高校三年生になったばかりの内気な女の子
満月の夜に
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最初は、何て可哀想でか弱い人なのだろうと思った。小刻みに震えているのにそれを悟られぬよう必死に隠している。目元はずっと赤く染まっていて、とにかく安心させてあげたいと思わせる華奢な姿。見てるこちらが心を痛ませるその姿に伊作は、彼女の不安を全て取り除いてあげたいと思った。
*****
真白を抱えて忍術学園へ戻った伊作と新野はすぐさま保健室に運んで治療を開始した。体は擦り傷が多いが、それよりも衰弱しきった体の方が重大だった。冷えきった体をあの手この手で温めて、薬草を煎じたり包帯を巻いたりして彼女の治療に専念する。二人だけでは手が足りず、伊作が保健委員に手伝いを頼むこともあった。忍術学園内で少しずつ広まっている彼女の噂を消していくために、保健室で寝かせていることは内緒にするようにと口止めをする。特に好奇心旺盛な一年生たちは噂の女性にドキドキしていたが、苦しそうな顔で眠り続ける彼女を見てからは秘密を厳守し、友達にそれとなく聞かれても知らん振りをするようになった。
数馬と左近も同様に、見知らぬ女性の秘密を守り続けた。交代制で彼女を看病していたが、伊作は付きっきりで容態に変化はないか彼女の傍に居続けていた。
彼らの甲斐甲斐しい看病に、寝たきりの彼女もついに目を覚ます。いつも通り様子を確認しようと保健室に訪れた伊作は上半身だけ起き上がっている彼女を見て心の底から安堵した。思わず近寄って顔を確認しようとしたが、驚いて体を揺らす姿に自重の念を込める。
伊作の姿を見て少し驚いた表情をし、すぐに不安そうに瞳を揺らしていた。そんな彼女の姿に小さな庇護欲が生まれる。気を取り直して、自分の名前と彼女に起きていたことを話す。すると声を出そうとしたのか、口をあの形にしてこちらを向く。待っていても声が出ることはなく、伊作は急いで新野を呼びに行った。
校医の新野が診断をして、ストレスからなる症状ということが分かった。声が出なくなるなんて余程大変な思いをしたのだろう。まだ詳しく事情を知らないが、一人野原で倒れていた訳を考えてそう思った。傷一つない白く清潔な手。筋肉も付いておらずどこかの城の姫かと考えるも、出会った時の白い衣を思い出す。見たことのない形の衣で噂で流れていた天女というのはあながち間違いでは無いのかもしれない。その後彼女が伝えようとしていることも理解出来ず、紙に文字を書いてもらってもなんて読むのか分からない。話は通じているのに、文字が読めないのは何故なのか結局誰にも分からなかった。
地図を持ってくるよう言われて、確かに文字が分からなくても絵なら分かると思い伊作は新野の提案に賛成する。しかし場所の説明をしても、分かるどころかどんどん彼女の顔が青くなっていく。そしてついに堪えていた涙が溢れ出して伊作は驚きと焦りで固まってしまった。そんな伊作に新野が風呂の準備をするよう指示をする。急いで風呂場へ向かい、お湯を沸かしながら周りの声も届いていない彼女の姿を思い返す。
あんなに壊れそうな人は初めて見た。すごく脆くて、それを隠そうとしているけど余計に罅が入っているような姿。彼女は僕と同じか下くらいの歳なんだろうか。どうしてあそこに倒れていたのか。どうしてそんなに泣いているのか。気になってしまえば頭から離れることはない。でも、あの泣いている姿を見てしまっては声が戻ったとしても安易に聞くのは躊躇ってしまう。それくらい悲痛な姿だった。
風呂の用意も出来てふうと息をついた後再び保健室へ戻る。ちらりと彼女の顔を見ると、泣き止んではいるが泣き跡がくっきりと残っていてそれが見られたくないのか顔を下に向けてしまった。風呂の用意が出来たからとそこまで案内することになり、ゆっくりと彼女を連れ出す。見るもの全てが真新しく感じるのか、色々な場所を見つめている。人の気配に敏感で、遠くから生徒の笑い声が聞こえるとビクッと震えていた。
安心してほしい。不安に思わないでほしい。微かに震える手から伝わる感情に、助けてあげたいと強く思った。
