ヒカリ

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「お前ホント使えねぇなぁ!?」

オフィスに響く怒号は部長から俺に向けられたものだ。自分の仕事ではなく、部長に有無を言わさず押し付けられた仕事を、自分が抱える仕事や昼食の時間などの全てを削って必死になって終わらせたその見返りがコレだ。オフィス内の目線が一斉にこちらに向けられる。怒鳴られる俺を哀れみの目で見る人が居れば、笑みさえ浮かべて見ている人も居る。

先月、部長のいびりの的になっていた後輩が辞めた後、後輩が辞めたのはお前の責任なんだ と何度も何度も責め立てられた。直属の後輩だったわけではない。彼が作った書類に対して、訂正箇所を少し注意をしただけだった。別に強い言葉を使った訳でもない。俺と彼との接点なんて殆ど無いに等しかった。
それなのに部長は、俺と後輩との間にトラブルがあったと勝手に信じ込んで俺の弁解など聞く耳を持たない。それどころかその日から今までの1ヶ月間、部長からの暴力や暴言がどんどんエスカレートしていく一方だ。


いつの間にか就業時間は終わり、周りには殆ど人が居なくなっていた。何人かは残業しているが その人たちももう終わらせて帰るのか、荷物をまとめている人たちが大半だ。慌てて自分の作業に向き直す。部長の絡みが酷かったお陰で全くと言っていい程進捗は進んでいない。

「……はぁ……」

項垂れて大きな溜息をひとつ吐き出した後、キーボードを再び叩き始める。時刻は気付けば22時を過ぎている。周りにちらほら居たはずの人たちも、もう誰も居ない。だだっ広いオフィスでただひとり、カタカタとキーボードを打つ音を響かせる。納期は明日だ。今日中に終わらせなければ。


やっとの事でデータを納品し仕事を終え、家に帰り着いた時にはもう日付をゆうに越えていた。深夜2時。明日は土曜なので本来は休みだが、まだ押し付けられた仕事や抱えた仕事がある。明日も出勤しなくては。また部長に仕事が遅いといびられてしまう。

スーツがよれるのも構わずにベッドの上に上着だけ脱ぎ捨てて、ネクタイを緩める。そして眠る為にコンビニで買った安くて度数の高い酒を煽るように飲み始める。

最近は食べる事も、眠る事も難しくなっていた。何かを口にしようとしても喉を通らず、負担の少ないゼリーや飲み物だけで済ませている。睡眠に関しても、仕事のことを考えてしまって眠れない。眠れたと思っても仕事の夢を見てはすぐに目が覚めてしまう。そのせいで日中に眠くなってしまいミスが増え、怒られるという悪循環。

──あの後輩も今の俺と同じだったのだろうか。

毎日毎日頑張っても 周りに迷惑しか掛けられない。もういっそ居なくなってしまった方が良いのでは。いや、きっとそうだ。皆もそう思っているに違いない。

ごみ、無能、馬鹿。昼間投げ掛けられた言葉たちが今になってひとつひとつ響いてくる。怒られている時には認識する事すら難しく、返事をするので精一杯だったのに、脳はしっかりと記憶していたらしい。
怒り狂った部長の様子が、まるで目の前に居るかのように鮮明に目の奥に浮かび上がってくる。

『お前のせいで新人が辞めたんだぞ、分かってるのか?』
『お前が指導を怠ったせいで貴重な人材が減ったんだぞ』
『大して仕事も出来ないくせに 他人の足ばかり引っ張りやがって』

部長の言葉にただひたすらに謝る事しか出来ない。気付けば相手も部長だけでなく複数人になっていて、会社の先輩や同僚など見知った顔もその中にはある。そして先月辞職した後輩の姿も。

『先輩のせいで俺は辞めたんですよ』
『ひとりの後輩の気持ちすら汲み取れないなんて、仕事も出来ないのに何が出来るんですか』
『なんで生きてんだよお前』
『早く死ねばいいのにな』

