高校三年生になったばかりの内気な女の子
満月の夜に
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伊作が女性を抱えていたという噂は忍術学園中に広まった。白い衣を纏った天女のような人だとか、どこかの城の姫だとか。噂は人を伝って突飛な話へと変貌していった。そうすると噂を信じる者は減っていき、結局真実を探ろうとする者はいなかった。
ただし、保健委員たちは知っている。保健室に噂の女性が眠っていることを。伊作に内緒にするよう口止めされているため、これを知っているのは保健委員だけ。彼らはまだ眠る彼女に興味が湧き、早く目覚めることを祈った。
*****
暗闇の中から溢れ出した光に思わず目を瞑る。段々と光に慣れてきて、ゆっくりと瞼を上げていく。
目の前に見えたのは天井だった。眠っていたのだろうか、上半身だけ起き上がり辺りを見回す。あまり見かける機会が少ない古い薬棚が目に入る。すんと匂いを嗅いでみると、微かに薬草の匂いがした。祖父母の家を思い出させる香りだった。最近は会えていないので何だか懐かしい気持ちになる。
ホームシックになりそうで、思わず視線を変えるとそこには薬研があった。本物を初めて見た。本でしか見たことがなかったのでジロジロと角度を変えて観察する。医療関係の部屋なのかと思考を張り巡らせるも、結局答えは分からないままだ。
畳の匂いが鼻を掠めて、昔の雰囲気を立ち込めるこの部屋に体がそわそわした。
明らかに知らない場所だ。昨晩からの記憶があやふやでどうしてここにいるのか分からなかった。あの夜、体から力が抜けていって倒れてしまったことまでは覚えている。そのまま気絶してしまったのか、その後の記憶が全く無い。見知らぬ誰かが助けてくれたのだろうか、お礼を言って電話を貸してもらおう。きっと父も母も心配している。そう心に決めてもう一度辺りを見回す。
畳の先にある障子を見て、布団から出ようとしたその時。誰かの足音が聞こえてきた。障子を開ける音がして、思わず顔を上げる。
「目が覚めたんですね」
現れたのは明るい茶髪の青年だった。何だか珍しい服を着ていた。全身深緑の、言うならば忍者みたいな格好だ。髪も長くて、ポニーテールをしている男の人なんて珍しいと思った。だけど服は普段着かもしれないし、髪も珍しいというだけで変ではない。人様の格好について何か思うのは失礼と思い、慌てて視線を彼の顔に向ける。
すると顔を見るなりぱっと笑顔になってこちらに近寄ってくる。少し驚いて体をビクつかせてしまった。それに気づいたのか、彼は慌てて距離を取った。
「急に近づいてすみません。僕は善法寺伊作です。野原で倒れていた貴方を見つけてここまで運んできました」
そう言うと、伊作は気遣うようにこちらを覗いてきた。本当に心配と気遣いしかない表情で、驚いて反応してしまった自分が謝りたくなるほどだ。
あの野原に人が住めるような家は見えなかった。目の前にいるこの人がここまで運んでくださったんだ。こんなに自分と年が近そうな方に…と申し訳なさと恥ずかしさで頬が熱くなる。
咄嗟に助けてもらったお礼を言おうと口を開く。
けれど、そこから声が出ることはなかった。眠りこけている間に声の出し方も忘れたのか、喉に手をやって声を出そうとするがどうしても出ない。
「声が…出ないのですか?」
その姿を見ていた伊作が労わるように声をかける。自分でも信じられないが、事実声を出すことが出来ないためこくりと頷くと彼は「少し失礼します」と言って真白の喉元に手を近づけた。突然触られる感覚にびっくりして目を丸くする。顔が近くて、色んな意味でキャパオーバーだった。同性の友達でもこんなに近くに顔がある機会はない。
「うーん…僕には原因が分からないな。体の方は大丈夫ですか?」
伊作の言葉にこくこくと頷いた。力が抜けて倒れるほど疲れていたのに、今はすっかり起き上がる力がある。どれくらい眠っていたのだろうか。
「新野先生を呼んでくるので、ゆっくりしていてください」