*****
お風呂から上がり用意された着物を着てみるが、着物なんて夏祭りで浴衣を着るくらいでしか機会がないため上手く着付けているか不安だった。とりあえずこれで大丈夫かなと全身くまなく確認する。
扉を開けるとすうと風が舞い込んできて、温んだ体に心地よかった。ゆっくりとお風呂に入れて焦りも不安も先程よりだいぶ落ち着いてきた。分からないことがあってもいつかは家に帰ることができる。そう思うと気持ちが幾分か楽になる。空気を吸い込んで深呼吸していると、近くにいたのか伊作がこちらに駆け寄ってきた。
「ゆっくり入られましたか?」
穏やかに微笑む伊作にこくりと頷く。歳が近そうな男の子にしっかり泣き跡を見られてしまったのを思い出してかぁと赤くなる。忘れてほしいな…なんて思いながら彼に連れられてまた保健室へと戻る。
部屋に入った瞬間いい匂いがして顔を上げる。新野がご飯を持ってきていてとても美味しそうだった。三日も何も食べていない真白はストレスのせいでずっと食欲がなかったが、炊きたてのご飯の香りに消えていた食欲が一気に溢れ出した。
「さあ、熱いうちに頂きましょう。私と伊作くんの分も貰ってきたので三人で食べましょう」
温かい笑みを零しながら新野は三人分の食事を並べる。伊作は嬉しそうに座り、真白に手招きをする。そそそと近寄って位置に着くと二人が声を合わせて「いただきます」と言った。真白も慌てて手を合わせて、声は出ないが口パクでいただきますと言って湯気が出ている白米を口に入れた。
美味しくて、じんと心が温まるような優しい味だ。いつも食べるご飯と同じで、唯一変わらないものを見つけたと嬉しくて涙腺が緩くなる。小さい口でもぐもぐと食べる真白に、新野と伊作は顔を合わせて嬉しそうに微笑んだ。
綺麗に完食した後、新野は別の仕事があるからと行ってしまった。伊作はここに残るのか、部屋を出る気配がない。薬棚を漁っている後ろ姿を静かに見つめる。出会ったばかりの人と二人きりの状況に消えかけていた緊張がぶり返す。新野の一緒に居て穏やかな雰囲気と違って、伊作は年が近そうなのも相まってどう振る舞えばいいか分からない。ただでさえ同級生の異性と話すこともままならないのに、今の特殊な状況で彼とコミュニケーションをとるなんて無理だ。声が出なくて良かったのかもと思ってしまう。
そわそわと落ち着かない気持ちでいると伊作がこちらを向いた。
「今から食堂に食器を片付けに行くんですが一緒に行きますか?」
突然話しかけられて心臓が大きく高鳴った。伊作は優しい笑みをこちらに向けて真白の返答を待っている。
「体がきついとか、まだ外に出たくなければ僕が片付けるので」
至れり尽くせりの状態で任せきりは良くないのでこくこくと頷いた。食器を持ち上げて、本日二度目の外へ出る。
伊作の一歩後ろを歩きながら先程とは違う景色を眺める。学校にしてはすごく広いし、本当に昔みたいだ。近くにこんな場所があれば絶対知っているはずなのに。最終的にここは特殊な宗教学校で、昔ながらを大切にして暮らしているという結論にたどり着いた。ここにいる人は優しくて、不安に思うことはない。声が戻れば、体調が万全になれば、家に帰ることができる。そう心に決め込んで、不安と緊張を減らしていく。
「今は食堂に生徒はいませんが、食堂のおばちゃんが作るご飯は大人気なんですよ」
伊作がそう言い、真白は彼の方へ視線を動かす。伊作はこちらを見ていて、視線が合うと嬉しそうに笑った。その邪気のない笑顔に心を見透かされたような気がしてどきっとした。彼は返事のない会話は特に気にしていないようでそのまま続ける。
「貴方が眠っている間、僕と新野先生以外にも治療を手伝ってくれた子たちがいるんです。僕の後輩たちでみんな保健委員なんです。その子たちもすごく心配していたので、声が戻ったら顔を見せに行かせてもいいですか?」
優しい声音に真白はゆっくりと頷いた。本当にたくさんの人に助けられている。その事実に様々な感情が溢れ出して、でも感謝の気持ちは口に出したかった。声が戻ったら、ありがとうございますとちゃんと伝えたい。
