LOOP32
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終わりなく広がる宇宙の中に掴める手はなかった。
伏せた瞼の奥。手に触れたこの白い壁の裏に広がる、ブラックアウトした闇を思い浮かべる。きっとそこには無数の星たちの輝きがあり、お互いを見つめあっているのだろう。あるいは互いに寄り添いあって在るべき場所に留まっているのかもしれない。
厚いとも薄いとも分からぬ白く塗り固められた檻に阻まれて、彼女には輝く星を掴み取ることはできない。宙に瞬く星に手が届くのならば、この胸にぽっかりと空いた侘しさは埋められるだろうか。星宙すら覗けない今、手のひらに感じるのは冷え冷えとした隔たりの感触だけ。
ポンと柔らかな電子音と共に、人に寄せて作られた音声が彼女へ語り掛けた。声に促されるまま、閉ざした意識を取り戻して彼女はようやく目を開ける。薄く開いた眼に差し込む感情のない光が、ぼんやりとした視界を次第に鮮明にしていく。見たくもない世界を目に映して彼女は睫毛を震わせた。二度と、目など覚めなければよかったのに。
彼女は離れがたい気持ちで温もりの欠片もない壁から手を離す。こうやっていつまでも何かに張り付いて、永遠に現実から逃れていられるのならば。まだ気が楽でいられるか。せめて、きっと今のように泣き出したい気分にはならないかもしれない。心を静める時間もできよう。
だが決まってこの瞬間、目覚めてすぐの彼女には、心を落ち着かせる時間の配慮すら与えられない。
肉体的な疲労感は皆無だというのに足はまるで鉛のように重い。やっとのことで足を踏み出して、彼女はその場に立ち上がる。数歩で端から端まで移動できるほどの狭い部屋には、簡素なベッドとネットワークの閉ざされたガラクタ同然のコンピューターがある。吐き気がするほど白々しい壁と床に囲まれた空間だ。
何度ここで目を醒ましても、この部屋の内装が変わることはない。他にこの部屋に存在するものといったら、己の姿を確認するための鏡だけ。
立ち上がった女は物言わずに鏡の前に立った。自分が意図した動きをするヒトの形をした生き物がその鏡の中に現れる。鏡に映りこんだ女は陰鬱な顔をして、ボサボサに解れた髪を掻きあげた。
細い円を描く金の耳飾りが露わになる。そうすると以前にもこうしたのか、既視感が彼女の中に込み上げるのだ。それでも何千、何万と見たはずのこの顔がいつからこんなふうであったのか。どのような表情で生きてきたのかを彼女は思い出せないでいた。
凍てつく輝きを持つ銀髪や闇に揺蕩う深緑の目は、いったい誰から引き継いで持ちえたものなのか。身に纏ったこの衣服はかつての自分が好み、この手で選んだものなのか。
必死に考えたところで彼女には分からない。鏡の中から不安げにじっと見つめ返す自分自身の、いったい何を知っている? それこそ今、彼女自身が浮かべる表情の意味くらいのものではないか。
「ユキ様」
また機械質な声が彼女に向って呼びかける。おかしな話だ、あちらの方が彼女のことをユキと確信して呼ぶくせに、彼女は本当に自分がユキという名の人物である確証を持ちえない。己のルーツなど何も思い出せないのだ。
彼女はここに来る以前の記憶を喪失している。失認や失行はないため、日常生活で困ることはない。誰がどういう理由で名付けたかは知らないが、自分自身がユキと呼ばれる人間であることにも理解はある。ただ単純に、生まれてからこの時間に至るまでの記憶が欠落しているだけだ。しかしそのくせ、これから起こる事象においてはある程度知り得ているから性質が悪い。
その少女……、ユキは鏡に映る酷く不安げな顔をした自分を見つめ返した。鏡の中の彼女はユキと全く同じ動きをして、生気のない目をまっすぐにこちらへと向けてくる。白壁に囲まれた、真正面に立つ自分の姿を見ているとますます気分が悪くなった。