人混みの中から声が上がると、周りの中から同調の声が上がって、一斉に群衆は笑い出す。地面に頭を擦り付ける俺を見下して。



はっと目を覚ますと、部屋はまだ暗い。時計が指し示しているのはは朝5時頃。おそらく2時間も眠っていない。酒を飲んで眠気を誘発する作戦は大成功でも、長時間はやはり眠れない。気分の悪い夢を見たせいで じっとりと身体が汗で塗れている。気持ちが悪い。シャワーだけでも浴びよう。

今日は土曜だが出勤しなくては。深く考えても時間は待ってくれない。急いで準備に取り掛かる。始業時間よりも早く行って仕事を始めなければ、押し付けられた仕事まで手が回らない。
眠ってしまった分、まだ覚醒しきれてない頭の中はいつもよりもぐちゃぐちゃに散らかっている。普段の倍の時間を掛けて準備をしたせいで、あっという間に電車の時間になってしまった。殆ど半泣きになりながら荷物を詰め込んで、怠い身体を無理矢理に動かして駅に向かう。
早い時間のお陰で車内は割とスカスカ。いつも座る長椅子の端っこ。今日もそこに腰を下ろす。疎らに居る他の乗客たちもきっと何かしら抱えながら 今この場に居る。斜め前の老人も、ドアの前に立つ女性も。ひとつ飛ばして横に座る若いお兄さんも。俺だけが辛いわけじゃない。寧ろ俺なんかよりもっとずっと大変な思いを抱えて。
あれこれぐるぐると考えている内に、思考はやがて睡魔となって俺を埋め尽くしていく。寝てはいけないと分かっていても、瞼は勝手に下りてくる。


「──さん、お兄さん、」

肩を叩かれて閉じていた瞼をこじ開ける。目の前には人の良さそうな中年の男性。俺を心配そうに覗き込んでいる。

「終点ですよ、大丈夫ですか?」

終点、という言葉に全身の血の気が引いていく。眠ってしまったせいで降りるべき駅を飛ばしてしまった。怒鳴り声が頭の中に蘇る。なんとかしなければ。どうすれば。取り敢えず、と駅員さんの声も聞かずに電車を飛び出す。目の前に広がる景色は会社がある街とは似ても似つかないのどかな風景。

「ぁ……、嘘、だ……」

腕時計を見ると短針は8を指している。駅員さんが俺の後ろで何かを言っている。それを一切聞かずに俺はただその場にすとん、と膝から崩れ落ちて座り込む。手に持っている携帯が着信やメッセージの受信を報せてブルブルと震えている。見たくない。出たくない。

「っ、げほ……」

込み上げてきた吐気にそのまま従って、俺はその場に胃液を吐き出して蹲る。どれだけ吐いても治まらない吐気と、自分の不甲斐無さに嫌気がさす。動悸も治まらない。まるで身体全体が心臓にでもなったかのように。

『いい加減死ねば?』
『誰もお前なんか必要としてないよ』
『お前が全部悪いんだよ』

また声が頭の中に響く。自分の事を責め立てるようなその声は止まらない。何重にもなって、一斉に俺を蝕んでいく。でも仕方ない。事実なのだから。俺が全て悪い。人に迷惑を掛けることしか出来ない、無能で、居ても居なくてもいい存在。寧ろ居なくなった方が、

「──!!」

ガシャン、という大きな音がした気がしたと思うと、隣に見覚えのある男が座っていた。学生時代からの友人である彼は俺の手をしっかり握って、覗き込むようにして顔色を伺っている。
俺はいつの間にか気でも失っていたのか、駅の救護室のような所で寝かされているようだった。頭がぼんやりとして、少し痛い。

「良かった……、心配したんだぞ」
「……なんでお前がここに……?」
「アンタ誰とも連絡取ってなかったろ。3ヶ月前に最後に連絡してた俺に電話掛かって来たんだよ。偶々仕事の都合でこっちに居たから良かったものの……、まだ親御さんとは絶縁状態なのか?ここ最近何してたんだよ?なんでそんな苦しそうなんだよ。アンタほんとにちゃんとやれてんのか?」