このとき初めて、早く声を戻したいと思った。
「食堂のおばちゃん、ごちそうさまでした。今日も美味しかったです」
「あらありがとう伊作くん。その人はもしかして…」
食堂に辿り着いたら、食堂のおばちゃんと呼ばれるご婦人がいた。真白は新しい人に緊張して体が固まっている。
「はい。今日目を覚まされたんです。今は声が出ないようで」
「そうなの…大変だったわね。ご飯はちゃんと食べれたの?」
食堂のおばちゃんがこちらを向いたので空になった食器を見せながらこくこくと頷いた。とても、とても美味しかったですと伝わらないのは分かっていても口パクする。
「ふふふ。完食してくれたようでおばちゃん嬉しいわ」
にっこりと笑って食器を預かってくれるおばちゃんに何だか懐かしい気持ちになる。母に会いたくなってきた。
「声が出ないってことは名前もまだ分からないってことよね。貴方の名前聞きたいわ。声が戻ったら教えてちょうだい」
優しい声にもう一度大きく頷いた。声を戻したい理由がもう一つ増えた。
*****
「この後は保健室に戻っても、少し散歩をしてもいいですよ。新野先生が戻られるまでまだ時間があるので…どうされますか?」
食堂を出た後、伊作がそう言うので真白は悩み始める。三日も寝ていた実感はないが、体はガチガチで歩いて和らげたいと思っていた。散歩をしたいと伝えたいが、どうやって伝えよう。伊作はにこにこと笑みを浮かべていて、もしかして天然タイプなのかなと思い始めた。少し考えて、『さ・ん・ぽ』と口パクする。そして両手両足を使ってウォーキングしているフリをする。伊作が黙ったままなので伝わっていないと思い身振り手振りを大きくした。
すると黙ったままだった伊作がブハッと声を出した。
「ふ、ふふ、あははは!そんなに大きく動かなくても口の動きで分かったのに…」
堪えきれないみたいな顔で盛大に笑っている。真白は腕を上げたまま段々と顔が赤くなっていき、ぎゅっと目を瞑った。その姿に笑いのツボを刺激されたのか、伊作はまた笑い始めた。
今の笑ってる伊作が年相応の姿に見えて、そのまま見つめてしまう。彼は何歳なんだろう。どうしてこの学園にいるんだろう。伊作への興味が小さく湧いてきて口下手だけど彼と話したいと思った。彼は私が言葉に詰まっても優しく言葉を待っていてくれそうで、きっと私も伝えたいことを伝えられる気がする。
じっと見つめる気配に伊作は少し照れてしまって、行きましょうと歩き始めた。
「歩きづらくはないですか?」
そう言って手を差し出した。真白はぶんぶんと首を横に振って歩けることをアピールする。話すことさえ苦手なのに接触は確実に無理だ。お風呂場へ向かう際に手を繋いでいたことを思い出してしまって更に頬が熱くなった。あの時はいっぱいいっぱいで何も考えられなかったから意識していなかったが、今思うとしっかり接触してしまっていたなと恥ずかしくなる。そんな真白に伊作は特に気にすることも無く「そうですか」と言って再び歩き始める。
その後ろ姿に真白はぎゅ、と胸を掴まれたような気がした。自分より少し高い背。穏やかな表情で話す伊作に、いつの間にか異性に対する緊張が薄れていた。今触れ合った時を思い出し、ようやく彼を一人の男性だと意識し始めたのだ。
「あ、ここ花がたくさん咲いてますね。種が飛んできたのかな」
伊作の声に意識を戻す。ちらほらと名前も分からない花たちが自由に咲いていた。
ふと満月の夜を思い出す。体力の限界で倒れてしまったあの時潰してしまった花のことを。花に対して罪悪感を持つなんて変と思われるかもしれないが、あの花はとても綺麗で、花であることを誇りに思っているような美しさだった。そんな美しい花の名前も分からず無造作に潰してしまった。花弁に土がついてしまったあの光景を思い出して胸を痛める。
暗くなってしまった真白の表情に、伊作は首を傾げた。すると、何か思いついたような顔をしてふわふわ咲いている白い花を一輪優しく摘んだ。その花を持ってこちらに寄ってくるので真白はドキリと彼を見つめる。伊作はそのまま花をゆっくりと真白の髪に挿した。耳に彼の手が触れて思わずぎゅっと目を瞑る。そろりと目を開けると花が綻ぶような優しい顔で伊作は笑った。
