本田菊(日)
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夕方の台所には、穏やかな時間が流れていた。
窓の外は少しずつ薄暗くなり始めていて、橙色の光が室内へ細く差し込んでいる。コンロの上では鍋がことことと音を立て、湯気と一緒に出汁の香りが漂っていた。菊はその鍋を覗き込みながら、菜箸で中身を軽く混ぜている。
今日は和食にするつもりだった。下ごしらえはほとんど終わっていて、あとは煮込みながら味を整えればいい。そんなことを考えながら、菊は小さく息を吐いた。
「……もう少しですね」
誰に言うでもなく呟き、火加減を調整する。その直後だった。背中に、ふわりと温かな感触が重なった。
「……え?」
突然、腰のあたりへ腕が回される。菊の身体がぴたりと止まった。驚いて目を瞬かせ、それから背後へ視線だけを向けようとする。しかし、振り返るより先に、背中へ伝わってくる体温で誰なのか分かってしまった。
「……どうされたんですか?」
菊の声には驚きが残っていたものの、嫌がっている様子はない。むしろ、少しだけ困ったように眉を下げている。ナマエは何も答えず、そのまま菊を抱きしめていた。
菊は手元の菜箸へ視線を落とす。料理の途中である。しかも、手にはまだ調理器具を持ったままだ。
「今、料理をしていますから……」
そう言って、菊は菜箸を置こうとする。しかし、背中から抱きしめられているせいで、いつもより動きづらい。それでも慌てることなく、まず鍋の火を弱め、それから菜箸を安全な場所へ置いた。
これなら少しくらいなら大丈夫だろう。そう思ったところで、腰に回された腕が少しだけ強くなる。菊は思わず小さく息を吐いた。
「……まだ離していただけませんか?」
問いかけながら、口元にはかすかな笑みが浮かんでいる。もちろん返事はない。代わりに、さらにぴったりと寄り添われる。
「……困りましたね」
そう呟くものの、本当に困っているわけではなさそうだった。菊はしばらくそのまま立っていたが、やがてゆっくりと身体を横へ向ける。
「料理が冷めてしまいますよ?」
少しだけ振り返って、穏やかな声で言う。それでもナマエは離れない。菊は一度だけ瞬きをすると、諦めたように小さく笑った。
「……仕方ありませんね」
鍋の様子を最後に確認してから火を止める。そして、ようやく完全に振り返った。目の前に立ったナマエと視線が重なる。先ほどまで背中から抱きつかれていたせいか、菊の頬はほんのり赤くなっていた。
けれど、今度は逃げるようなことはしなかった。菊は少しだけ視線を逸らしたあと、ゆっくりと両腕を広げる。
「……こちらへ」
その一言に促されるように、ナマエが一歩近づく。菊はその身体を正面からそっと抱きしめた。背中へ腕を回し、肩へもう片方の手を添える。最初は少しぎこちなかった手つきも、しばらくすると自然なものへ変わっていった。
「これなら……いいでしょう?」
照れを隠すように、菊は小さく笑う。けれど、腕は解かない。ナマエが嬉しそうにすると、その表情を見た菊の頬がさらに赤くなった。
「そんなに嬉しそうにされると……恥ずかしいのですが」
そう言いながら、視線だけをそっと逸らす。それでも離れる気配はなかった。むしろ、ナマエが安心したように身体を預けると、菊はその重みを受け止めるように姿勢を少し変えた。
背中へ回した手が、ゆっくりと動く。ぽん、と優しく背中を撫でる。それからもう一度、落ち着かせるようにゆっくりと撫でる。
「……こうしていると、落ち着きますね」
ぽつりと零した声は、先ほどよりずっと柔らかかった。台所には鍋の余熱が残っている。
窓の外からは、夕方の街の音がかすかに聞こえてくる。そんな中で、菊は腕の中の相手を静かに見つめた。普段なら照れてしまって、こんなに長く抱きしめていることなどできない。けれど今日は、不思議と離れたいとは思わなかった。
「……もう少しだけ、このままでいてもいいですか?」
今度は菊のほうから尋ねる。ナマエが頷くと、菊は安心したように目元を緩めた。
「ありがとうございます」
そう言って、改めて相手を抱き寄せる。ぎゅっと強くするのではなく、大切に包み込むような抱き方だった。肩に触れていた手が背中へ移り、ゆっくりとその背を撫でる。何度か繰り返しているうちに、菊自身の表情もだんだん穏やかになっていった。
「……なんだか、料理をしていたことを忘れてしまいそうですね」
少し困ったように笑う。けれど、その声には嬉しさが混じっている。
「夕食が少しくらい遅くなっても……まあ、大丈夫でしょう」
そう言ってから、菊は一度だけ台所へ目を向けた。途中まで作っていた料理。置きっぱなしになった菜箸。火を止めた鍋。
どれも後でどうにでもできるものだ。菊は小さく笑って、再び腕の中へ視線を戻した。
「……ですから、もう少しだけ」
今度は照れながらも、しっかりと言葉にする。
「このままでいましょうか」
返事を聞いた菊は、安心したように微笑んだ。そして、もう一度ゆっくりと抱きしめる。夕暮れの光が少しずつ薄れていく中、二人はしばらくそのままでいた。
