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神武天皇の東征が終わったあとも、日本という国の形は、まだ定まってはいなかった。朝廷が生まれ、豪族が力を持ち、やがて貴族が政治を動かし、そして武士が台頭する。
時代が変わるたびに、この国の「顔」もまた変わっていった。その変化に合わせるように、ナマエと菊の立場も、何度も入れ替わっていった。兄と妹。同じ国に、国として生きる二人であることだけは変わらない。けれど、仕える相手も、守るものも、時には、立っている場所さえも、変わっていった。
⸻
神武東征が終わり、大和の地に新たな王権が築かれていく。それは、日本という国の形が少しずつ定まっていく時代だった。そして同時に――ナマエと菊の兄妹関係も、少しずつ変わっていった。
幼い頃のナマエは、菊のことを「おにいちゃん」と呼んでいた。まだ国というものの形すら曖昧だった頃。二人にとって、相手はただ一人の兄と妹だった。
やがてナマエは「おにいさん」と呼ぶようになった。子供ではなくなり、それぞれが一つの土地や人々を背負うようになったからだ。それでも、まだ二人の距離は近かった。
だが――神武東征が、その関係を大きく変えた。
ナマエは神武天皇に仕え、東征軍の先導や偵察、戦場での支援を担った。一方の菊は、長髄彦のもとで東側の人々を守った。二人は望んで敵になったわけではない。それぞれの「上司」が違う道を選び、それぞれの民がその道を選んだからだ。
だからこそ、二人は戦場で互いを見ても憎むことができなかった。
「……おにいさん」
戦場でそう呼んだ最後の日。菊は、少しだけ寂しそうに笑った。
「……はい。私はあなたのお兄さんですよ」
その言葉を最後に、二人の立場は完全に分かれた。そして神武天皇による東征が終わり、大和王権が形作られていく。ナマエは、そこで初めて自分が「国を支える者」であることを強く自覚する。神武天皇という「上司」に仕え、その後も皇統と朝廷を守る側に立つようになった。
その頃からだった。ナマエが、菊を「お兄様」と呼ぶようになったのは。それは単なる敬称ではない。兄妹としての親しさを捨てたわけでもない。
むしろ――。
あの東征を経験したからこそ、以前のように無邪気に「おにいちゃん」と呼ぶことができなくなったのだ。それでも兄妹であることだけは変わらない。だから、
「お兄様」
と呼んだ。
以後、その呼び方は二人の間に残り続けることになる。
⸻
奈良――朝廷の時代。大和朝廷が整えられていくにつれ、ナマエは、次第に朝廷や皇統と深く結びついていった。律令という新しい仕組みが整えられ、都が置かれ、天皇を中心とした政治の形が作られていく。
ナマエは、宮廷に仕える者として。そしてこの国そのものを象徴する存在として、人々の前に立つようになった。
一方菊は、表舞台からは少し離れた。けれど消えたわけではない。地方には地方の人々がいる。豪族がいる。土地を守る者がいる。菊は、そうした人々の営みに寄り添うようになっていった。まるで妹の補佐をするかのように、中央ではないもの、治世の影に埋もれる存在を助く存在になったのである。
⸻
平安――貴族と武士。時代が進む。都では貴族たちが華やかな文化を築いていた。ナマエは、その中心にいた。宮廷、天皇、貴族、儀礼、文化……。彼女の世界は美しく、静かだった。
けれどその一方で、地方では武士が力をつけていた。土地を守るため、戦うため、人々をまとめるため。武士という新しい勢力が生まれていく。
そしてその側には菊がいた。菊は武士たちの考え方を理解していった。力だけではない。土地、主従、家、忠義。そして生き残るための現実的な判断。
「……時代が変わりますね」
ある日、菊が言った。ナマエは、洛中の邸宅の庭を眺めながら答えた。
「そうですね」
「少し、寂しくありませんか?」
「……ええ」
ナマエは微笑んだ。
「でも、時代が変わることを止めることはできませんから」
二人は自覚とともにそれぞれの時代を受け入れていった。
⸻
