立つ鳥跡を濁さず

¨


「別れよう」
「……は?」

突然放たれた言葉に自分の耳を疑った。まさか、そんな事を彼が言う筈が無い。きっとオレの聴き間違いだ。

「俺たち、別れた方が良いと思うんだ」

今度は聴き間違いなどではない。だけどその言葉の意味が分からない。彼は何を言ってるんだ。

「何を馬鹿な事を、」
「ごめん」

オレの声を遮って謝った彼の眼は光を失ったかのように何も映していない。目の前に居るオレの姿さえ。そんな彼の様子にオレは次の言葉が見付からない。

考えろ、思い出せ。何か切っ掛けがあった筈なんだ。彼がその答えを出した理由が。何もなくそこに辿り着くわけがないんだ。

「なァ、一度ちゃんと話を」
「お前と居た時間は幸せだった」
「ならこれからも」
「幸せな記憶のまま、にしておきたい」
「どう、いう意味だ」
「……ごめんね」

去っていく彼を引き留めようと伸ばした手は空を掴むだけに終わった。掴めなかった。あと一歩踏み出していれば掴めた筈なのに。オレはその一歩が踏み出せなかった。




彼とのそんなやり取りから数ヶ月。あれ以来彼の姿を見ていないし、声も聴いていない。メッセージアプリも動いていない。

彼が行き付けにしているBARや、お気に入りの喫煙所などあらゆる場所を探し回った。なのに見付からない。勤務先にも行った。だが返ってきた言葉は「既に退職されています」だった。

彼が今どこで何をしているのか、生きているのかさえ、分からない。

彼の交友関係はあまり把握していなかった。そもそも彼の口から友人の話題は出て来た事がなかったからだ。家族とも疎遠なのか、あまりそういう類の話はしたがらなかった。

オレは彼の事を何も知らないも同然だった。

もっと彼の話を聞いていれば。もっと彼の心の音に耳を澄ませていれば。なんて、今更後悔したところで何もかももう遅い。



更に月日は流れて、彼がオレの前から居なくなって1年が経とうという頃、それは突然訪れた。

『御前の元にこれが届いたという事は、俺はきっと俺ではなくなっている頃だろうな』

そんな一文から始まるメッセージ。その文章の意味が理解出来ない。否、理解したくなくて、先を読み進める事が出来ない。きっと驚かせようとしてこんな始まりにしたんだ。そうだ。そうに違いない。

だけど、誠実な彼がオレに嘘を付いたことは一度も無かった。優しい嘘でさえ、彼は付かなかった。最後に交わした言葉もきっと彼の本心だった。

『幸せな記憶のままにしておきたい』

あの日あの時無理矢理にでも引き留めていれば。いや、きっとそうしたところで彼は。




メッセージに書かれていた郊外のホスピスの住所。終末患者が最期を迎える時を待つ場所。そこの一室に彼は居た。

1年、彼がオレの元を去ってからたった1年。時間にしたら大した期間ではない。それなのにもう十何年と会っていなかったように思える。

真っ白なベッドに身を沈める彼の身体は、蒼白く痩せ細り骨張っていて、生気なんてものは微塵も感じられない。ほんの1年前は色白とはいえ、鍛え抜かれた筋肉が美しい身体だったのに。その見る影もない。微かに上下している胸板が、彼がまだ生きている事を知らせる唯一の手がかりだ。

目が覚めなくなってもう1週間が経つという。彼は職員に携帯を渡して、自分が目覚めなくなったら送って欲しい、と頼んだのだそうだ。

『最期にもう一度、彼の声が聴きたかった』

どれだけ心身が辛くとも、彼が涙を流したのは、彼が願望を伝えたのは ただその一度だけだったという。

「……会いに来たよ、──」

彼の名前を呼んで、彼の骨張った手を握って。彼のさらさらとした髪を撫でて、痩けてしまった頬を撫でて。何度も彼の名前を呼んだ。返事などあるわけないと分かっていても。人が最期の最後まで残す感覚は聴覚だと以前彼から聞いた。彼にこの声が届いていると信じて、何度も呼び続けた。オレの声だけがこの部屋に虚しく響くとしても。

何度も、何度も。
彼の美しいその名前を。




そして彼はオレが来た翌日に旅立っていった。まるでオレが来るのを待っていたかのように。穏やかな表情のまま、ゆっくりとその命の灯火を燃やし尽くした。

彼の遺骨はオレの家に持ち帰った。家族と疎遠などではなく、彼は天涯孤独の身だった。それを知ったのも全て彼が永遠の眠りについた後。友人と呼べる間柄の人間も居なかったらしく、本当にオレだけが彼の。

彼が生前語ってくれた自身の過去はあまりいいものではなかった。幸せとは言い難いような、そんな人生を送ってきた彼に、オレは何かしてやれていたんだろうか。彼の苦しみを和らげることが出来ていたんだろうか。彼はオレと居たことで本当に幸せだったのだろうか。

もう、その答え合わせも出来ない。



──ピロン♪

「……、はは、そうか、…そっか」










『有難う、俺は最高に幸せだった』




fin.
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