LOOP59
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やけに静かな朝であった。ユキはベッドから体を起こして議論に向かうための準備をする。いつもと同じように己の姿を鏡で確認した。髪型や衣服におかしなところはない。
乗員たちは皆、個性的な格好をしているが、他の人から見れば私もそうだろうか。ユキ自身は自分がどうであるかを判定できない。難民と言う身でもあるから、着替えも持っていないので気にするだけ無駄というものであるけれども。
別段……、変には思わない。この服は私に似合っているのだろうか。鏡の中のユキが身体を捻ってスカートの裾を引っ張ってみる。私自身は赤のスカートはお気に入りだけど、服装を褒められたことはないなと呑気なことを思った。
そんなことを考えていられるくらい、彼女の心には余裕が出てきているということなのかもしれない。いつから命を賭けた戦いの中、こんなどうでもよいことを気にするようになったのだろう。
現在は議論二日目にあたる。昨日は話し合いの中でコメットが疑われ、最多票を獲得しコールドスリープした。回を重ねるごとに段々と議論でどのように動くべきであるか、ユキはループ五十九回目を迎えて見えてきた気がしていた。
セツを除く他の乗員たちは繰り返すたびに記憶を失い、初めて議論に挑むことになる。彼らに比べてユキが優位に話し合いを進められるのは当然と言うべきかもしれないが。
これまでと変わりなく、今日も今日とて生き残るための闘いを。そう思って身支度を整え終えたが、中々呼び出しが掛からず待ちぼうけを食らっている。朝を迎えると必ずLeViのアナウンスがあるはずなのに。……それにしても、外がいくらなんでも静かすぎる。普段はもう少し、廊下の外の足音だとか隣の部屋の音だとかが聞こえなくもないというのに。
ユキはしばらく自室でLeViから案内が通達されるのを待つ。しかし待てど暮らせど全く何の気配もない。アナウンスを待ちかねて、外の様子を見ようとユキは廊下に出ることにした。ユキが扉の前に立つと自動ドアはいつもの通りに開く。だが自室から出た先の、ユキの眼前に広がる景色は普段通りに平穏とは言い難い物であった。
「……っ!」
扉の外、視界に広がった光景にユキは息を呑む。真っ白な宇宙船の壁や床には、青色のテラつく粘液のような何かが張り付いて蠢いていた。あまりの悍ましさにユキは怖気を覚える。ヌチュヌチュ……、と湿性の音を立てるそれはまるで意思を持って動いているように思われた。
反射的にユキは、青色からの物体からできるだけ距離を取ろうと後退る。粘液の気味の悪さに悲鳴を上げそうになったが、悲鳴に反応して襲われるかもしれないという考えが声を殺した。波立つ気分を抑えて周りの気配を確認する。人の気配は、ない。
……彼は、他の皆はどこにいる。恐怖は在ったが先立つのは己のことではなかった。足を震わせながらもユキは彼の安否が一番に気にかかる。不安な気持ちが込み上げて、あてもなく走り出そうとするユキの耳を悲鳴が劈く。
「ひ、ひィーッ! 来るな、来るなっ!」
これまで人間の気配など感じなかった船内に、確かに人間の絶叫が響き渡る。沈黙を裂く声にユキの肩がびくりと跳ねた。彼の声ではない、けれども覚えのある乗員の声には違いない。
ロビーの方だ、ユキはふらつく足に鞭打って声の方を振り返って駆け出す。オーバーニーブーツのヒールが床を打つたびにカツンカツンと警告音に類似した音を立てた。狭い廊下を抜けてロビーへ、そこは既に一面粘液の海になっていた。粘液は宇宙船の白い壁や床を、縦横無尽に我が物顔で這いまわっている。そのどろどろとした青い海の中に叫び声の主はいた。乗員のうちの一人、レムナンだ。
「ああユキさん、助けて、助けてください……!」