鎌倉――武士の世。やがて、武士の力が朝廷を上回るようになる。もっとも当初、時の権力者、後白河法皇は平家を重用していた。しかし権力を持ちすぎたために、朝廷にとっても邪魔になった平家を疎ましく思っていたのも後白河法皇その人である。後白河法皇の息子によって、平家追討令旨が綸旨される。源氏と平氏。争いの末に鎌倉に武家政権が成立する。
ここで、二人の立場は変化していった。変わらずナマエは朝廷側、菊は武士の側。もちろん二人とも泰平の世を求めていたし、二人とも天皇という存在を守護する意識はあった。ただその手段が異なっていただけ。
源氏の台頭。そして鎌倉幕府。武家政権の中で、武家側についている菊の存在感が増していく。
「お兄様」
「何でしょう」
「……随分、偉くなりましたね」
「それはナマエもでしょう」
「私は、昔からこちら側ですから」
「私も昔から、こちら側ですよ」
二人は顔を見合わせた。彼らの表情には昔とは違った意志が宿っている。ただの家族ではなく、国そのものであるという自負と強い宿命を帯びた瞳で二人は目線を交わす。
「……では」
「はい」
「また別々ですね」
「そうなりますね」
どこか寂しそうに二人は笑った。
⸻
室町――鎌倉幕府が滅び、建武の新政が始まる。ナマエは、後醍醐天皇の側に立った。天皇親政、朝廷の力を取り戻そうとする動き。それはナマエにとって、神武天皇の時代から自分が守ってきたもの、そのものだった。
けれど、その前に立ちはだかったのが足利尊氏。そしてその側に立つ菊だった。
「……お兄様」
「……ナマエ」
二人はまた向かい合った。けれど、この時の二人は東征の時とは違っていた。互いの立場を理解してしまっている。
「あなたは、あくまで天皇を守るのですね」
「はい。それが私の生きる道ですから」
「私は、和平のために武士を守ります」
「……分かっています」
「ならば」
「ええ」
二人はそれ以上言わなかった。南北朝の動乱は兄妹の間にも大きな亀裂を残した。そして室町幕府が成立する。今まで妹がいた場所に、今度は兄の菊が。菊はこの国の中心に立つようになった。
⸻
戦国――乱世。日本は大きく乱れた。守護大名。戦国大名。寺社勢力。武士。さまざまな勢力が入り乱れる。都の朝廷は、次第に政治の中心から遠ざかっていった。それでもナマエは、朝廷の側を離れなかった。
「どうして、そこまで朝廷にこだわるのです?」
菊が尋ねる。ナマエはしばらく考えてから答えた。
「……東征の頃からです」
「東征?」
「私が最初に仕えた方が、天皇だったからです。あの時からずっと、ずっとお守りすると約束しましたから」
そして少しだけ笑った。
「私にとってはそれが当たり前なのですよ」
菊は、何も言わなかった。ただその気持ちを理解した。自分にも自分なりの「当たり前」があるからだ。
⸻
やがて織田信長、豊臣秀吉。そして徳川家康と続き、戦国の世を終わらせる者たちが現れた。天下統一が進み、江戸幕府が成立する。再び、日本は長い平和へ向かっていった。
⸻
江戸――兄の時代と言っても過言では無い。江戸時代。菊は完全に武家政権の側として国としての中心に立った。鎖国体制の長い平和は菊にとって、ようやく手に入れた安定だった。
一方、ナマエは京都にいた。朝廷の側に表立った政治権力はない。だけど、天皇のいる場所を守る。それが彼女の役割だった。二人は、長い長い時間の中で久しぶりに、同じ屋根の下で過ごすことも増えた。
「お兄様」
「何です?」
「また引きこもっているのですか?」
菊は布団にくるまり、新しく出たという曲亭馬琴の読本『南総里見八犬伝』を読んでいる。挿絵は葛飾北斎ということで、江戸の街では空前のブームであった。
「……私は忙しいのです」
「何をしているのです?」
「何もしていません」
「強いて言うなら読書はしていますが」と零す菊。
「それを引きこもっていると言うのでは?」
「……」
菊は黙った。ナマエは少し笑った。戦争ばかりだった時代より、ずっと穏やかだった。兄妹が兄妹として話せる時間が戻ってきた。
⸻