「とても似合っています」
心臓の音が聞こえていないだろうか。顔は赤くなっていないだろうか。目の前の純粋な優しさを与えてくれる人に自分はどう返せばいいのか分からない。今、心の中でじわじわと温かくなっていくこれは何なのだろうか。伊作の優しさで目頭が熱くなっていくのを感じた。ここに来てから一度もお礼を言えていない。不安なことも、涙も、伊作に見せてしまったのに。自分は何も返せていない。お礼ひとつも言えていないなんて。
声を出したい。この気持ちをちゃんと伝えたい。背中を向ける伊作に届けたくて大きく息を吸い込んだ。
「……ありがとうございます」
伊作がばっとすごい勢いで後ろを振り返った。その顔は驚きに満ちていて、数秒遅れて真白は自分が出した声だと気がついた。あ…と口元に手をやって本当に自分から発した声なのか確認する。すると伊作がぎゅっと両手を掴んできた。
「声が!声が戻った!」
とても嬉しそうな顔に真白は思わず笑ってしまう。その後至近距離に驚いて後ずさってしまったが。
「痛いところはないですか?本当に声が戻ったんですね。よかった…」
「は、はい。痛いところは特に…」
自分でも久しぶりに出した声に驚いてしまう。変な声になっていないか不安に思いつつ、ようやく言いたかったことを直接彼に伝えることができる。
「あの…ぜ、善法寺さん」
「伊作でいいですよ。年、そんなに変わらなそうですし」
「あ、えっと…い…伊作さん」
「はい」
「……私を助けてくださって、本当にありがとうございます。このご恩は必ずお返しします。目が覚めたあとも優しく接してくださって…う、嬉しかったです」
深々と頭を下げて言いたかったことをきちんと伝えられたかぐるぐる考える。異性と会話すること自体珍しい現象なのに自分の言いたいことが相手に伝わっているのか不安だった。
「顔を上げてください。そんなに畏まってお礼を言われると何だかムズムズしますね」
えへへと笑いながら頬を掻く。その顔を見てほっと胸を撫で下ろした。安堵の笑みを零すと伊作がこちらを見つめていることに気づく。何か変な顔をしていたのだろうかと首を傾げた。
「あの…貴方の名前を聞いてもいいですか?」
お礼を伝えることに夢中で自分のことを話していなかったことに気がつく。真白は慌てて伊作の正面に立ち、ピシッと姿勢を正した。
「小花衣真白です…!名乗るのが遅れてしまい申し訳ございません」
「小花衣…真白さん。ふふ、やっと名前を呼べますね」
名前を伝えるだけなのに緊張でまた声が出なくなりそうだった。小さく深呼吸をして心を落ち着かせる。ふと声が戻ったなら聞きたいと思っていたことを思い出した。
「あの…伊作さん」
「何ですか?真白さん」
「先ほど挿してくださったこの花の名前は、なんと言うのでしょうか」
私が潰してしまったあの花は名前すら分からず散らせてしまった。今度はちゃんと名前を知りたいと、そう思ったのだ。
「その花はイチリンソウと言います。名前を知りたかったんですか?」
「はい…きちんと覚えておきたくて」
伊作は不思議そうな顔をして首を傾げている。真白は髪に挿さったイチリンソウを優しく触って伊作に「ありがとうございます」と言った。
やっぱり声を出せるのは嬉しい。会話は苦手だけど相手にきちんと伝えられるのはいいことだ。声を出せれば事情の説明や帰る場所を伝えることも容易だ。本当に声が戻ってよかったと安堵の息を吐く。
「真白さん。この後新野先生が戻ってきたら真白さんの話を聞かせてください」
伊作が朗らかな表情で言った。明るい表情なのに真摯な瞳でこちらを見つめるので思わずドキリとする。
「は、はい。もちろんです」
彼らに事情を説明して、お礼を言って家へ帰る。心が乱れてから考えないようにしていたが、やっと家に帰ることが出来る。両親に心配をかけすぎてしまっているだろうし、叱られるかもしれない。家に帰ったら後日またここへ来てきちんとしたお礼をしないと。
