箱庭
夢小説設定
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
それから、さらに長い年月が流れた。人々の暮らす土地は、少しずつ大きなまとまりを持つようになっていた。小さな集落。その集落を治める者。いくつもの土地を束ねる者。そして、その上に立つ者。
かつてはただ兄と妹として山野を駆け回っていた二人も。いつしか、人々からただの「兄」「妹」として見られることは少なくなっていた。ナマエには、ナマエを必要とする人々がいる。そして兄――菊にも、菊を必要とする人々がいる。二人はそれぞれの土地で、人々の営みを背負う存在になっていた。
それでも、兄妹であることだけは変わらなかった。
「おにいさん」
ナマエが呼ぶ。
「はい」
菊が答える。幼い頃の「おにいちゃん」から。少し大人びた「おにいさん」へ。それでも、その声には昔と変わらない親しみがあった。
――この時までは。
⸻
ある時、ナマエのもとへ、ひとつの知らせが届いた。
「日向を発つそうです」
「……日向を?」
「はい」
ナマエは静かに顔を上げた。話している者の口から出た名は、 神倭伊波礼毘古命 。後に神武天皇と呼ばれることになる人物だった。その兄、 五瀬命 五瀬命とともに、天下を治めるに相応しい土地を求めて、東へ向かう。それが、これから始まる大きな動きの始まりだった。ナマエも、その一行に加わった。
⸻
「東へ行くのですか?」
ナマエが尋ねる。神倭伊波礼毘古命は頷いた。
「この先に何があるのかはこの私にも分かりません」
「それでも?」
「それでもです」
ナマエは海の向こうを見た。
「この国々を、ひとつにまとめるおつもりなのでしょう?」
「そうです」
「……ならば、私はお供いたします」
神倭伊波礼毘古命は、しばらくナマエを見ていた。やがて、「頼りにしています」とそう言った。ナマエは一礼した。
「お任せください」
⸻
船旅は長かった。筑紫から安芸、吉備へ。土地を移るたびに、風景が変わる。言葉も少し違う。暮らしも違う。……人々が信じるものも違う。ナマエは、その一つ一つを見ていた。
そして時折、兄のことを思った。
――おにいさんは、どうしているだろう。
東には兄がいる。幼い頃からずっと一緒だった兄。今は別々の土地にいる兄。そのことを考えると、胸の奥が、ほんの少しだけ重くなった。
けれど、この時のナマエは、まだ知らなかった。これから向かう大和に、その兄がいることを。そして、自分たちが、互いに違う人々の側に立つことになることを。
⸻
やがて一行は、難波の方面へ入った。ここで大きな抵抗に遭う。大和へ入ろうとする一行を待っていたのは長髄彦 だった。その名を聞いた瞬間、ナマエは、息を呑んだ。
「……長髄彦」
知っている、その名を。東の地で大きな力を持つ人物。そして、その側に仕えている者の名も。
「……菊」
ナマエは、思わず呟いた。その声に神倭伊波礼毘古命が振り返る。
「知っているのですか?」
ナマエは答えなかった。ただ、遠くを見る。そこには確かに、見慣れた姿があった。黒い髪、静かな顔。長い年月を共に過ごしてきた。自分の兄。
「……おにいさん」
小さく呟く。向こうも、こちらに気づいた。菊の目が僅かに見開かれる。
「……ナマエ」
二人の間に、長い沈黙が落ちた。
⸻
菊は、長髄彦の側に立っていた。東の土地の人々は、自分たちの土地を守るために戦うことを選んだ。菊はその人々の側にいる。それが、自分の役目だった。
一方、ナマエは、神倭伊波礼毘古命の側にいる。それもまた、彼女自身が選んだ役目だった。兄妹だけど立っている場所が違う。それだけだった。どちらも自分の役目を捨てることはできない。
「……おにいさん」
ナマエが呼んだ。
菊は答える。
「ナマエ」
「どうして……」
そこまで言って、ナマエは口を閉じた。
「どうして、こちらへ来てくれなかったのですか」
そんな言葉は、兄に言うべきものではない。菊は少しだけ目を伏せた。
「それは、私の方が聞きたいですよ」
「……」
「なぜ、そちらにいるのです?」
「私は……」