新野先生とはどなたのことなのか分からないが、そう言うと彼は部屋を出ていってしまった。大きなため息を一つ。知らない場所に知らない人。ただでさえ人と話すのが苦手で対面しただけでも緊張で汗が吹き出そうなのに、異性の他人に助けられるなんて。ああ何て災難なの。こんなことなら母にお迎えでも頼めばよかった。ぐるぐると不安が体の中で渦巻いて気持ち悪くなってきた。
「失礼しますね」
優しげな声とともに、今度は全身白い服を着た男性が入ってきた。後ろから伊作も顔を出して部屋に入る。
二人を見比べると色は違えど同じ忍者のような格好をしている。もしかしてここはどこかの宗教団体なのだろうか。それでも、助けてもらったことに変わりはない。
「はじめまして。私は新野洋一と言います。この学園で校医をしている者です」
見た目通りの優しい声に強ばっていた体も少し緩んだ。新野は学園と言っていた。ここは学校で、伊作は生徒なのだろうか。つまりここは保健室?わざわざ学園に運んでもらった理由も、彼等が同じ格好をしていることも何も分からない。とりあえず、目の前のことに集中する。
声が出ないので体を向けて一礼した。すると新野はにこりと微笑んで、「喉の方を確認したいので触れても大丈夫ですか?」と聞いた。こくりと頷くと硬くて温かい手が喉元へやってくる。
数分あちこち見たあと新野は眉を下げた。
「極度のストレスによって起こる症状ですね。声が戻る可能性は十分にありますが、それがいつかになるかは分かりません」
声が出なくなるなんて初めてだった。ストレスの原因は明確で、家に帰ることができればきっと声も戻るだろう。そう思ってあまり驚かずに話を聞いていた。
「三日も眠っていましたからね。余程疲れていたのでしょう」
そばにいた伊作がぽつりとこぼす。
三日…?衝撃の言葉にばっと顔を伊作へと向ける。伊作は彼女の言いたいことに気づいたのか、上半身だけ起き上がっている真白に目線を合わせた。
「野原で倒れていた貴方をここに連れてきてから三日経っています。その間、貴方は一度も目を覚まさず眠り続けていました」
三日も眠り続けていたなんて信じられず、動揺で一気に顔が青くなった。三日も両親に連絡していなければ警察を呼んでいてもおかしくない。きっとすごく心配をかけている。焦燥感に冷や汗が止まらない。早く電話を貸してもらわないと。でも声が出ないのでは通じない。なら電話番号を紙に書いて二人に連絡してもらおう。
真白は『で・ん・わ』と口パクすると受話器を持つ手振りをした。新野と伊作は顔を見合わせ、何を伝えたいのか分からないようだった。
必死に身振り手振りで伝えようとする真白。伊作は言いたいことを当てようと色んな単語を声に出す。しかしどれも違っていて電話が伝わらない。
こういう時は電話で身内に連絡するのが普通なのではないだろうか。どうして伝わらないのだろうと、潤む瞳を堪えながら考える。
「ごめんなさい…何を伝えたいのか分からなくて…」
「そうだ。紙に書けば何か分かるのではないですか。お嬢さん、字は書けますか?」
新野の提案にぱっと顔が明るくなる。字が書けるかなんて、わざわざ聞くのに疑問を覚えたがそんなことはどうでもよかった。しかし渡されたのが筆なことに驚く。今どき文字を書くのに筆を渡す人なんているんだ、と不思議に思いながらも紙に文字を書いていく。筆は小学生の頃習字で使った程度で、慣れていないためか字がガタついてしまった。
『電話を貸してください』と書いた。一応読める程度には書けたと思う。すぐに書いたものを二人に見せる。新野も伊作もまたもや困ったように眉を下げた。
「何て書いてあるんだろう…新野先生、分かりますか?」
「ううん…これは漢字、だろうけど何て書いてあるかまでは分からないなぁ」
二人の会話に真白は耳を疑った。少しガタついたがちゃんと読める字のはずだ。文字が書けるか聞いていたけれど、ここでは文字を読み書きできるのは珍しいことなのだろうか。もしかしたら、物凄く特殊な宗教に入信されている方々なのかもしれない。部屋の雰囲気に筆、伝わらない文字。何もかも自分の当たり前とかけ離れすぎていて募る不安は止まらない。
「これじゃあ名前を書いてもらっても分からないですよね。ずっと貴方と呼ぶわけにもいかないですし…」
「まずは声を戻すことを第一に考えた方がいいですね。伊作くん、図書室から地図を借りてきてくれるかい」