彼が追い討ちをかけるように喋り続ける。幾つも同時に訊かれても答えに困ってしまう。

「悪ィ、喋り過ぎた。取り敢えず今日は帰ろうぜ。会社に連絡はオレがしてやるから」

何も喋らない俺に気を遣ってなのか、小さな声で話し掛けてくる彼の優しさにすら、申し訳なく思って目を逸らしてしまう。

「アンタ高校まで皆勤賞取るくらいだったろ。本当にどうしちまったんだよ?連絡も全然繋がらねぇし……。やっと連絡来たと思ったら駅で倒れたって言うし……」

さっきより幾分かゆっくりと話す彼。俺と彼しか居ないこの空間は静かで、彼が黙ってしまうと完全な静寂が訪れる。

こんな所で寝ている場合ではないのに。早く連絡しないと。部長に押し付けられた仕事を終わらせないと。心臓が五月蝿い。喉を締め付けられているような、胸を押さえ付けられているような。苦しい。息が出来ない。

「……っ、は……」

酸素が吸えない喉を掻き毟る。幾ら掻き毟ろうが呼吸が落ち着く事はない。ベッドの上で身を捩りながら悶え苦しむしかない。嗚呼、死ぬのかな。このまま。

「──!落ち着け!オレに合わせろ!」

彼がする呼吸に合わせて必死に息を吸って、吐いてを繰り返す。あまりの苦しさに流れた涙もそのままで、握られたままだった手に力を込めて、強く握り返す。どうか今だけは離さないでと。

呼吸が落ち着くまでに、1時間は掛かったような気がしていたが、実際には15分程しか経っていなかった。


上半身を起こされて、俺の背中を擦り続ける彼に顔をまた覗き込まれる。俺の反応を伺うような目線。

「ごめん、……お前も、仕事あったのに……俺、こんな……」

彼は何も言わずにただ背中をゆっくりと撫で続けてくれている。

「おれ、仕事全然できないし……そのせいで、後輩も辞めちゃって……、それで、……俺が出来ないやつ、だから……皆に申し訳なくて、……もう、俺なんて……」

話している内に自分が駄目な人間であるということを、再認識して脳内を埋め尽くしていく。お前のせいで仕事が滞っている。お前のせいで皆が迷惑している。そんな部長の声がこびり付いて離れない。また動悸が襲ってくる。

『お前が悪いんだよ』
『お前が居なければ上手くいく』
『こんなことも出来ないのか』
『お前の居場所なんて無いんだよ』

今まで出会ってきた人たち皆に責められる。部長や同僚だけじゃなくて、小学校の同級生、部活の先輩、先生、両親にも。

「ごめ、んなさ……ぃっ、……ごめんな、さ……」
「もう大丈夫だから、おいで」

彼の低めの声が耳に入る瞬間に、彼の腕が俺を抱き締めてくれた。誰かの体温を感じたのはいつぶりだろうか。もうずっとずっと昔のことだったように思える。

「疲れちゃったんだな。よく頑張ってるよアンタは。アンタがずっと頑張ってたきたこと、オレはちゃんと知ってっからな」

身体中に圧迫感があるのに息苦しさも何も無い。寧ろこのまま彼の一部になってしまうような心地良ささえ感じる。抱き締められたまま深く深呼吸をすると、彼のシャツから風の匂いがした。急いで来てくれたのか。こんな俺の為に。しがみつく様に、縋り付くように彼の背中に腕を回すと自然と涙が溢れて、彼の肩にシミを作っていく。

「病院、行こう」

不意に聴こえた彼の声に 俺は素直に頷いた。もうずっと限界だったんだ。とうに気付いていた。だけど気付かない振りをしていただけだったんだ。
彼の背に回していたゆっくり手を解いて、彼の顔を見る。

「……病院、行くよ。仕事も……しっかり考える。……ありがとう、ね」
「ん、どういたしまして。病院はオレも一緒に付き添うからな。自分の事、もっと大事にしろよな」

その言葉に控えめに「分かった」と返事した俺に彼は満足そうに微笑んで頷いて、自分と俺の荷物を持って席を立つ。


救護室を出て、ホームに立つと外はもう日が傾いて夕陽に思わず目を細める。ふたりで並んで待っていると、各駅停車の電車がホームに滑り込んでくる。もう暗くなった外から明るい車内に入った時、光がいつもより暖かく感じた気がした。



fin.
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