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グロキシニア 🎐🍒

暑い夏が終わって涼しい風が吹き始めた日、その日がサーカス団が私の町にやってきた、私にとっての運命を変えた日だった



「ねー、夏鈴、楽しんでる?!」

「えー、すーごくたのしー」

「そのリアクション、嘘すぎるって笑」


インドアな私を、近場にやってきた移動式サーカス団まで友達が連れ出してくれた

たしかにライオンの火縄くぐりだったり、剣を飲み込むビックリ人間だったり、非日常は煌びやかで楽しかった

でも、どこか無理をしているような、そんな姿が頭にこびりついていた



「ここ、どこだろ」


そんなことを考えながら、ぼーっとしていたら友達とはぐれてしまった

何となく入っていった場所、そこは真っ暗な会場だったけれど観客でいっぱいだった



「さあさあ、お集まりの紳士淑女諸君!今宵お披露目するは絶世の美女、レナ!拍手でお出迎えください!」


パッとステージにライトが照らされると小太りなおじさんが意気揚々とアナウンスを始めた


そして現れた女性の顔立ちは、余分を一切削ぎ落とした彫刻のように端正であった。


触れれば指先まで温もりが伝わるような柔らかさを宿した白。その肌は、季節や空気の気配さえ映し込んでしまうほど繊細で、ひと目で儚さと気品の両方が伝わった。



ライトアップされたステージで彼女は妖艶に踊り始めた


周りの観客は興奮した様子で声をあげていたけど、私は目を奪われて一声も出すことができなかった


彼女の踊りが終わる瞬間、ドレスに付いていた金の宝飾品が私の足元までとんできた


宝飾品を拾い上げて、私はしばらくその小さな輝きを手のひらにのせて見つめていた。

観客席のざわめきは遠く、耳の奥で何かが水の底に沈むような感覚だけが残っていた。


「これ……届けなきゃ」


気づけば、私は客席を抜け出していた。
誰に頼まれたわけでもない。ただ、あの人の手に戻さなくてはならない気がした。







楽屋口らしき通路に足を踏み入れると、途端に人の気配と熱気に包まれる。
狭い通路、衣装を抱えて走る団員、遠くから聞こえる団長の怒鳴り声。
私は舞台裏の雑踏にすっかり迷い込んでしまった。


「……どっち?」


小さな金の装飾品を握りしめたまま、立ち止まる。
そのとき、不意に鼻先をくすぐる匂いがあった。


チョコレート。


ありふれた甘さなのに、この場所ではやけに異質で、救われるように柔らかな香りだった。
無意識に、私はその匂いを辿って足を進めていた。



細い扉を開けると、そこには小さな部屋が広がっていた。
裸電球がひとつぶら下がり、簡素なテーブルに白い箱。
そして、その前に座っている彼女。



先ほどまで光の中で踊っていた絶世の美女は、今は舞台の衣装を脱ぎかけ、淡い布に身を包んでいた。
長い睫毛が影を落とし、頬に触れる髪がわずかに揺れる。
彼女の指先にはチョコレートの欠片がひとつ。
それを口に運ぶ直前、扉を開けた私に気づいて目を上げた。