「分かりました」
そう言うと伊作は部屋を出ていった。その間新野は他に痛いところや苦しいところはないか優しく聞いてくれた。取り繕っているが、どこか怯えた表情に微かに震えている手。緊張と不安で押しつぶされそうな真白の心を少しでも軽くできるよう新野は細心の注意を払っていた。
ぱたぱたと地図を持ってきた伊作が戻って来る。新野がそれを受け取ると彼女に見えるよう広げた。
「ここが今いる忍術学園です。お嬢さんの家はどこか分かりますか?」
紙でできた地図なんてこれまた珍しいな、スマホじゃないんだ…と心の中で思いながら新野が指差す場所に目を向ける。忍術学園、聞いたこともない学校だ。周りの地名を確認する。真白は衝撃に目を疑った。何も、何処も、分からないのだ。全部知らない。聞いたこともない。ドクタケやタソガレドキ、こんな風変わりな名前一度聞いたら忘れるわけがない。必死に目を動かして自分が帰るべき場所の名前を探す。
もう怖くなってきた。あの満月の夜からずっと、分からないことだらけだ。堪えていた涙が限界を迎えて頬を伝った。昔からよく泣く子だったが、もう大人になる年だから人前では泣かないと決めていたのに。流れ続ける涙の止め方も分からず、声にならない嗚咽を漏らす。
その様子を見ていた新野がそっと背中に手をやって壊れ物を扱うように優しく、優しく撫でた。新野は焦った表情の伊作に小さな声で指示を出す。頭の中が恐怖で支配されている真白には何も聞こえなかった。伊作はすぐに立ち上がり、颯爽とどこかへ走っていった。
「お嬢さん、大丈夫ですよ。ここには貴方に危害を与えようとするものはありません。まずはゆっくり息をしましょう」
目の前にいるはずなのに新野の声が遠くから聞こえる。はあ、はあと落ち着こうとしているのに息が続かなくて思いきり息を吸い込んでしまう。視界が滲んでいて新野がどんな顔をしているのか分からない。
「お嬢さん、お嬢さん。私を見ようとしなくて大丈夫ですから、私に合わせてゆっくり息を吸ってください。はい、息をゆっくり吸って……」
すううと新野が息を吸う音に合わせて真白も吸い込んだ。そのままゆっくりと息を吐いて、ようやく新野が背中を擦ってくれていたことに気がつく。
「よかった。そのままゆっくり呼吸を続けましょう。大丈夫ですからね」
新野が優しく微笑む。汗がびっしょりで、顔も泣きすぎて酷いことになっている。恥ずかしさと気持ち悪さで、もう一人どこかへ消えてしまいたかった。優しい手で背中を撫でられているのを感じながらそう思った。
ばたばたと急ぎ足で帰ってきた伊作が「準備が出来ました」と言う。一瞬こちらを向いて酷い顔をしてるだろう私の顔をじっと見つめた。顔を見られたくなくて視線を畳に向ける。すると新野が優しい声で言った。
「お嬢さん、お風呂の用意ができたのでまずは体を洗い流しましょう。そのあと温かいご飯を食べて、心と体を休ませて、それから考えましょう」
新野の提案にこくりと頷いた。頭の中で色々と考えすぎてもう脳は考えることを放棄していた。とりあえず新野はすごく労ってくれていて、自分はその良心に甘えている。今真白の頭で考えられるのはそれだけだった。
「私は食堂のおばちゃんに頼んで食事を持ってきますから、伊作くん。彼女をお風呂場へ案内してあげて」
「はい。…こちらへ」
ゆっくりと顔を上げると伊作が目の前に手を差し出していた。真白は一瞬固まるも、おそるおそる彼の手のひらに自分のを重ねる。そのままぐいと引っ張り、真白が起き上がるのを手伝ってくれる。久しぶりに立ち上がったので上手く立てずによろめく。瞬時に伊作が腕を掴んで支えてくれた。感謝の意を込めて礼をすると「これくらいどうってことないですよ」と彼は笑った。掴んだ腕をするりと手へ戻すと、一歩一歩ゆっくりと歩き始める。繋いだ手がじんわりと温かくなるのを感じながら、初めて見る外の景色に目を奪われる。部屋を出ると目の前は外で、入口には『保健室』と書いてあった。この学園はかなり古い建物なのだろうか、なんてちらちら周りを確認する。
「この時間はみんな授業を受けているので誰かと鉢合わせることはないですよ」
