるはずもない、今と同じでグノーシアであった彼の言葉が、ユキの中にフラッシュバックする。迫る眠りに抗ってユキは目をこじ開けた。一寸先が闇の中でも彼の姿を捕らえようと試みる。
“どうしたら、いい。俺は……”
……あの時、答えを見つけられずに苦しみの中で私を消した彼がいた。そして、ここには答えを選んでユキを救おうとする彼がいる。歪な事実の中にどこか似通った形を見た、彼の中にある一貫した思考を。ユキの瞳から不意に涙が零れる。そして今、彼は私に正解を求める。
沙明が恐れるのは何か、そのものの輪郭をユキは悟った気がした。もしかすると彼も私も、同じものが怖い。だから、あの時の彼は分かってくれたのかもしれない。……分かって、私を助けてくれたのかも。単純では決してないはずだ。理由がひとつではなくても、欠片ほどならお互いに共通するものはあるに違いない。
「あァ……冷てェ……」
彼がユキを動かしていた。ユキは冷えて感覚のない指先を鞭打って彼の身体を手繰る。自分にとって都合の良い妄想かもしれない。でも、見えるだけの真実で私の心はこれほどまでに温かい。あの時の私の心は今より遥かに凍え切っていた、ゆっくりと死の一途を辿っていた。温めてくれたのは今を含めた沙明だ。貴方がいたから、私は寒く無かった。
「……ユキ」
己の名を呼ぶ声に応えるために。冷え切った彼の身体を今一度強く、強く抱きしめる。私の身体も同じくらい冷えているから、もう十分な体温なんて残っていないかもしれない。彼を温めることなどできないかも。それでも彼が寂しくないように、彼が与えてくれた安心を私も分けられるように寄り添うことはできる。
涙も凍るようなこの寒さの中で、一人彼を眠らせるわけにはいかない。そう思えるほどに彼のことを心から愛しいと思った。
「ァーハァ、暖けェ、な……」
氷のような彼の身体を離さないように、感覚を失った指先までに力を籠める。掻き消えていく意識の中、ユキは固く誓いを立てた。このループが終わっても、彼女はまた同じ時を繰り返す。今この手にした事実がなかったことになる。それでもこれまでに彼が与えてくれたもの。彼女の心だけに残る記憶、そのすべてを抱きしめて彼女は前を見据える。
貴方に貰ったかけがえのない思いがある。貴方がいたから私は生きて、また誰かを信じられる。貴方への気持ちが私を突き動かすよ。これは私の中で、固く折れない信念になる。これから出会う貴方が私のことを助けたことを覚えていなくても。たとえ私のことを疎み嫌っても。私の前に現れた貴方が人間でもグノーシアでも、仮に私の敵であっても。
どんなときも私は、貴方の味方で貴方を守るよ。貴方がくれたものに見合うものを、命を賭して私を救ってくれた貴方に。二度のループに渡って私の肉体も精神も救ってくれた貴方に。私のすべてをもって応えていきたい。……守りたいの、どんなことをしたって。
静かに意識を手放して、ユキは凍り付いた瞼を下ろす。ダイヤモンドのように固い決意を掲げて。守るべき存在を声にして身に刻む。
「……沙、明」
――――私は、貴方に恋をしている。