帰ったあとのことをあれやこれやと考えているうちに伊作は少し先を歩いていた。
「そろそろ新野先生も戻っていると思うので、保健室に帰りましょうか」
真白は「はい」と返事をして伊作の背中を追いかけた。
*****
真白を抱えて忍術学園へ戻った伊作と新野はすぐさま保健室に運んで治療を開始した。体は擦り傷が多いが、それよりも衰弱しきった体の方が重大だった。冷えきった体をあの手この手で温めて、薬草を煎じたり包帯を巻いたりして彼女の治療に専念する。二人だけでは手が足りず、伊作が保健委員に手伝いを頼むこともあった。忍術学園内で少しずつ広まっている彼女の噂を消していくために、保健室で寝かせていることは内緒にするようにと口止めをする。特に好奇心旺盛な一年生たちは噂の女性にドキドキしていたが、苦しそうな顔で眠り続ける彼女を見てからは秘密を厳守し、友達にそれとなく聞かれても知らん振りをするようになった。
数馬と左近も同様に、見知らぬ女性の秘密を守り続けた。交代制で彼女を看病していたが、伊作は付きっきりで容態に変化はないか彼女の傍に居続けていた。
彼らの甲斐甲斐しい看病に、寝たきりの彼女もついに目を覚ます。いつも通り様子を確認しようと保健室に訪れた伊作は上半身だけ起き上がっている彼女を見て心の底から安堵した。思わず近寄って顔を確認しようとしたが、驚いて体を揺らす姿に自重の念を込める。
伊作の姿を見て少し驚いた表情をし、すぐに不安そうに瞳を揺らしていた。そんな彼女の姿に小さな庇護欲が生まれる。気を取り直して、自分の名前と彼女に起きていたことを話す。すると声を出そうとしたのか、口をあの形にしてこちらを向く。待っていても声が出ることはなく、伊作は急いで新野を呼びに行った。
校医の新野が診断をして、ストレスからなる症状ということが分かった。声が出なくなるなんて余程大変な思いをしたのだろう。まだ詳しく事情を知らないが、一人野原で倒れていた訳を考えてそう思った。傷一つない白く清潔な手。筋肉も付いておらずどこかの城の姫かと考えるも、出会った時の白い衣を思い出す。見たことのない形の衣で噂で流れていた天女というのはあながち間違いでは無いのかもしれない。その後彼女が伝えようとしていることも理解出来ず、紙に文字を書いてもらってもなんて読むのか分からない。話は通じているのに、文字が読めないのは何故なのか結局誰にも分からなかった。
地図を持ってくるよう言われて、確かに文字が分からなくても絵なら分かると思い伊作は新野の提案に賛成する。しかし場所の説明をしても、分かるどころかどんどん彼女の顔が青くなっていく。そしてついに堪えていた涙が溢れ出して伊作は驚きと焦りで固まってしまった。そんな伊作に新野が風呂の準備をするよう指示をする。急いで風呂場へ向かい、お湯を沸かしながら周りの声も届いていない彼女の姿を思い返す。
あんなに壊れそうな人は初めて見た。すごく脆くて、それを隠そうとしているけど余計に罅が入っているような姿。彼女は僕と同じか下くらいの歳なんだろうか。どうしてあそこに倒れていたのか。どうしてそんなに泣いているのか。気になってしまえば頭から離れることはない。でも、あの泣いている姿を見てしまっては声が戻ったとしても安易に聞くのは躊躇ってしまう。それくらい悲痛な姿だった。
風呂の用意も出来てふうと息をついた後再び保健室へ戻る。ちらりと彼女の顔を見ると、泣き止んではいるが泣き跡がくっきりと残っていてそれが見られたくないのか顔を下に向けてしまった。風呂の用意が出来たからとそこまで案内することになり、ゆっくりと彼女を連れ出す。見るもの全てが真新しく感じるのか、色々な場所を見つめている。人の気配に敏感で、遠くから生徒の笑い声が聞こえるとビクッと震えていた。
安心してほしい。不安に思わないでほしい。微かに震える手から伝わる感情に、助けてあげたいと強く思った。
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お風呂から上がり用意された着物を着てみるが、着物なんて夏祭りで浴衣を着るくらいでしか機会がないため上手く着付けているか不安だった。とりあえずこれで大丈夫かなと全身くまなく確認する。