人がいないか確認していると思った伊作がそう言った。突然話しかけられたことに驚いてこくこくと相槌を打つ。ふと授業と言う言葉に疑問を持つ。彼は若いので生徒だと思っていたが授業じゃないのだろうか。真白の表情に伊作は「ああ」と声を出して彼女の疑問に答える。
「僕は六年生なんですけど、今日は六年生全員お休みの日なので授業がないんです」
彼の返答に、折角の休日に私の相手をすることになったなんて申し訳ないなと思いつつ、六年生という単語に引っかかる。私より背が高くて手もがっしりとした男の人の手なのに小学六年生?最近の子どもの成長は早いのか、はたまた何か盛大な勘違いをしているのか。徐々に戻りつつある頭でぐるぐる考えたが、やっぱり思考を放棄した。
「こちらが女性の先生に用意していただいた着替えです。僕たちのことは気にせず、ゆっくり入ってください」
そう言って伊作に珊瑚色の着物を渡される。こくりと頷いて彼を見送ったあと、ようやく一人になった安堵でほっと息をつく。知らない場所で裸になるのも気が引けるが、今はそんなこと言ってられないくらい汗が肌に張り付いていた。
お風呂が木材で出来ていて、何度思ったかもう覚えていないが古い建物だな…と思った。木の匂いがすんと鼻を掠めてとても落ち着く香りだった。
とりあえず髪と体をしっかり洗う。三日もお風呂に入らなかったのは初めてで、二人とも何も言わないでいてくれたが臭かったかもしれない。そう思うと段々恥ずかしくなってきて、一層力を入れて体を洗った。
ゆっくりと湯船に浸かると今までの疲労が癒されるように温もりが体中に染み渡った。ようやく考える力が戻ってきて、冷静に今までの状況を顧みる。私はとても優しい方々に助けてもらった。早く両親に連絡しようにも声が出なくて、そして彼らは電話を知らない。冷静に思い返してもやはり意味が分からない。建物も筆も知識も、全てが昔みたいだ。何だかタイムスリップしてきたみたいな。そんなわけないと分かっていながらも辻褄が合うこの考えが妙に頭に残る。考えるうちに、ぶくぶくと口元までお湯に浸かっていた。
もし…もし本当にタイムスリップしていて、元の時代に帰ることが出来なかったら私はどうするのだろう。
きっと……自死を選んでしまう。
最悪のことを考える癖は抜けてなくて、真白は自嘲気味に笑った。
ただし、保健委員たちは知っている。保健室に噂の女性が眠っていることを。伊作に内緒にするよう口止めされているため、これを知っているのは保健委員だけ。彼らはまだ眠る彼女に興味が湧き、早く目覚めることを祈った。
*****
暗闇の中から溢れ出した光に思わず目を瞑る。段々と光に慣れてきて、ゆっくりと瞼を上げていく。
目の前に見えたのは天井だった。眠っていたのだろうか、上半身だけ起き上がり辺りを見回す。あまり見かける機会が少ない古い薬棚が目に入る。すんと匂いを嗅いでみると、微かに薬草の匂いがした。祖父母の家を思い出させる香りだった。最近は会えていないので何だか懐かしい気持ちになる。
ホームシックになりそうで、思わず視線を変えるとそこには薬研があった。本物を初めて見た。本でしか見たことがなかったのでジロジロと角度を変えて観察する。医療関係の部屋なのかと思考を張り巡らせるも、結局答えは分からないままだ。
畳の匂いが鼻を掠めて、昔の雰囲気を立ち込めるこの部屋に体がそわそわした。
明らかに知らない場所だ。昨晩からの記憶があやふやでどうしてここにいるのか分からなかった。あの夜、体から力が抜けていって倒れてしまったことまでは覚えている。そのまま気絶してしまったのか、その後の記憶が全く無い。見知らぬ誰かが助けてくれたのだろうか、お礼を言って電話を貸してもらおう。きっと父も母も心配している。そう心に決めてもう一度辺りを見回す。
畳の先にある障子を見て、布団から出ようとしたその時。誰かの足音が聞こえてきた。障子を開ける音がして、思わず顔を上げる。
「目が覚めたんですね」
現れたのは明るい茶髪の青年だった。何だか珍しい服を着ていた。全身深緑の、言うならば忍者みたいな格好だ。髪も長くて、ポニーテールをしている男の人なんて珍しいと思った。だけど服は普段着かもしれないし、髪も珍しいというだけで変ではない。人様の格好について何か思うのは失礼と思い、慌てて視線を彼の顔に向ける。