料理の途中から始まった、ほんの些細な寄り道。けれど菊にとっては、それもまた、いつもの日常の中にある大切な時間だった。
窓の外は少しずつ薄暗くなり始めていて、橙色の光が室内へ細く差し込んでいる。コンロの上では鍋がことことと音を立て、湯気と一緒に出汁の香りが漂っていた。菊はその鍋を覗き込みながら、菜箸で中身を軽く混ぜている。
今日は和食にするつもりだった。下ごしらえはほとんど終わっていて、あとは煮込みながら味を整えればいい。そんなことを考えながら、菊は小さく息を吐いた。
「……もう少しですね」
誰に言うでもなく呟き、火加減を調整する。その直後だった。背中に、ふわりと温かな感触が重なった。
「……え?」
突然、腰のあたりへ腕が回される。菊の身体がぴたりと止まった。驚いて目を瞬かせ、それから背後へ視線だけを向けようとする。しかし、振り返るより先に、背中へ伝わってくる体温で誰なのか分かってしまった。
「……どうされたんですか?」
菊の声には驚きが残っていたものの、嫌がっている様子はない。むしろ、少しだけ困ったように眉を下げている。ナマエは何も答えず、そのまま菊を抱きしめていた。
菊は手元の菜箸へ視線を落とす。料理の途中である。しかも、手にはまだ調理器具を持ったままだ。
「今、料理をしていますから……」
そう言って、菊は菜箸を置こうとする。しかし、背中から抱きしめられているせいで、いつもより動きづらい。それでも慌てることなく、まず鍋の火を弱め、それから菜箸を安全な場所へ置いた。
これなら少しくらいなら大丈夫だろう。そう思ったところで、腰に回された腕が少しだけ強くなる。菊は思わず小さく息を吐いた。
「……まだ離していただけませんか?」
問いかけながら、口元にはかすかな笑みが浮かんでいる。もちろん返事はない。代わりに、さらにぴったりと寄り添われる。
「……困りましたね」
そう呟くものの、本当に困っているわけではなさそうだった。菊はしばらくそのまま立っていたが、やがてゆっくりと身体を横へ向ける。
「料理が冷めてしまいますよ?」
少しだけ振り返って、穏やかな声で言う。それでもナマエは離れない。菊は一度だけ瞬きをすると、諦めたように小さく笑った。
「……仕方ありませんね」
鍋の様子を最後に確認してから火を止める。そして、ようやく完全に振り返った。目の前に立ったナマエと視線が重なる。先ほどまで背中から抱きつかれていたせいか、菊の頬はほんのり赤くなっていた。
けれど、今度は逃げるようなことはしなかった。菊は少しだけ視線を逸らしたあと、ゆっくりと両腕を広げる。
「……こちらへ」
その一言に促されるように、ナマエが一歩近づく。菊はその身体を正面からそっと抱きしめた。背中へ腕を回し、肩へもう片方の手を添える。最初は少しぎこちなかった手つきも、しばらくすると自然なものへ変わっていった。
「これなら……いいでしょう?」
照れを隠すように、菊は小さく笑う。けれど、腕は解かない。ナマエが嬉しそうにすると、その表情を見た菊の頬がさらに赤くなった。
「そんなに嬉しそうにされると……恥ずかしいのですが」
そう言いながら、視線だけをそっと逸らす。それでも離れる気配はなかった。むしろ、ナマエが安心したように身体を預けると、菊はその重みを受け止めるように姿勢を少し変えた。
背中へ回した手が、ゆっくりと動く。ぽん、と優しく背中を撫でる。それからもう一度、落ち着かせるようにゆっくりと撫でる。
「……こうしていると、落ち着きますね」
ぽつりと零した声は、先ほどよりずっと柔らかかった。台所には鍋の余熱が残っている。
窓の外からは、夕方の街の音がかすかに聞こえてくる。そんな中で、菊は腕の中の相手を静かに見つめた。普段なら照れてしまって、こんなに長く抱きしめていることなどできない。けれど今日は、不思議と離れたいとは思わなかった。
「……もう少しだけ、このままでいてもいいですか?」
今度は菊のほうから尋ねる。ナマエが頷くと、菊は安心したように目元を緩めた。
「ありがとうございます」
そう言って、改めて相手を抱き寄せる。ぎゅっと強くするのではなく、大切に包み込むような抱き方だった。肩に触れていた手が背中へ移り、ゆっくりとその背を撫でる。何度か繰り返しているうちに、菊自身の表情もだんだん穏やかになっていった。
「……なんだか、料理をしていたことを忘れてしまいそうですね」
少し困ったように笑う。けれど、その声には嬉しさが混じっている。
「夕食が少しくらい遅くなっても……まあ、大丈夫でしょう」
そう言ってから、菊は一度だけ台所へ目を向けた。途中まで作っていた料理。置きっぱなしになった菜箸。火を止めた鍋。
どれも後でどうにでもできるものだ。菊は小さく笑って、再び腕の中へ視線を戻した。
「……ですから、もう少しだけ」
今度は照れながらも、しっかりと言葉にする。
「このままでいましょうか」
返事を聞いた菊は、安心したように微笑んだ。そして、もう一度ゆっくりと抱きしめる。夕暮れの光が少しずつ薄れていく中、二人はしばらくそのままでいた。
料理の途中から始まった、ほんの些細な寄り道。けれど菊にとっては、それもまた、いつもの日常の中にある大切な時間だった。