ナマエは振り返る。自分が仕える人々を見る。そして「私を必要としてくださる方が、そちらにいるからです」と放った。菊は黙った。その答えを理解してしまった。自分もまったく同じだったから。
⸻
戦いが始まった。神武側は長髄彦の軍勢に阻まれる。さらに五瀬命が矢を受けて負傷する。五瀬命は、自分たちは日の神の子なのだから、太陽に向かって戦うべきではなかったのだと考えた。
そして東へ進むのではなく、紀伊へ回り込むことになる。ナマエは、その判断を聞いていた。
「……南へ」
そう東へ進むのではなく、紀伊へ海沿いに迂回する。兄の側を避けるように。けれど避ければ避けるほど、二人の道はやがて同じ場所へ近づいていく。
⸻
五瀬命は、その後、紀伊で亡くなる。ナマエは、静かにその場に立っていた。
「……兄上」
神倭伊波礼毘古命の表情は硬かった。
それでも、進まなければならない。ここで終わるわけにはいかない。一行は紀伊半島を南へ進み、やがて熊野へ至った。そこで大きな異変が起きる。一行の前に現れた大きな熊。その姿を見た直後、人々は次々と意識を失っていった。ナマエもまた、身体から力が抜けていくのを感じた。
「……これは……?」
視界が暗くなる。そして深い眠りへ落ちた。
⸻
その頃、熊野の地では、高倉下命 という人物がいた。
彼の夢に神々が現れ、建御雷神の剣を授けるよう命じた。高倉下命が目を覚ますと、倉の中にその剣があり、それを神武側へ差し出した。すると一行は目を覚ました。
ナマエが目を開けた時、そこには朝の光が差していた。
「……」
身体を起こす。
「皆様……」
周囲の人々も、少しずつ目を覚ましている。ナマエは、空を見上げた。そして、一羽の烏が飛んできた。八咫烏 。その先導によって、一行は熊野から大和へ向かう道を進んでいく。
⸻
道は果てしなく険しかった。山々を越える。深い森を抜ける。人々の中には疲れ果てて動けなくなる者もいた。ナマエも疲れていた。けれど足を止めることはしなかった。彼女は前を見る。その先に、大和がある。そして、兄がいる。
――まだ終わっていない。
⸻
やがて一行は大和へ入る。菟田。吉野。忍坂。磯城。さまざまな土地で神武側に従う者が現れる一方、抵抗する者もいた。そしてついに鳥見の地。そこで長髄彦と再び向き合う。
ナマエは、その姿を見た。
「……おにいさん」
菊も、ナマエを見る。
「……ナマエ」
二人とももう、幼い頃のようには笑えなかった。それでも、互いを見れば分かる。相手が何を考えているのか。何を守ろうとしているのか。何を捨てられないのか。長い年月を兄妹として生きてきたから。
だからこそ戦うことが、苦しかった。
⸻
神武側は苦戦する。その時、神武の弓に金色の鵄が止まった。その光によって敵が眩み、形勢が変わった。ナマエは、その光を見上げた。
眩しい。まるで天そのものが、神倭伊波礼毘古命の側に立ったかのようだった。
そして戦いの中で、大和の統治者であった 饒速日命 が神倭伊波礼毘古命を天神の子と認める。長髄彦は討たれ、饒速日命は神武側へ帰順する。
ナマエはその光景を見つめていた。そして、自分の兄を見た。菊はもう戦おうとはしなかった。もう戦えないというのが正しいのかもしれない。苛烈を極めた戦闘によって、菊は大きく傷ついていた。彼は地に座り込んだまま、ただ静かにナマエを見つめる。
「……終わったのですね」
ナマエが言う。菊は答えなかった。やがて「ええ」と答える。それだけだった。ナマエは目を伏せる。
「……おにいさん」
「何です?」
「私たち」
「はい」
「……また、一緒にいられますか?」
菊はすぐには答えなかった。そしていつもの穏やかな声で言った。
「兄妹なのですから」
ナマエの目に、ほんの少しだけ、涙が浮かんだ。
「……はい」
それ以上は何も言わなかった。
⸻
こうして神倭伊波礼毘古命は大和を平定し、畝傍山の東南、橿原の地に宮を造る。そしてその地で即位した。後世、その人物は初代・神武天皇と呼ばれることになる。
