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これは彼らの始まりの地点、まだ『国』としての輪郭すら曖昧な、そんな世界に彼らは生まれた。
人々はまだ、自分たちが何者なのかを知らなかった。山があり、海があり、川が流れている。森には獣が棲み、季節が巡り、雨が降り、雪が積もる。人々は土地ごとに集まり、暮らし、祈り、争い、そしてまた手を取り合って生きていた。
『国』という言葉さえ、今のような意味では存在しない。そこにあるのは、小さな集落とその集落に生きる、人々の営みだけだった。
――そんな時代。
まだ名前さえ定まっていなかった、この島々の中に、二人の子供がいた。一人は少年。もう一人は少女。二人はよく似た顔をしていた。黒い髪に黒い瞳、小さな身体。そして、何よりも互いの姿を見つけると、まるでそれが当たり前であるかのように、隣へ駆け寄る。
「おにいちゃん!」
少女が声を上げる。少年は振り返った。
「ナマエ」
「いた!」
少女―― ナマエは、嬉しそうに駆けてくる。少年は、そんな妹を見て小さく笑った。
「また一人で来たんですか?」
「だって、おにいちゃんがいるから」
「……それは理由になっていませんよ」
そう言いながらも、少年はナマエの手を取った。まだ、この二人には正式な名前すらなかった。人々から何と呼ばれていたのかも、今となっては定かではない。
ただ彼ら自身には、不思議と最初から、お互いが何者なのかだけは分かっていた。兄と妹。それだけだった。
⸻
二人はよく一緒に遊んだ。海辺まで行けば、貝殻を拾った。森へ行けば、木の実を探した。川を見つければ、水に手を入れて魚を追いかけた。
ナマエはよく転んだ。
「いたっ……」
「ナマエ!」
そのたびに兄が駆け寄る。
「大丈夫ですか?」
「……大丈夫」
「本当ですか?」
「うん」
ナマエの目は、今にも涙が溢れそうなくらい、なみなみの水が覆っていた。そして彼女は、転けた時に反射的に突き出してしまった手をサッと背中の後ろへと隠す。
「では、手を見せてください」
「……」
ナマエが渋々手を差し出す。少年は小さな傷を確認すると、困ったように眉を下げた。
「やっぱり怪我しているじゃないですか」
「これくらい平気」
「駄目です」
「平気だもん」
「駄目です」
兄は頑固だった。ナマエも負けず嫌いだった。心配する兄と強がるナマエの問答は、しばらく続いた。すると痺れを切らしたのか、ナマエは「おにいちゃんだって転ぶじゃん」と零した。
「私は転びません」
「昨日転んだ」
「……」
バツが悪そうに、菊は彼女の顔から目を逸らす。それを好機と言わんばかりに、ナマエは尚も責め立てる。
「転んだ」
「……あれは足元に石があっただけです」
「それを転んだっていうんだよ」
自分でも苦しい言い訳だと思いながら、菊は逡巡していた。どうすればこの強がりを納得させられるのだろう。そう考えて、ひとつのアイデアが浮かんだ。
「ナマエ」
「なあに?」
「余計なことを言うと、置いていきますよ」
「やだ」
即答だった。兄は少しだけ笑った。
「では、大人しくしてください」
「はーい」
そんなやり取りをしながら、二人はいつも一緒にいた。まだ世界は広かった。そして二人にとって、その世界の中心には、いつも互いがいた。
⸻
ある日、二人は少し遠くまで歩いていった。いつもの集落を離れ、山を越え、知らない土地へ。そこで二人は初めて、別の人々の集まりを見た。自分たちとは少し違う言葉、少し違う服、少し違う暮らし。ナマエは兄の袖を掴んだ。
「おにいちゃん」
「はい」
「あの人たち、私たちと違うね」
「そうですね」
「怖い?」
兄は少し考えてから答えた。
「……分かりません」
「分からない?」
「知らないものを、最初から怖いと決めつけるのは良くないでしょう」
ナマエは兄を見上げた。燦然と輝く、その純粋で大きな瞳中に、菊の姿が映り込んでいた。
「おにいちゃん、すごいね」
「そうですか?」
「うん」
「……では、少し誇っておきましょうか」