すると顔を見るなりぱっと笑顔になってこちらに近寄ってくる。少し驚いて体をビクつかせてしまった。それに気づいたのか、彼は慌てて距離を取った。
「急に近づいてすみません。僕は善法寺伊作です。野原で倒れていた貴方を見つけてここまで運んできました」
そう言うと、伊作は気遣うようにこちらを覗いてきた。本当に心配と気遣いしかない表情で、驚いて反応してしまった自分が謝りたくなるほどだ。
あの野原に人が住めるような家は見えなかった。目の前にいるこの人がここまで運んでくださったんだ。こんなに自分と年が近そうな方に…と申し訳なさと恥ずかしさで頬が熱くなる。
咄嗟に助けてもらったお礼を言おうと口を開く。
けれど、そこから声が出ることはなかった。眠りこけている間に声の出し方も忘れたのか、喉に手をやって声を出そうとするがどうしても出ない。
「声が…出ないのですか?」
その姿を見ていた伊作が労わるように声をかける。自分でも信じられないが、事実声を出すことが出来ないためこくりと頷くと彼は「少し失礼します」と言って真白の喉元に手を近づけた。突然触られる感覚にびっくりして目を丸くする。顔が近くて、色んな意味でキャパオーバーだった。同性の友達でもこんなに近くに顔がある機会はない。
「うーん…僕には原因が分からないな。体の方は大丈夫ですか?」
伊作の言葉にこくこくと頷いた。力が抜けて倒れるほど疲れていたのに、今はすっかり起き上がる力がある。どれくらい眠っていたのだろうか。
「新野先生を呼んでくるので、ゆっくりしていてください」
新野先生とはどなたのことなのか分からないが、そう言うと彼は部屋を出ていってしまった。大きなため息を一つ。知らない場所に知らない人。ただでさえ人と話すのが苦手で対面しただけでも緊張で汗が吹き出そうなのに、異性の他人に助けられるなんて。ああ何て災難なの。こんなことなら母にお迎えでも頼めばよかった。ぐるぐると不安が体の中で渦巻いて気持ち悪くなってきた。
「失礼しますね」
優しげな声とともに、今度は全身白い服を着た男性が入ってきた。後ろから伊作も顔を出して部屋に入る。
二人を見比べると色は違えど同じ忍者のような格好をしている。もしかしてここはどこかの宗教団体なのだろうか。それでも、助けてもらったことに変わりはない。
「はじめまして。私は新野洋一と言います。この学園で校医をしている者です」
見た目通りの優しい声に強ばっていた体も少し緩んだ。新野は学園と言っていた。ここは学校で、伊作は生徒なのだろうか。つまりここは保健室?わざわざ学園に運んでもらった理由も、彼等が同じ格好をしていることも何も分からない。とりあえず、目の前のことに集中する。
声が出ないので体を向けて一礼した。すると新野はにこりと微笑んで、「喉の方を確認したいので触れても大丈夫ですか?」と聞いた。こくりと頷くと硬くて温かい手が喉元へやってくる。
数分あちこち見たあと新野は眉を下げた。
「極度のストレスによって起こる症状ですね。声が戻る可能性は十分にありますが、それがいつかになるかは分かりません」
声が出なくなるなんて初めてだった。ストレスの原因は明確で、家に帰ることができればきっと声も戻るだろう。そう思ってあまり驚かずに話を聞いていた。
「三日も眠っていましたからね。余程疲れていたのでしょう」
そばにいた伊作がぽつりとこぼす。
三日…?衝撃の言葉にばっと顔を伊作へと向ける。伊作は彼女の言いたいことに気づいたのか、上半身だけ起き上がっている真白に目線を合わせた。
「野原で倒れていた貴方をここに連れてきてから三日経っています。その間、貴方は一度も目を覚まさず眠り続けていました」
三日も眠り続けていたなんて信じられず、動揺で一気に顔が青くなった。三日も両親に連絡していなければ警察を呼んでいてもおかしくない。きっとすごく心配をかけている。焦燥感に冷や汗が止まらない。早く電話を貸してもらわないと。でも声が出ないのでは通じない。なら電話番号を紙に書いて二人に連絡してもらおう。