扉を開けるとすうと風が舞い込んできて、温んだ体に心地よかった。ゆっくりとお風呂に入れて焦りも不安も先程よりだいぶ落ち着いてきた。分からないことがあってもいつかは家に帰ることができる。そう思うと気持ちが幾分か楽になる。空気を吸い込んで深呼吸していると、近くにいたのか伊作がこちらに駆け寄ってきた。
「ゆっくり入られましたか?」
穏やかに微笑む伊作にこくりと頷く。歳が近そうな男の子にしっかり泣き跡を見られてしまったのを思い出してかぁと赤くなる。忘れてほしいな…なんて思いながら彼に連れられてまた保健室へと戻る。
部屋に入った瞬間いい匂いがして顔を上げる。新野がご飯を持ってきていてとても美味しそうだった。三日も何も食べていない真白はストレスのせいでずっと食欲がなかったが、炊きたてのご飯の香りに消えていた食欲が一気に溢れ出した。
「さあ、熱いうちに頂きましょう。私と伊作くんの分も貰ってきたので三人で食べましょう」
温かい笑みを零しながら新野は三人分の食事を並べる。伊作は嬉しそうに座り、真白に手招きをする。そそそと近寄って位置に着くと二人が声を合わせて「いただきます」と言った。真白も慌てて手を合わせて、声は出ないが口パクでいただきますと言って湯気が出ている白米を口に入れた。
美味しくて、じんと心が温まるような優しい味だ。いつも食べるご飯と同じで、唯一変わらないものを見つけたと嬉しくて涙腺が緩くなる。小さい口でもぐもぐと食べる真白に、新野と伊作は顔を合わせて嬉しそうに微笑んだ。
綺麗に完食した後、新野は別の仕事があるからと行ってしまった。伊作はここに残るのか、部屋を出る気配がない。薬棚を漁っている後ろ姿を静かに見つめる。出会ったばかりの人と二人きりの状況に消えかけていた緊張がぶり返す。新野の一緒に居て穏やかな雰囲気と違って、伊作は年が近そうなのも相まってどう振る舞えばいいか分からない。ただでさえ同級生の異性と話すこともままならないのに、今の特殊な状況で彼とコミュニケーションをとるなんて無理だ。声が出なくて良かったのかもと思ってしまう。
そわそわと落ち着かない気持ちでいると伊作がこちらを向いた。
「今から食堂に食器を片付けに行くんですが一緒に行きますか?」
突然話しかけられて心臓が大きく高鳴った。伊作は優しい笑みをこちらに向けて真白の返答を待っている。
「体がきついとか、まだ外に出たくなければ僕が片付けるので」
至れり尽くせりの状態で任せきりは良くないのでこくこくと頷いた。食器を持ち上げて、本日二度目の外へ出る。
伊作の一歩後ろを歩きながら先程とは違う景色を眺める。学校にしてはすごく広いし、本当に昔みたいだ。近くにこんな場所があれば絶対知っているはずなのに。最終的にここは特殊な宗教学校で、昔ながらを大切にして暮らしているという結論にたどり着いた。ここにいる人は優しくて、不安に思うことはない。声が戻れば、体調が万全になれば、家に帰ることができる。そう心に決め込んで、不安と緊張を減らしていく。
「今は食堂に生徒はいませんが、食堂のおばちゃんが作るご飯は大人気なんですよ」
伊作がそう言い、真白は彼の方へ視線を動かす。伊作はこちらを見ていて、視線が合うと嬉しそうに笑った。その邪気のない笑顔に心を見透かされたような気がしてどきっとした。彼は返事のない会話は特に気にしていないようでそのまま続ける。
「貴方が眠っている間、僕と新野先生以外にも治療を手伝ってくれた子たちがいるんです。僕の後輩たちでみんな保健委員なんです。その子たちもすごく心配していたので、声が戻ったら顔を見せに行かせてもいいですか?」
優しい声音に真白はゆっくりと頷いた。本当にたくさんの人に助けられている。その事実に様々な感情が溢れ出して、でも感謝の気持ちは口に出したかった。声が戻ったら、ありがとうございますとちゃんと伝えたい。
このとき初めて、早く声を戻したいと思った。
「食堂のおばちゃん、ごちそうさまでした。今日も美味しかったです」