「レムナン……!」
ユキはハッと息を呑む。目を向けたレムナンの下半身はすでに粘液の中に取り込まれて、身動きができなくなっているようであった。粘液に取り込まれた彼の下半身がどうなっているかは見えない。必死に助けを請うレムナンが、まだ飲み込まれていない左手をユキの方へと伸ばす。
「……っ」
その手を掴んでも、ユキがレムナンを粘液の中から引き出すことができるかは分からない。それどころか、今のレムナンはパニックを起こしている。ユキを粘液の中に引きずり込んで共倒れするという可能性も高い。溺れる者を引き上げようとするときと同じようなことが想定できるというのに。
だがユキは考えるよりも先に、伸びてきたレムナンの手を掴み取ろうとする。背をかがめてできるだけ粘液に触れないように、損得などお構いなしにユキは彼を助けようと試みた。
「……オイ‼ ユキッ」
しかしユキが差し伸べた手はレムナンには届かなかった。名を呼ばれるのと同時にぐるっと視界が回転する。レムナンの方へ伸ばした手が掴まれ、グイっと強い力で後方に引っ張られたのだ。レムナンに向けていたユキの視界は白い天井を映す。その勢いでユキはバランスを崩したが転倒することはなかった。それどころかしっかりと力強い腕で身体を支えられる。視界の端で黒髪が揺れるのが見えた。
ユキの深緑の瞳がその姿を捕らえて煌めく。今の声も、顔を確認する前に誰だかはっきり認識ができた。
「……沙、明」
「おい、無鉄砲に突っ込んでんなよユキ。命がいくつあっても足りねェって。………逃げっぞ? レムナンはほっとけ。こいつぁもうアウトだ」
強く、痛いほどにユキの手首を握るのは沙明だった。険しい顔をした彼は説明もなしに走れ、とユキの手を掴んだまま駆け出す。状況を飲み込む前にユキは、何よりも彼の指示を優先し従った。無我夢中で彼の足取りを追いかける。取り残されたレムナンの声は、ふたり分の靴音に搔き消された。
ひとまず粘液の汚染がない区域まで避難をしたふたりは安堵の息をつく。彼は、沙明自身が知りえる状況について端的にユキに説明してくれた。現在船内は、レムナンを飲み込んでいたあの粘液に侵食されつつあるらしい。他の乗員の安否は不明。あの青色の粘液が何なのか、沙明に質問してみたが俺が知るわけねーだろ、と一蹴されてしまった。唸り声を上げながら沙明は辺りを見回す。
「ま、とりあえず上行くか。誰かの残ってるかも……」
沙明が推測をする傍ら、ユキは先ほどの光景を思い出す。レムナンはきっと、あのまま飲み込まれてしまったのだろう。総毛立つ想像をしてしまうと地の底から怖れが込み上げて、ユキを足元から捕らえようとする。グノーシアに消されるのとはまた違う恐怖。グノーシアと比べ、こちらは全くの未知だからだ。あの粘液に捕まったらどのような最期を迎えるのか。想像するだけでも血が凍るようだ。伴って足が竦んで動かなくなりそうになる。
「……ユキ」
硬直してしまったユキを見て、沙明が握ったままのユキの手を引いた。ユキは心胆を寒からしめる今に染められた、怯えを宿した眼差しで沙明を見上げる。ユキが臆するように、彼だってきっとこの状況が恐ろしいはずだ。過去のループでグノーシアに襲われたくないと、臆病で逃げ腰なことすらある彼なのだから。
「行くぞ、ほら」
それなのに今、彼は柔らかく目を細めることすらした。温柔な微笑みは恐れを隠し、とても頼りがいのあるように見えた。きっとユキを安心させるために彼は自身を奮い立たせている。
彼の手は守ると言わんばかりにユキの手を包み込む。ユキは固く握りしめてくる、少しだけ震えた彼の手の温かさを感じて歩を進めた。ああ、彼の何が自分勝手だろうか。いつだって沙明は自分にとって、とても頼れる存在だ。彼の歩みに動かされ、ユキは彼の後に従う。