「ふふ」
二人は笑った。その時にはまだ、自分たちの周囲に、どれほど多くの人々が暮らしているのかも、それぞれがどんな名前を持つのかも、二人には分からなかった。ただ、この島々には、自分たちと同じように生きる人々がたくさんいる。
そのことだけを、少しずつ知っていった。
⸻
季節が何度も巡った。ナマエは少しずつ大きくなった。兄もまた、大きくなった。いつしか二人は、子供たちの中でも少し違った存在になっていた。
兄には、人々が集まってくるようになった。相談を持ちかけられる。争いが起きれば、仲裁を頼まれる。何かを決める時には、兄の意見を聞く人が増えていった。
ナマエもまた、人々の中で少しずつ役割を持つようになった。けれど、兄ほど人前に立つことはなかった。彼女はまだ、兄の隣にいることが好きだった。
「おにいちゃん」
彼女は固く握りしめた拳を突き出しながら、菊の元へと駆け寄ってきた。
「何です?」
「これ」
その固く握りしめられた拳をそっと開き、ナマエが小さな木の実を菊に差し出す。
「今日、見つけたの」
「私に?」
「うん」
兄はそれを受け取った。表面がツヤツヤの木の実。それはまるでナマエの瞳のようだった。その木の実には、やはり菊の姿が映っている。
「ありがとうございます」
「どういたしまして」
「……では、こちらを」
兄は自分が拾った貝殻を、ナマエに渡した。白くてスベスベの貝殻は、仄かに赤い菊の手の色を反射して、うっすら桃色づいて見えた。
「わあ」
ナマエの顔が明るくなる。
「綺麗!」
「そうでしょう」
「大事にする!」
「ええ」
二人はそんな小さなものを交換して。それだけで、一日を幸せに過ごしていた。『国家』などという大きなものを背負ってはいない。まだ歴史の名前すら持たない。まだ誰も。この二人が後に、長い年月を生きる存在になることを知らない。
ましてやこの兄妹が、幾度となく同じ国を巡って争うことになるなど、誰が想像できただろう。
⸻
ある夕暮れ。二人は海を眺めていた。空が赤く染まり、海面がその色を映している。ナマエは兄の隣に座っていた。
「おにいちゃん」
「はい」
「海って、どこまで続いてるのかな」
「さあ……」
兄も海の向こうを見る。
「ずっと向こうまで、でしょうか」
「その先には?」
「……分かりません」
ナマエは少し考えた。水平線の向こう、遥か先の未知の世界。少し怖いような気もしたが、好奇心の塊の彼女は興味の方が勝った。
「じゃあ、いつか行ってみたい」
兄は妹を見た。
「遠くへ?」
「うん」
「一人で?」
「……」
ナマエは少しだけ黙った。そして。
「おにいちゃんと」
兄は目を細めた。
「それなら、いつか行けるかもしれませんね」
「約束?」
「約束です」
そう言うと、菊は手を差し出す。ナマエは嬉しそうに自分の手を菊の手に重ねた。
「約束!」
二人は笑った。
――その約束が。後の長い歴史の中で、何度も形を変えていくことを、この時の二人は知らない。同じ道を歩くこともあれば、別々の道を歩くこともある。同じ側に立つこともあれば、違う旗の下に立つこともある。時には、互いに刃を向けることさえある。
それでも、この日の約束だけは。
二人の中から消えることはなかった。
⸻
やがて、人々は集まり始めた。小さな集落がまとまり、まとまりがさらに大きな集団となる。土地に名前がつけられ、人々に共通する文化が生まれ、祈りが形になる。その最中に権威が生まれ、「自分たちは何者なのか」という問いが、少しずつ大きくなっていく。
その中で少年だった兄は、人々をまとめる存在へと近づいていった。少女だった妹もまた同様に。兄とは別の場所で、人々の営みを支える存在になっていった。
まだ二人は、それを『国』とは呼ばない。けれど、後世の人々が振り返れば、そこには確かに日本という国の、最初の輪郭があった。
そしてその輪郭の中心には、いつも二人の姿があった。兄と妹。本田菊と本田ナマエ。
――いや。その名前すら、まだ存在しない。