その瞳に射抜かれ、息が止まった。



「……あなた、だあれ?」


低くも柔らかい声。
警戒と興味が一緒くたになった響き。


「あ、あのっ……藤吉夏鈴っていいます」
私は慌てて手を差し出した。
「さっき……舞台で落としましたよね?これ」


金の宝飾品が、私の掌から彼女の指先へと移った。
触れた一瞬、微かな熱が伝わる。


彼女は、それをじっと見つめた。
そして、ようやく小さく口元をほころばせる。


「……わざわざ、ありがとう」


それはほんの一言。
けれど、舞台で見せていた妖艶な微笑みとはまるで違う、あまりにも人間らしい、かすかな安堵を含んだ微笑みだった。


私の胸の奥に、その表情が焼き付いた。
たった今、運命が変わってしまったことを、私ははっきりと悟った。


宝飾品を掌にのせると、ふと机の上の小箱に手を伸ばした。
白い指先が差し出してきたのは、小さなチョコレート。


「……これ、ささやかだけどお礼」


驚いて固まる私に、彼女はかすかに笑った。

「大丈夫だよ。ここでは甘いものなんて、誰も気にかけてくれないから」



受け取ったチョコはほんのひとかけらだったのに、不思議と胸の奥まで温かさが広がった。


「ありがとうございます……!」

私は思わず声を弾ませる。

「じゃあ、今度は私がお返しを持ってきます。近所にすごく美味しいパン屋さんがあって……きっと、チョコレートにも負けないくらい甘くて幸せな味なんです」


そう言って笑うと、彼女は一瞬目を見張った。
それからゆっくりとまぶたを伏せ、小さく首をかしげる。


「……変わってるね。どうして、そこまでしてくれるの?」

「え?」

「普通は、また来るなんて言わないよ?」

彼女の言葉には、微かな自嘲が混じっていた。
でも私は、胸の奥から自然に言葉がこぼれていた。


「だって……あなた、すごく寂しそうだったから」


沈黙が落ちた。
裸電球の光が、彼女の横顔を柔らかく縁取る。
彼女は視線をそらさず、ただじっと私を見つめていた。


やがて、小さな吐息とともに微笑む。
それは舞台の仮面ではなく、誰にも見せたことのない素顔の笑みだった。



「……パン、楽しみにしてる」



その瞬間、レナの瞳にほんの少し光が宿ったのを、私は見逃さなかった。




サーカスの出入り口。昼下がりの人混みの合間を縫って、藤吉夏鈴は小さな紙袋を抱えてやってきた。中には、近所のパン屋で焼かれた、まだほんのりと温かいクロワッサン。




見張りの団員に一瞬止められたが、「お礼を渡したいだけです」と拙い言葉で伝え、しばし迷った末に許される。

薄暗い廊下を進んだ先で、彼女の部屋の扉をノックする。


「どなた?」
扉越しの低い声。


「この前のお礼です。ほら、チョコレート、いただいたから」
緊張しながら紙袋を差し出す。


少しして扉が開き、彼女が姿を現す。薄いメイクに疲れの影が見えるが、驚きの色も混じっていた。


「……わざわざ、これを?」
「はい。すごく美味しいパンなんです。甘いのも入ってます」


彼女は一瞬、視線を伏せる。
「そんなこと、しなくてもいいのに」


「したいんです。お返しじゃなくて……食べてほしいだけで」


唇がわずかに震える。見返りを求めない言葉。
受け取ると、ほんの一口だけパンをちぎり、静かに噛んだ。
「……温かい」
その呟きは、パンの温もりだけを指すものではなかった。