しかし悲しいかな、江戸の平和も永遠ではなかった。海の向こうから外国船が来る。異国の人々がやってくる。西洋の力が日本のすぐ近くまで迫ってくる。菊はそれを警戒した。
「開国など必要ありません。外様が入ってきたら、せっかく築いたこの泰平の世がまた乱れてしまう」
「本当に?」
ナマエは尋ねる。
「はい」
「でも外国はもうすぐそこまで来ています」
「だからこそ関わらない方がいいのです」
「……私はそうは思いません」
菊が振り返る。
「ナマエ?」
「知らないものを知らないままにするのは……少し怖いでしょう?」
「……」
「なら知ってしまえばいいのです」
菊は困ったように眉を下げた。
「あなたは昔から行動的ですね」
「お兄様が慎重すぎるのです」
「そうでしょうか」
「そうです」
二人はまた言い合った。それでもその声には昔のような温かさがあった。
⸻
そして一八五三年。黒船が来航する。日本に大きな衝撃が走った。幕府はついに外国との関係を本格的に考えざるを得なくなる。
そして一八五四年、日米和親条約が結ばれる。
日本は少しずつ、世界へ扉を開き始めた。その流れの中、イギリスもまた、日本との関係を求めていた。遠い島国、イギリス。彼もまた。日本へ向かっていた。
⸻
そして一八五四年、日英和親条約。日本とイギリスという二つの島国が、正式に関係を結ぶ。その外交の場に一人の日本人女性がいた。長い黒髪、穏やかな表情、鮮やかな打掛の和装。腰には小さな脇差。彼女の名はナマエ。三千年近い時を生きてきた。
この島国のもう一人の「日本」
そして、彼女の前には一人の英国紳士が立っていた。金色の髪、緑の瞳。どこか気難しそうな顔。礼儀正しい立ち振る舞い。名はアーサー・カークランド。遠い島国、イギリスそのものだった。
「……初めまして」
ナマエが頭を下げる。
「こちらこそ。お会いできて光栄です」
アーサーも礼を返す。二人はまだ知らなかった。この出会いがただの外交では終わらないことを。
――こうして。
三千年近い日本の歴史の先で、一人の日本と、一人の英国人の物語が。始まった。
時代が変わるたびに、この国の「顔」もまた変わっていった。その変化に合わせるように、ナマエと菊の立場も、何度も入れ替わっていった。兄と妹。同じ国に、国として生きる二人であることだけは変わらない。けれど、仕える相手も、守るものも、時には、立っている場所さえも、変わっていった。
⸻
神武東征が終わり、大和の地に新たな王権が築かれていく。それは、日本という国の形が少しずつ定まっていく時代だった。そして同時に――ナマエと菊の兄妹関係も、少しずつ変わっていった。
幼い頃のナマエは、菊のことを「おにいちゃん」と呼んでいた。まだ国というものの形すら曖昧だった頃。二人にとって、相手はただ一人の兄と妹だった。
やがてナマエは「おにいさん」と呼ぶようになった。子供ではなくなり、それぞれが一つの土地や人々を背負うようになったからだ。それでも、まだ二人の距離は近かった。
だが――神武東征が、その関係を大きく変えた。
ナマエは神武天皇に仕え、東征軍の先導や偵察、戦場での支援を担った。一方の菊は、長髄彦のもとで東側の人々を守った。二人は望んで敵になったわけではない。それぞれの「上司」が違う道を選び、それぞれの民がその道を選んだからだ。
だからこそ、二人は戦場で互いを見ても憎むことができなかった。
「……おにいさん」
戦場でそう呼んだ最後の日。菊は、少しだけ寂しそうに笑った。
「……はい。私はあなたのお兄さんですよ」
その言葉を最後に、二人の立場は完全に分かれた。そして神武天皇による東征が終わり、大和王権が形作られていく。ナマエは、そこで初めて自分が「国を支える者」であることを強く自覚する。神武天皇という「上司」に仕え、その後も皇統と朝廷を守る側に立つようになった。
その頃からだった。ナマエが、菊を「お兄様」と呼ぶようになったのは。それは単なる敬称ではない。兄妹としての親しさを捨てたわけでもない。
むしろ――。
あの東征を経験したからこそ、以前のように無邪気に「おにいちゃん」と呼ぶことができなくなったのだ。それでも兄妹であることだけは変わらない。だから、