ただ「おにいちゃん」と呼ぶ妹と「ナマエ」と呼ぶ兄。それだけだった。それだけで二人には、十分だった。
少なくとも、あの日々が終わるまでは。
人々はまだ、自分たちが何者なのかを知らなかった。山があり、海があり、川が流れている。森には獣が棲み、季節が巡り、雨が降り、雪が積もる。人々は土地ごとに集まり、暮らし、祈り、争い、そしてまた手を取り合って生きていた。
『国』という言葉さえ、今のような意味では存在しない。そこにあるのは、小さな集落とその集落に生きる、人々の営みだけだった。
――そんな時代。
まだ名前さえ定まっていなかった、この島々の中に、二人の子供がいた。一人は少年。もう一人は少女。二人はよく似た顔をしていた。黒い髪に黒い瞳、小さな身体。そして、何よりも互いの姿を見つけると、まるでそれが当たり前であるかのように、隣へ駆け寄る。
「おにいちゃん!」
少女が声を上げる。少年は振り返った。
「ナマエ」
「いた!」
少女―― ナマエは、嬉しそうに駆けてくる。少年は、そんな妹を見て小さく笑った。
「また一人で来たんですか?」
「だって、おにいちゃんがいるから」
「……それは理由になっていませんよ」
そう言いながらも、少年はナマエの手を取った。まだ、この二人には正式な名前すらなかった。人々から何と呼ばれていたのかも、今となっては定かではない。
ただ彼ら自身には、不思議と最初から、お互いが何者なのかだけは分かっていた。兄と妹。それだけだった。
⸻
二人はよく一緒に遊んだ。海辺まで行けば、貝殻を拾った。森へ行けば、木の実を探した。川を見つければ、水に手を入れて魚を追いかけた。
ナマエはよく転んだ。
「いたっ……」
「ナマエ!」
そのたびに兄が駆け寄る。
「大丈夫ですか?」
「……大丈夫」
「本当ですか?」
「うん」
ナマエの目は、今にも涙が溢れそうなくらい、なみなみの水が覆っていた。そして彼女は、転けた時に反射的に突き出してしまった手をサッと背中の後ろへと隠す。
「では、手を見せてください」
「……」
ナマエが渋々手を差し出す。少年は小さな傷を確認すると、困ったように眉を下げた。
「やっぱり怪我しているじゃないですか」
「これくらい平気」
「駄目です」
「平気だもん」
「駄目です」
兄は頑固だった。ナマエも負けず嫌いだった。心配する兄と強がるナマエの問答は、しばらく続いた。すると痺れを切らしたのか、ナマエは「おにいちゃんだって転ぶじゃん」と零した。
「私は転びません」
「昨日転んだ」
「……」
バツが悪そうに、菊は彼女の顔から目を逸らす。それを好機と言わんばかりに、ナマエは尚も責め立てる。
「転んだ」
「……あれは足元に石があっただけです」
「それを転んだっていうんだよ」
自分でも苦しい言い訳だと思いながら、菊は逡巡していた。どうすればこの強がりを納得させられるのだろう。そう考えて、ひとつのアイデアが浮かんだ。
「ナマエ」
「なあに?」
「余計なことを言うと、置いていきますよ」
「やだ」
即答だった。兄は少しだけ笑った。
「では、大人しくしてください」
「はーい」
そんなやり取りをしながら、二人はいつも一緒にいた。まだ世界は広かった。そして二人にとって、その世界の中心には、いつも互いがいた。
⸻
ある日、二人は少し遠くまで歩いていった。いつもの集落を離れ、山を越え、知らない土地へ。そこで二人は初めて、別の人々の集まりを見た。自分たちとは少し違う言葉、少し違う服、少し違う暮らし。ナマエは兄の袖を掴んだ。
「おにいちゃん」
「はい」
「あの人たち、私たちと違うね」
「そうですね」
「怖い?」
兄は少し考えてから答えた。
「……分かりません」
「分からない?」
「知らないものを、最初から怖いと決めつけるのは良くないでしょう」
ナマエは兄を見上げた。燦然と輝く、その純粋で大きな瞳中に、菊の姿が映り込んでいた。
「おにいちゃん、すごいね」
「そうですか?」
「うん」
「……では、少し誇っておきましょうか」
「ふふ」