「あらありがとう伊作くん。その人はもしかして…」
食堂に辿り着いたら、食堂のおばちゃんと呼ばれるご婦人がいた。真白は新しい人に緊張して体が固まっている。
「はい。今日目を覚まされたんです。今は声が出ないようで」
「そうなの…大変だったわね。ご飯はちゃんと食べれたの?」
食堂のおばちゃんがこちらを向いたので空になった食器を見せながらこくこくと頷いた。とても、とても美味しかったですと伝わらないのは分かっていても口パクする。
「ふふふ。完食してくれたようでおばちゃん嬉しいわ」
にっこりと笑って食器を預かってくれるおばちゃんに何だか懐かしい気持ちになる。母に会いたくなってきた。
「声が出ないってことは名前もまだ分からないってことよね。貴方の名前聞きたいわ。声が戻ったら教えてちょうだい」
優しい声にもう一度大きく頷いた。声を戻したい理由がもう一つ増えた。
*****
「この後は保健室に戻っても、少し散歩をしてもいいですよ。新野先生が戻られるまでまだ時間があるので…どうされますか?」
食堂を出た後、伊作がそう言うので真白は悩み始める。三日も寝ていた実感はないが、体はガチガチで歩いて和らげたいと思っていた。散歩をしたいと伝えたいが、どうやって伝えよう。伊作はにこにこと笑みを浮かべていて、もしかして天然タイプなのかなと思い始めた。少し考えて、『さ・ん・ぽ』と口パクする。そして両手両足を使ってウォーキングしているフリをする。伊作が黙ったままなので伝わっていないと思い身振り手振りを大きくした。
すると黙ったままだった伊作がブハッと声を出した。
「ふ、ふふ、あははは!そんなに大きく動かなくても口の動きで分かったのに…」
堪えきれないみたいな顔で盛大に笑っている。真白は腕を上げたまま段々と顔が赤くなっていき、ぎゅっと目を瞑った。その姿に笑いのツボを刺激されたのか、伊作はまた笑い始めた。
今の笑ってる伊作が年相応の姿に見えて、そのまま見つめてしまう。彼は何歳なんだろう。どうしてこの学園にいるんだろう。伊作への興味が小さく湧いてきて口下手だけど彼と話したいと思った。彼は私が言葉に詰まっても優しく言葉を待っていてくれそうで、きっと私も伝えたいことを伝えられる気がする。
じっと見つめる気配に伊作は少し照れてしまって、行きましょうと歩き始めた。
「歩きづらくはないですか?」
そう言って手を差し出した。真白はぶんぶんと首を横に振って歩けることをアピールする。話すことさえ苦手なのに接触は確実に無理だ。お風呂場へ向かう際に手を繋いでいたことを思い出してしまって更に頬が熱くなった。あの時はいっぱいいっぱいで何も考えられなかったから意識していなかったが、今思うとしっかり接触してしまっていたなと恥ずかしくなる。そんな真白に伊作は特に気にすることも無く「そうですか」と言って再び歩き始める。
その後ろ姿に真白はぎゅ、と胸を掴まれたような気がした。自分より少し高い背。穏やかな表情で話す伊作に、いつの間にか異性に対する緊張が薄れていた。今触れ合った時を思い出し、ようやく彼を一人の男性だと意識し始めたのだ。
「あ、ここ花がたくさん咲いてますね。種が飛んできたのかな」
伊作の声に意識を戻す。ちらほらと名前も分からない花たちが自由に咲いていた。
ふと満月の夜を思い出す。体力の限界で倒れてしまったあの時潰してしまった花のことを。花に対して罪悪感を持つなんて変と思われるかもしれないが、あの花はとても綺麗で、花であることを誇りに思っているような美しさだった。そんな美しい花の名前も分からず無造作に潰してしまった。花弁に土がついてしまったあの光景を思い出して胸を痛める。
暗くなってしまった真白の表情に、伊作は首を傾げた。すると、何か思いついたような顔をしてふわふわ咲いている白い花を一輪優しく摘んだ。その花を持ってこちらに寄ってくるので真白はドキリと彼を見つめる。伊作はそのまま花をゆっくりと真白の髪に挿した。耳に彼の手が触れて思わずぎゅっと目を瞑る。そろりと目を開けると花が綻ぶような優しい顔で伊作は笑った。
「とても似合っています」