「お兄様」
と呼んだ。
以後、その呼び方は二人の間に残り続けることになる。
⸻
奈良――朝廷の時代。大和朝廷が整えられていくにつれ、ナマエは、次第に朝廷や皇統と深く結びついていった。律令という新しい仕組みが整えられ、都が置かれ、天皇を中心とした政治の形が作られていく。
ナマエは、宮廷に仕える者として。そしてこの国そのものを象徴する存在として、人々の前に立つようになった。
一方菊は、表舞台からは少し離れた。けれど消えたわけではない。地方には地方の人々がいる。豪族がいる。土地を守る者がいる。菊は、そうした人々の営みに寄り添うようになっていった。まるで妹の補佐をするかのように、中央ではないもの、治世の影に埋もれる存在を助く存在になったのである。
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平安――貴族と武士。時代が進む。都では貴族たちが華やかな文化を築いていた。ナマエは、その中心にいた。宮廷、天皇、貴族、儀礼、文化……。彼女の世界は美しく、静かだった。
けれどその一方で、地方では武士が力をつけていた。土地を守るため、戦うため、人々をまとめるため。武士という新しい勢力が生まれていく。
そしてその側には菊がいた。菊は武士たちの考え方を理解していった。力だけではない。土地、主従、家、忠義。そして生き残るための現実的な判断。
「……時代が変わりますね」
ある日、菊が言った。ナマエは、洛中の邸宅の庭を眺めながら答えた。
「そうですね」
「少し、寂しくありませんか?」
「……ええ」
ナマエは微笑んだ。
「でも、時代が変わることを止めることはできませんから」
二人は自覚とともにそれぞれの時代を受け入れていった。
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鎌倉――武士の世。やがて、武士の力が朝廷を上回るようになる。もっとも当初、時の権力者、後白河法皇は平家を重用していた。しかし権力を持ちすぎたために、朝廷にとっても邪魔になった平家を疎ましく思っていたのも後白河法皇その人である。後白河法皇の息子によって、平家追討令旨が綸旨される。源氏と平氏。争いの末に鎌倉に武家政権が成立する。
ここで、二人の立場は変化していった。変わらずナマエは朝廷側、菊は武士の側。もちろん二人とも泰平の世を求めていたし、二人とも天皇という存在を守護する意識はあった。ただその手段が異なっていただけ。
源氏の台頭。そして鎌倉幕府。武家政権の中で、武家側についている菊の存在感が増していく。
「お兄様」
「何でしょう」
「……随分、偉くなりましたね」
「それはナマエもでしょう」
「私は、昔からこちら側ですから」
「私も昔から、こちら側ですよ」
二人は顔を見合わせた。彼らの表情には昔とは違った意志が宿っている。ただの家族ではなく、国そのものであるという自負と強い宿命を帯びた瞳で二人は目線を交わす。
「……では」
「はい」
「また別々ですね」
「そうなりますね」
どこか寂しそうに二人は笑った。
⸻
室町――鎌倉幕府が滅び、建武の新政が始まる。ナマエは、後醍醐天皇の側に立った。天皇親政、朝廷の力を取り戻そうとする動き。それはナマエにとって、神武天皇の時代から自分が守ってきたもの、そのものだった。
けれど、その前に立ちはだかったのが足利尊氏。そしてその側に立つ菊だった。
「……お兄様」
「……ナマエ」
二人はまた向かい合った。けれど、この時の二人は東征の時とは違っていた。互いの立場を理解してしまっている。
「あなたは、あくまで天皇を守るのですね」
「はい。それが私の生きる道ですから」
「私は、和平のために武士を守ります」
「……分かっています」
「ならば」
「ええ」
二人はそれ以上言わなかった。南北朝の動乱は兄妹の間にも大きな亀裂を残した。そして室町幕府が成立する。今まで妹がいた場所に、今度は兄の菊が。菊はこの国の中心に立つようになった。
⸻