真白は『で・ん・わ』と口パクすると受話器を持つ手振りをした。新野と伊作は顔を見合わせ、何を伝えたいのか分からないようだった。
必死に身振り手振りで伝えようとする真白。伊作は言いたいことを当てようと色んな単語を声に出す。しかしどれも違っていて電話が伝わらない。
こういう時は電話で身内に連絡するのが普通なのではないだろうか。どうして伝わらないのだろうと、潤む瞳を堪えながら考える。
「ごめんなさい…何を伝えたいのか分からなくて…」
「そうだ。紙に書けば何か分かるのではないですか。お嬢さん、字は書けますか?」
新野の提案にぱっと顔が明るくなる。字が書けるかなんて、わざわざ聞くのに疑問を覚えたがそんなことはどうでもよかった。しかし渡されたのが筆なことに驚く。今どき文字を書くのに筆を渡す人なんているんだ、と不思議に思いながらも紙に文字を書いていく。筆は小学生の頃習字で使った程度で、慣れていないためか字がガタついてしまった。
『電話を貸してください』と書いた。一応読める程度には書けたと思う。すぐに書いたものを二人に見せる。新野も伊作もまたもや困ったように眉を下げた。
「何て書いてあるんだろう…新野先生、分かりますか?」
「ううん…これは漢字、だろうけど何て書いてあるかまでは分からないなぁ」
二人の会話に真白は耳を疑った。少しガタついたがちゃんと読める字のはずだ。文字が書けるか聞いていたけれど、ここでは文字を読み書きできるのは珍しいことなのだろうか。もしかしたら、物凄く特殊な宗教に入信されている方々なのかもしれない。部屋の雰囲気に筆、伝わらない文字。何もかも自分の当たり前とかけ離れすぎていて募る不安は止まらない。
「これじゃあ名前を書いてもらっても分からないですよね。ずっと貴方と呼ぶわけにもいかないですし…」
「まずは声を戻すことを第一に考えた方がいいですね。伊作くん、図書室から地図を借りてきてくれるかい」
「分かりました」
そう言うと伊作は部屋を出ていった。その間新野は他に痛いところや苦しいところはないか優しく聞いてくれた。取り繕っているが、どこか怯えた表情に微かに震えている手。緊張と不安で押しつぶされそうな真白の心を少しでも軽くできるよう新野は細心の注意を払っていた。
ぱたぱたと地図を持ってきた伊作が戻って来る。新野がそれを受け取ると彼女に見えるよう広げた。
「ここが今いる忍術学園です。お嬢さんの家はどこか分かりますか?」
紙でできた地図なんてこれまた珍しいな、スマホじゃないんだ…と心の中で思いながら新野が指差す場所に目を向ける。忍術学園、聞いたこともない学校だ。周りの地名を確認する。真白は衝撃に目を疑った。何も、何処も、分からないのだ。全部知らない。聞いたこともない。ドクタケやタソガレドキ、こんな風変わりな名前一度聞いたら忘れるわけがない。必死に目を動かして自分が帰るべき場所の名前を探す。
もう怖くなってきた。あの満月の夜からずっと、分からないことだらけだ。堪えていた涙が限界を迎えて頬を伝った。昔からよく泣く子だったが、もう大人になる年だから人前では泣かないと決めていたのに。流れ続ける涙の止め方も分からず、声にならない嗚咽を漏らす。
その様子を見ていた新野がそっと背中に手をやって壊れ物を扱うように優しく、優しく撫でた。新野は焦った表情の伊作に小さな声で指示を出す。頭の中が恐怖で支配されている真白には何も聞こえなかった。伊作はすぐに立ち上がり、颯爽とどこかへ走っていった。
「お嬢さん、大丈夫ですよ。ここには貴方に危害を与えようとするものはありません。まずはゆっくり息をしましょう」
目の前にいるはずなのに新野の声が遠くから聞こえる。はあ、はあと落ち着こうとしているのに息が続かなくて思いきり息を吸い込んでしまう。視界が滲んでいて新野がどんな顔をしているのか分からない。
「お嬢さん、お嬢さん。私を見ようとしなくて大丈夫ですから、私に合わせてゆっくり息を吸ってください。はい、息をゆっくり吸って……」
すううと新野が息を吸う音に合わせて真白も吸い込んだ。そのままゆっくりと息を吐いて、ようやく新野が背中を擦ってくれていたことに気がつく。
「よかった。そのままゆっくり呼吸を続けましょう。大丈夫ですからね」