心臓の音が聞こえていないだろうか。顔は赤くなっていないだろうか。目の前の純粋な優しさを与えてくれる人に自分はどう返せばいいのか分からない。今、心の中でじわじわと温かくなっていくこれは何なのだろうか。伊作の優しさで目頭が熱くなっていくのを感じた。ここに来てから一度もお礼を言えていない。不安なことも、涙も、伊作に見せてしまったのに。自分は何も返せていない。お礼ひとつも言えていないなんて。
声を出したい。この気持ちをちゃんと伝えたい。背中を向ける伊作に届けたくて大きく息を吸い込んだ。
「……ありがとうございます」
伊作がばっとすごい勢いで後ろを振り返った。その顔は驚きに満ちていて、数秒遅れて真白は自分が出した声だと気がついた。あ…と口元に手をやって本当に自分から発した声なのか確認する。すると伊作がぎゅっと両手を掴んできた。
「声が!声が戻った!」
とても嬉しそうな顔に真白は思わず笑ってしまう。その後至近距離に驚いて後ずさってしまったが。
「痛いところはないですか?本当に声が戻ったんですね。よかった…」
「は、はい。痛いところは特に…」
自分でも久しぶりに出した声に驚いてしまう。変な声になっていないか不安に思いつつ、ようやく言いたかったことを直接彼に伝えることができる。
「あの…ぜ、善法寺さん」
「伊作でいいですよ。年、そんなに変わらなそうですし」
「あ、えっと…い…伊作さん」
「はい」
「……私を助けてくださって、本当にありがとうございます。このご恩は必ずお返しします。目が覚めたあとも優しく接してくださって…う、嬉しかったです」
深々と頭を下げて言いたかったことをきちんと伝えられたかぐるぐる考える。異性と会話すること自体珍しい現象なのに自分の言いたいことが相手に伝わっているのか不安だった。
「顔を上げてください。そんなに畏まってお礼を言われると何だかムズムズしますね」
えへへと笑いながら頬を掻く。その顔を見てほっと胸を撫で下ろした。安堵の笑みを零すと伊作がこちらを見つめていることに気づく。何か変な顔をしていたのだろうかと首を傾げた。
「あの…貴方の名前を聞いてもいいですか?」
お礼を伝えることに夢中で自分のことを話していなかったことに気がつく。真白は慌てて伊作の正面に立ち、ピシッと姿勢を正した。
「小花衣真白です…!名乗るのが遅れてしまい申し訳ございません」
「小花衣…真白さん。ふふ、やっと名前を呼べますね」
名前を伝えるだけなのに緊張でまた声が出なくなりそうだった。小さく深呼吸をして心を落ち着かせる。ふと声が戻ったなら聞きたいと思っていたことを思い出した。
「あの…伊作さん」
「何ですか?真白さん」
「先ほど挿してくださったこの花の名前は、なんと言うのでしょうか」
私が潰してしまったあの花は名前すら分からず散らせてしまった。今度はちゃんと名前を知りたいと、そう思ったのだ。
「その花はイチリンソウと言います。名前を知りたかったんですか?」
「はい…きちんと覚えておきたくて」
伊作は不思議そうな顔をして首を傾げている。真白は髪に挿さったイチリンソウを優しく触って伊作に「ありがとうございます」と言った。
やっぱり声を出せるのは嬉しい。会話は苦手だけど相手にきちんと伝えられるのはいいことだ。声を出せれば事情の説明や帰る場所を伝えることも容易だ。本当に声が戻ってよかったと安堵の息を吐く。
「真白さん。この後新野先生が戻ってきたら真白さんの話を聞かせてください」
伊作が朗らかな表情で言った。明るい表情なのに真摯な瞳でこちらを見つめるので思わずドキリとする。
「は、はい。もちろんです」
彼らに事情を説明して、お礼を言って家へ帰る。心が乱れてから考えないようにしていたが、やっと家に帰ることが出来る。両親に心配をかけすぎてしまっているだろうし、叱られるかもしれない。家に帰ったら後日またここへ来てきちんとしたお礼をしないと。
帰ったあとのことをあれやこれやと考えているうちに伊作は少し先を歩いていた。
「そろそろ新野先生も戻っていると思うので、保健室に帰りましょうか」
真白は「はい」と返事をして伊作の背中を追いかけた。