二人は笑った。その時にはまだ、自分たちの周囲に、どれほど多くの人々が暮らしているのかも、それぞれがどんな名前を持つのかも、二人には分からなかった。ただ、この島々には、自分たちと同じように生きる人々がたくさんいる。
そのことだけを、少しずつ知っていった。
⸻
季節が何度も巡った。ナマエは少しずつ大きくなった。兄もまた、大きくなった。いつしか二人は、子供たちの中でも少し違った存在になっていた。
兄には、人々が集まってくるようになった。相談を持ちかけられる。争いが起きれば、仲裁を頼まれる。何かを決める時には、兄の意見を聞く人が増えていった。
ナマエもまた、人々の中で少しずつ役割を持つようになった。けれど、兄ほど人前に立つことはなかった。彼女はまだ、兄の隣にいることが好きだった。
「おにいちゃん」
彼女は固く握りしめた拳を突き出しながら、菊の元へと駆け寄ってきた。
「何です?」
「これ」
その固く握りしめられた拳をそっと開き、ナマエが小さな木の実を菊に差し出す。
「今日、見つけたの」
「私に?」
「うん」
兄はそれを受け取った。表面がツヤツヤの木の実。それはまるでナマエの瞳のようだった。その木の実には、やはり菊の姿が映っている。
「ありがとうございます」
「どういたしまして」
「……では、こちらを」
兄は自分が拾った貝殻を、ナマエに渡した。白くてスベスベの貝殻は、仄かに赤い菊の手の色を反射して、うっすら桃色づいて見えた。
「わあ」
ナマエの顔が明るくなる。
「綺麗!」
「そうでしょう」
「大事にする!」
「ええ」
二人はそんな小さなものを交換して。それだけで、一日を幸せに過ごしていた。『国家』などという大きなものを背負ってはいない。まだ歴史の名前すら持たない。まだ誰も。この二人が後に、長い年月を生きる存在になることを知らない。
ましてやこの兄妹が、幾度となく同じ国を巡って争うことになるなど、誰が想像できただろう。
⸻
ある夕暮れ。二人は海を眺めていた。空が赤く染まり、海面がその色を映している。ナマエは兄の隣に座っていた。
「おにいちゃん」
「はい」
「海って、どこまで続いてるのかな」
「さあ……」
兄も海の向こうを見る。
「ずっと向こうまで、でしょうか」
「その先には?」
「……分かりません」
ナマエは少し考えた。水平線の向こう、遥か先の未知の世界。少し怖いような気もしたが、好奇心の塊の彼女は興味の方が勝った。
「じゃあ、いつか行ってみたい」
兄は妹を見た。
「遠くへ?」
「うん」
「一人で?」
「……」
ナマエは少しだけ黙った。そして。
「おにいちゃんと」
兄は目を細めた。
「それなら、いつか行けるかもしれませんね」
「約束?」
「約束です」
そう言うと、菊は手を差し出す。ナマエは嬉しそうに自分の手を菊の手に重ねた。
「約束!」
二人は笑った。
――その約束が。後の長い歴史の中で、何度も形を変えていくことを、この時の二人は知らない。同じ道を歩くこともあれば、別々の道を歩くこともある。同じ側に立つこともあれば、違う旗の下に立つこともある。時には、互いに刃を向けることさえある。
それでも、この日の約束だけは。
二人の中から消えることはなかった。
⸻
やがて、人々は集まり始めた。小さな集落がまとまり、まとまりがさらに大きな集団となる。土地に名前がつけられ、人々に共通する文化が生まれ、祈りが形になる。その最中に権威が生まれ、「自分たちは何者なのか」という問いが、少しずつ大きくなっていく。
その中で少年だった兄は、人々をまとめる存在へと近づいていった。少女だった妹もまた同様に。兄とは別の場所で、人々の営みを支える存在になっていった。
まだ二人は、それを『国』とは呼ばない。けれど、後世の人々が振り返れば、そこには確かに日本という国の、最初の輪郭があった。
そしてその輪郭の中心には、いつも二人の姿があった。兄と妹。本田菊と本田ナマエ。
――いや。その名前すら、まだ存在しない。
ただ「おにいちゃん」と呼ぶ妹と「ナマエ」と呼ぶ兄。それだけだった。それだけで二人には、十分だった。
少なくとも、あの日々が終わるまでは。