それから数日。夏鈴は、何の理由もなく彼女の部屋を訪れた。手にしているのはパンでもチョコでもなく、ただ小さなノート。


「また……来たの?」
少し呆れたように、けれどはにかみながらレナが言う。


「はい。今日はただ、話したくて」


レナが眉をひそめる。
「話すことなんて……」
「じゃあ、私が話します。今日見た空とか、パン屋さんの新作とか。そういうの、聞いてくれるだけでいいから」


ぽかんとした表情でレナは私を見つめていた。


「もしよければ、好きなものとか、嫌いなものとか……少しずつ教えてください」

「……私は、怖がりなの」
レナは吐き出すように言った。
「ここから出たいとも思えないくらい、弱い」



夏鈴は静かに首を横に振った。
「弱いなんて思いません。だって、こうして話してくれてるじゃないですか。それだけで、私にはすごいことに思えます」


彼女はふっと微笑む。
「……夏鈴ちゃんは、不思議な人だね」
「よく言われます」
「そっか。でも、少しだけ、もう少しだけ、来てもいいよ」



その言葉に、夏鈴の瞳がぱっと明るくなる。
守屋は胸の奥で戸惑いながらも、その光に少しずつ惹かれていった。


______


夕暮れのサーカス小屋の裏口。
気がつけば、手に小さな花束を抱えて立っていた。野の花を束ねただけの、不格好だが温かな贈り物。


深呼吸して扉を叩くと、中からレナの声がする。
「……またあなた?」


扉が少しだけ開く。隙間から覗く守屋の目は、どこか疲れと警戒を帯びていた。


「はい。今日は……これを」
夏鈴はそっと花束を差し出した。
「きれいだったから。レナさんに、似合うと思って」


守屋の瞳が一瞬揺れる。だが、その揺れをすぐに押し殺すように、冷たい声が返る。
「……やめて」


「え?」


「花なんて、私には似合わない。持ってこないで」



「でも……ただ、喜んでほしくて」



彼女は視線を逸らした。
「あなたと私は、生きる世界が違うの。観客と、舞台の人間。……それ以上になんて、なれるわけない」



言葉を切ると、彼女は扉を閉めた。
カチリ、と内側から鍵の音がする。



私は花束を抱いたまま、しばらく動けなかった。
胸の奥で熱いものがこみあげて、けれど涙にはならず、ただ静かな痛みだけが広がっていく。







数日後。
友人が噂話のように話しかけてきた。

「ねえ、夏鈴ちゃん。あのサーカス団、もうすぐこの街を出るんだって」


「……え?」
夏鈴の足が止まる。


「次の興行先が決まったらしいよ。昨日の夜、荷物を積んでるのを見た人がいるって」


心臓が跳ねる。
まるで扉を閉められたあの瞬間が、永遠の別れを意味していたかのように思えて、息が詰まった。



友人は無邪気に笑う。
「ほら、また来年くらいには戻ってくるかもね」



私は笑い返せなかった。
胸に残されたのは、突っぱねられた言葉と、まだ手に残る花の感触。
――このまま、何も言えずに終わってしまうの?



その問いが、夏鈴の胸の奥で静かに燃え始めていた。


その夜、町は静けさに包まれていた。
サーカスのテントは灯りを落とし、団員たちは寝静まっている。


私は倉庫で見つけた小さな火薬玉を強く握りしめていた。
――これを使えば、大砲を撃ち鳴らすことができる。
危ないことはわかっている。それでも、何もしなければ彼女はこの街から消えてしまう。


(もう二度と会えなくなるくらいなら、たとえ無茶でも……)


心臓が痛いほど打ち、息が荒くなる。
夏鈴は大砲に火をつけた。



――ドォォォンッ!!



耳をつんざく轟音が夜空を切り裂く。


町中に響きわたり、テントの中はたちまち混乱に包まれた。

「火事か!?」「何が起きた!?」

団員たちが慌てふためき、走り回る。


その混乱の中、私はがむしゃらに走った。
迷わず、ただ一つの部屋を目指して――レナさんのいる場所へ。






扉を乱暴に開け放つと、レナさんはベッドの上で驚いた表情を浮かべていた。
「……夏鈴ちゃん?」


荒い息のまま彼女に駆け寄った。
「時間がない。……一緒に来て!」



麗奈は目を見開き、首を振る。
「だめ……私なんて、どこにも行けない。この世界以外じゃ生きられないの」


夏鈴は彼女の肩を強く掴んだ。


「違う!あなたは囚われてるだけだよ。居場所なんて、ここじゃなくてもいい」


彼女の瞳が揺れる。


「でも……私には何もない」


その言葉に、夏鈴は息をのみ、そして力強く言った。



「――私が、あなたにとって輝ける場所になるから」



レナちゃんの唇が震えた。
初めて、その瞳が涙で濡れる。


外からはまだ団員たちの叫び声が響く。
夏鈴はその手を取り、強く握った。


「だから、一緒に行こう。もうここに縛られないで」


麗奈は一瞬ためらった。だが次の瞬間、その手を握り返す。
「……お願い、連れて行って」








二人は夜の闇へ駆け出した。
背後では団員たちが混乱している声が響く。
けれど夏鈴の耳にはもう届かなかった。


手の中にある温もりだけが現実だった。
――ようやく掴んだ、彼女の心。



走りながら、麗奈が小さくつぶやく。
「私、本当に……行っていいの?」



「行くんだよ。だって……あなたはもう、私の光だから」



夜風が二人の髪をなびかせ、街の明かりが遠くに瞬いていた。
新しい世界への始まりを告げるように。
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