戦国――乱世。日本は大きく乱れた。守護大名。戦国大名。寺社勢力。武士。さまざまな勢力が入り乱れる。都の朝廷は、次第に政治の中心から遠ざかっていった。それでもナマエは、朝廷の側を離れなかった。
「どうして、そこまで朝廷にこだわるのです?」
菊が尋ねる。ナマエはしばらく考えてから答えた。
「……東征の頃からです」
「東征?」
「私が最初に仕えた方が、天皇だったからです。あの時からずっと、ずっとお守りすると約束しましたから」
そして少しだけ笑った。
「私にとってはそれが当たり前なのですよ」
菊は、何も言わなかった。ただその気持ちを理解した。自分にも自分なりの「当たり前」があるからだ。
⸻
やがて織田信長、豊臣秀吉。そして徳川家康と続き、戦国の世を終わらせる者たちが現れた。天下統一が進み、江戸幕府が成立する。再び、日本は長い平和へ向かっていった。
⸻
江戸――兄の時代と言っても過言では無い。江戸時代。菊は完全に武家政権の側として国としての中心に立った。鎖国体制の長い平和は菊にとって、ようやく手に入れた安定だった。
一方、ナマエは京都にいた。朝廷の側に表立った政治権力はない。だけど、天皇のいる場所を守る。それが彼女の役割だった。二人は、長い長い時間の中で久しぶりに、同じ屋根の下で過ごすことも増えた。
「お兄様」
「何です?」
「また引きこもっているのですか?」
菊は布団にくるまり、新しく出たという曲亭馬琴の読本『南総里見八犬伝』を読んでいる。挿絵は葛飾北斎ということで、江戸の街では空前のブームであった。
「……私は忙しいのです」
「何をしているのです?」
「何もしていません」
「強いて言うなら読書はしていますが」と零す菊。
「それを引きこもっていると言うのでは?」
「……」
菊は黙った。ナマエは少し笑った。戦争ばかりだった時代より、ずっと穏やかだった。兄妹が兄妹として話せる時間が戻ってきた。
⸻
しかし悲しいかな、江戸の平和も永遠ではなかった。海の向こうから外国船が来る。異国の人々がやってくる。西洋の力が日本のすぐ近くまで迫ってくる。菊はそれを警戒した。
「開国など必要ありません。外様が入ってきたら、せっかく築いたこの泰平の世がまた乱れてしまう」
「本当に?」
ナマエは尋ねる。
「はい」
「でも外国はもうすぐそこまで来ています」
「だからこそ関わらない方がいいのです」
「……私はそうは思いません」
菊が振り返る。
「ナマエ?」
「知らないものを知らないままにするのは……少し怖いでしょう?」
「……」
「なら知ってしまえばいいのです」
菊は困ったように眉を下げた。
「あなたは昔から行動的ですね」
「お兄様が慎重すぎるのです」
「そうでしょうか」
「そうです」
二人はまた言い合った。それでもその声には昔のような温かさがあった。
⸻
そして一八五三年。黒船が来航する。日本に大きな衝撃が走った。幕府はついに外国との関係を本格的に考えざるを得なくなる。
そして一八五四年、日米和親条約が結ばれる。
日本は少しずつ、世界へ扉を開き始めた。その流れの中、イギリスもまた、日本との関係を求めていた。遠い島国、イギリス。彼もまた。日本へ向かっていた。
⸻
そして一八五四年、日英和親条約。日本とイギリスという二つの島国が、正式に関係を結ぶ。その外交の場に一人の日本人女性がいた。長い黒髪、穏やかな表情、鮮やかな打掛の和装。腰には小さな脇差。彼女の名はナマエ。三千年近い時を生きてきた。
この島国のもう一人の「日本」
そして、彼女の前には一人の英国紳士が立っていた。金色の髪、緑の瞳。どこか気難しそうな顔。礼儀正しい立ち振る舞い。名はアーサー・カークランド。遠い島国、イギリスそのものだった。
「……初めまして」
ナマエが頭を下げる。
「こちらこそ。お会いできて光栄です」
アーサーも礼を返す。二人はまだ知らなかった。この出会いがただの外交では終わらないことを。
――こうして。
三千年近い日本の歴史の先で、一人の日本と、一人の英国人の物語が。始まった。
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