ナマエは、その日宮の外から、静かに空を見上げていた。ここから、新しい国が始まる。いや、正確にはずっと昔から続いてきた人々の営みが今、ひとつの大きな形を得ようとしている。その中心に、ナマエはいた。そして少し離れたところには兄がいた。
二人は同じ国に生きている。けれどまだ、同じ場所に立っているわけではない。この先、二人は何度も、同じ国の中で違う立場に立つことになる。
それでもナマエにとって、菊は兄だった。菊にとってナマエは妹だった。 それだけは神武天皇の東征が終わっても、その先も決して変わらなかった。
かつてはただ兄と妹として山野を駆け回っていた二人も。いつしか、人々からただの「兄」「妹」として見られることは少なくなっていた。ナマエには、ナマエを必要とする人々がいる。そして兄――菊にも、菊を必要とする人々がいる。二人はそれぞれの土地で、人々の営みを背負う存在になっていた。
それでも、兄妹であることだけは変わらなかった。
「おにいさん」
ナマエが呼ぶ。
「はい」
菊が答える。幼い頃の「おにいちゃん」から。少し大人びた「おにいさん」へ。それでも、その声には昔と変わらない親しみがあった。
――この時までは。
⸻
ある時、ナマエのもとへ、ひとつの知らせが届いた。
「日向を発つそうです」
「……日向を?」
「はい」
ナマエは静かに顔を上げた。話している者の口から出た名は、
⸻
「東へ行くのですか?」
ナマエが尋ねる。神倭伊波礼毘古命は頷いた。
「この先に何があるのかはこの私にも分かりません」
「それでも?」
「それでもです」
ナマエは海の向こうを見た。
「この国々を、ひとつにまとめるおつもりなのでしょう?」
「そうです」
「……ならば、私はお供いたします」
神倭伊波礼毘古命は、しばらくナマエを見ていた。やがて、「頼りにしています」とそう言った。ナマエは一礼した。
「お任せください」
⸻
船旅は長かった。筑紫から安芸、吉備へ。土地を移るたびに、風景が変わる。言葉も少し違う。暮らしも違う。……人々が信じるものも違う。ナマエは、その一つ一つを見ていた。
そして時折、兄のことを思った。
――おにいさんは、どうしているだろう。
東には兄がいる。幼い頃からずっと一緒だった兄。今は別々の土地にいる兄。そのことを考えると、胸の奥が、ほんの少しだけ重くなった。
けれど、この時のナマエは、まだ知らなかった。これから向かう大和に、その兄がいることを。そして、自分たちが、互いに違う人々の側に立つことになることを。
⸻
やがて一行は、難波の方面へ入った。ここで大きな抵抗に遭う。大和へ入ろうとする一行を待っていたのは
「……長髄彦」
知っている、その名を。東の地で大きな力を持つ人物。そして、その側に仕えている者の名も。
「……菊」
ナマエは、思わず呟いた。その声に神倭伊波礼毘古命が振り返る。
「知っているのですか?」
ナマエは答えなかった。ただ、遠くを見る。そこには確かに、見慣れた姿があった。黒い髪、静かな顔。長い年月を共に過ごしてきた。自分の兄。
「……おにいさん」
小さく呟く。向こうも、こちらに気づいた。菊の目が僅かに見開かれる。
「……ナマエ」
二人の間に、長い沈黙が落ちた。
⸻
菊は、長髄彦の側に立っていた。東の土地の人々は、自分たちの土地を守るために戦うことを選んだ。菊はその人々の側にいる。それが、自分の役目だった。
一方、ナマエは、神倭伊波礼毘古命の側にいる。それもまた、彼女自身が選んだ役目だった。兄妹だけど立っている場所が違う。それだけだった。どちらも自分の役目を捨てることはできない。
「……おにいさん」
ナマエが呼んだ。
菊は答える。
「ナマエ」
「どうして……」
そこまで言って、ナマエは口を閉じた。
「どうして、こちらへ来てくれなかったのですか」
そんな言葉は、兄に言うべきものではない。菊は少しだけ目を伏せた。
「それは、私の方が聞きたいですよ」
「……」
「なぜ、そちらにいるのです?」
「私は……」
ナマエは振り返る。自分が仕える人々を見る。そして「私を必要としてくださる方が、そちらにいるからです」と放った。菊は黙った。その答えを理解してしまった。自分もまったく同じだったから。
⸻