新野が優しく微笑む。汗がびっしょりで、顔も泣きすぎて酷いことになっている。恥ずかしさと気持ち悪さで、もう一人どこかへ消えてしまいたかった。優しい手で背中を撫でられているのを感じながらそう思った。
ばたばたと急ぎ足で帰ってきた伊作が「準備が出来ました」と言う。一瞬こちらを向いて酷い顔をしてるだろう私の顔をじっと見つめた。顔を見られたくなくて視線を畳に向ける。すると新野が優しい声で言った。
「お嬢さん、お風呂の用意ができたのでまずは体を洗い流しましょう。そのあと温かいご飯を食べて、心と体を休ませて、それから考えましょう」
新野の提案にこくりと頷いた。頭の中で色々と考えすぎてもう脳は考えることを放棄していた。とりあえず新野はすごく労ってくれていて、自分はその良心に甘えている。今真白の頭で考えられるのはそれだけだった。
「私は食堂のおばちゃんに頼んで食事を持ってきますから、伊作くん。彼女をお風呂場へ案内してあげて」
「はい。…こちらへ」
ゆっくりと顔を上げると伊作が目の前に手を差し出していた。真白は一瞬固まるも、おそるおそる彼の手のひらに自分のを重ねる。そのままぐいと引っ張り、真白が起き上がるのを手伝ってくれる。久しぶりに立ち上がったので上手く立てずによろめく。瞬時に伊作が腕を掴んで支えてくれた。感謝の意を込めて礼をすると「これくらいどうってことないですよ」と彼は笑った。掴んだ腕をするりと手へ戻すと、一歩一歩ゆっくりと歩き始める。繋いだ手がじんわりと温かくなるのを感じながら、初めて見る外の景色に目を奪われる。部屋を出ると目の前は外で、入口には『保健室』と書いてあった。この学園はかなり古い建物なのだろうか、なんてちらちら周りを確認する。
「この時間はみんな授業を受けているので誰かと鉢合わせることはないですよ」
人がいないか確認していると思った伊作がそう言った。突然話しかけられたことに驚いてこくこくと相槌を打つ。ふと授業と言う言葉に疑問を持つ。彼は若いので生徒だと思っていたが授業じゃないのだろうか。真白の表情に伊作は「ああ」と声を出して彼女の疑問に答える。
「僕は六年生なんですけど、今日は六年生全員お休みの日なので授業がないんです」
彼の返答に、折角の休日に私の相手をすることになったなんて申し訳ないなと思いつつ、六年生という単語に引っかかる。私より背が高くて手もがっしりとした男の人の手なのに小学六年生?最近の子どもの成長は早いのか、はたまた何か盛大な勘違いをしているのか。徐々に戻りつつある頭でぐるぐる考えたが、やっぱり思考を放棄した。
「こちらが女性の先生に用意していただいた着替えです。僕たちのことは気にせず、ゆっくり入ってください」
そう言って伊作に珊瑚色の着物を渡される。こくりと頷いて彼を見送ったあと、ようやく一人になった安堵でほっと息をつく。知らない場所で裸になるのも気が引けるが、今はそんなこと言ってられないくらい汗が肌に張り付いていた。
お風呂が木材で出来ていて、何度思ったかもう覚えていないが古い建物だな…と思った。木の匂いがすんと鼻を掠めてとても落ち着く香りだった。
とりあえず髪と体をしっかり洗う。三日もお風呂に入らなかったのは初めてで、二人とも何も言わないでいてくれたが臭かったかもしれない。そう思うと段々恥ずかしくなってきて、一層力を入れて体を洗った。
ゆっくりと湯船に浸かると今までの疲労が癒されるように温もりが体中に染み渡った。ようやく考える力が戻ってきて、冷静に今までの状況を顧みる。私はとても優しい方々に助けてもらった。早く両親に連絡しようにも声が出なくて、そして彼らは電話を知らない。冷静に思い返してもやはり意味が分からない。建物も筆も知識も、全てが昔みたいだ。何だかタイムスリップしてきたみたいな。そんなわけないと分かっていながらも辻褄が合うこの考えが妙に頭に残る。考えるうちに、ぶくぶくと口元までお湯に浸かっていた。
もし…もし本当にタイムスリップしていて、元の時代に帰ることが出来なかったら私はどうするのだろう。
きっと……自死を選んでしまう。
最悪のことを考える癖は抜けてなくて、真白は自嘲気味に笑った。