まるで宇宙空間に投げ出されたみたいだ。無重力の中、内臓の在りどころが定まらない気持ち悪さ。じわりじわりと胃を侵食する痛み。鏡の中の自分が、今にも死にそうな顔をしたくなるのも無理はない。この心を理解してくれるものは誰もいない。恐れを誤魔化そうと苦し紛れに息を吐いた。
ここにずっと閉じこもっていられたら。せめてこれ以上に心が冷え切って、凍え死んでしまわないように。浮遊感に憑りつかれた心が呟く。空調は適温が保たれているはずなのに震える彼女の指先が、縋る場所を求めて衣服の肩口を握った。そんなことをしたって指先は温まらない。己が己を救えるわけでもない。とにかく哀しく寂しいだけだ。
「ユキ様、もうお時間が来てしまいます」
再三に渡り天から降るアナウンスが、この場に立ち尽くす彼女を急かす。ユキは余裕なく天井を一瞥したが声には答えなかった。聞こえる声はまるで自分を心配しているかのように錯覚してしまうが、語り掛けてきたのはこの船の擬知体。……古めかしい呼称をするならAIだ。
実際に心があるかは定かではない。大方、彼女を案内することがこの声の主、Levi自身の仕事であるからユキに語り掛けてくるに過ぎない。
胸の中に込み上げる不快感を握りつぶすように衣服を握った。ユキだって、いつまでもここに留まってはいられない。行かなければならないことは分かっている。
このままここに留まっていても先はなく、だからといってこの部屋から出ても先はない。それどころかこの部屋を出れば、一段と心がすり減るだけだ。分かっているから、ユキは竦む足を前に進めることができないでいる。これからやってくる時間を思うと息も詰まる。
――――いっそ、心を殺せば苦しくないのか。
鏡の中の自分が力なく瞬きをする。ここは死すら逃れにならない場所。逃げ場のない、閉ざされた白い宇宙船の中に彼女は酷く孤独であった。
孤独であるといいながら、それでいて誰も彼女を放っておいてはくれない。いかなる時も世界はユキに、この船に存在する乗員として果たすべき責務を全うさせる。否が応でも彼女は舞台に引きずり出されるのだ。
「ユキ、いるなら返事をしてくれないか」
今度はLeViの音声ではない。扉に遮られて少し籠って聞こえるその声には、即座にユキに諦観を抱かせるほどに聞き覚えがある。もう部屋には留まってはいられないと覚悟を決め、ユキは今にもくずおれそうな足を進めた。部屋の扉はユキを感知して自動で開く。
一番に目に映ったのは白い壁、そして。ユキは僅かに唇を噛んだ。開いた扉の先で心配を浮かべた顔をしている人物を、自分自身の生まれ育ちも分からないくせにユキは覚えている。
彼女、いいや彼と呼ぶべきなのだろうか。見た目は女性寄りの雰囲気だが男性でも女性でもない、汎性だと自らそう言っていた。正しい呼称は分からない。とにかくユキを迎えにやってきた人物、セツがユキの記憶と一言一句違わぬ言葉を吐く。
「ああ、いるじゃないか。時間だというのにメインコンソールに来ないから心配だったんだ。……ユキ、話し合いに遅れてはいらぬ疑いを掛けられるかもしれない。気を付けて」
セツにとって今の説明的な言葉は何度目のものだろう。そして私は何度セツに同じ言葉を返すのか。胸に感情を押し込めたユキは、ぎこちなく微笑み、かつてと寸分違わない台詞を口にする。
「ごめん……、セツ」
終わりの見えぬ宙の中で幕は上がる。些細な変化を持っても同じ始まりを繰り返す。少なくともユキにとって、意識を取り戻した世界がこのような始まり方をするのは三度目のことであった。
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