戦いが始まった。神武側は長髄彦の軍勢に阻まれる。さらに五瀬命が矢を受けて負傷する。五瀬命は、自分たちは日の神の子なのだから、太陽に向かって戦うべきではなかったのだと考えた。
そして東へ進むのではなく、紀伊へ回り込むことになる。ナマエは、その判断を聞いていた。
「……南へ」
そう東へ進むのではなく、紀伊へ海沿いに迂回する。兄の側を避けるように。けれど避ければ避けるほど、二人の道はやがて同じ場所へ近づいていく。
⸻
五瀬命は、その後、紀伊で亡くなる。ナマエは、静かにその場に立っていた。
「……兄上」
神倭伊波礼毘古命の表情は硬かった。
それでも、進まなければならない。ここで終わるわけにはいかない。一行は紀伊半島を南へ進み、やがて熊野へ至った。そこで大きな異変が起きる。一行の前に現れた大きな熊。その姿を見た直後、人々は次々と意識を失っていった。ナマエもまた、身体から力が抜けていくのを感じた。
「……これは……?」
視界が暗くなる。そして深い眠りへ落ちた。
⸻
その頃、熊野の地では、
彼の夢に神々が現れ、建御雷神の剣を授けるよう命じた。高倉下命が目を覚ますと、倉の中にその剣があり、それを神武側へ差し出した。すると一行は目を覚ました。
ナマエが目を開けた時、そこには朝の光が差していた。
「……」
身体を起こす。
「皆様……」
周囲の人々も、少しずつ目を覚ましている。ナマエは、空を見上げた。そして、一羽の烏が飛んできた。
⸻
道は果てしなく険しかった。山々を越える。深い森を抜ける。人々の中には疲れ果てて動けなくなる者もいた。ナマエも疲れていた。けれど足を止めることはしなかった。彼女は前を見る。その先に、大和がある。そして、兄がいる。
――まだ終わっていない。
⸻
やがて一行は大和へ入る。菟田。吉野。忍坂。磯城。さまざまな土地で神武側に従う者が現れる一方、抵抗する者もいた。そしてついに鳥見の地。そこで長髄彦と再び向き合う。
ナマエは、その姿を見た。
「……おにいさん」
菊も、ナマエを見る。
「……ナマエ」
二人とももう、幼い頃のようには笑えなかった。それでも、互いを見れば分かる。相手が何を考えているのか。何を守ろうとしているのか。何を捨てられないのか。長い年月を兄妹として生きてきたから。
だからこそ戦うことが、苦しかった。
⸻
神武側は苦戦する。その時、神武の弓に金色の鵄が止まった。その光によって敵が眩み、形勢が変わった。ナマエは、その光を見上げた。
眩しい。まるで天そのものが、神倭伊波礼毘古命の側に立ったかのようだった。
そして戦いの中で、大和の統治者であった
ナマエはその光景を見つめていた。そして、自分の兄を見た。菊はもう戦おうとはしなかった。もう戦えないというのが正しいのかもしれない。苛烈を極めた戦闘によって、菊は大きく傷ついていた。彼は地に座り込んだまま、ただ静かにナマエを見つめる。
「……終わったのですね」
ナマエが言う。菊は答えなかった。やがて「ええ」と答える。それだけだった。ナマエは目を伏せる。
「……おにいさん」
「何です?」
「私たち」
「はい」
「……また、一緒にいられますか?」
菊はすぐには答えなかった。そしていつもの穏やかな声で言った。
「兄妹なのですから」
ナマエの目に、ほんの少しだけ、涙が浮かんだ。
「……はい」
それ以上は何も言わなかった。
⸻
こうして神倭伊波礼毘古命は大和を平定し、畝傍山の東南、橿原の地に宮を造る。そしてその地で即位した。後世、その人物は初代・神武天皇と呼ばれることになる。
ナマエは、その日宮の外から、静かに空を見上げていた。ここから、新しい国が始まる。いや、正確にはずっと昔から続いてきた人々の営みが今、ひとつの大きな形を得ようとしている。その中心に、ナマエはいた。そして少し離れたところには兄がいた。
二人は同じ国に生きている。けれどまだ、同じ場所に立っているわけではない。この先、二人は何度も、同じ国の中で違う立場に立つことになる。
それでもナマエにとって、菊は兄だった。菊にとってナマエは妹だった。 それだけは神武天皇の東征が終わっても、その先も決して変わらなかった。
