俺だって

¨

僕は別にメンタルが強いわけでも、心が広いわけでもない。だからあんな事を言われて、何もダメージが無いわけがなくて。過呼吸を起こしたばかりの彼をひとり残していくのは気が引けた。けれど家を出てホッとしたのも事実。

「……電話しないと」

気分が落ちているのを病人に見せるわけにはいかない。このもやっとした感情はしっかりとあの家に置いていかないと。

ふぅ、と深く息をついて携帯の通話ボタンを押した。

「も、しもし……」
「ごめんね、今から行くからね」
「すみません、めいわく、かけて……」
「謝らなくていいよ。大丈夫だからね」
「……ありがとう、ございます」

涙声で可愛げのある声。甘え慣れているのが電話越しでも伝わってくる。きっと、今まで沢山人から優しくされてきたのだろうと思う。弟くんの場合は、その理由を察してしまうことが出来るほど、あからさまだった。

小動物のように可愛らしい容姿。話し掛けると、割とすぐに心を開いてくれて、花が咲いたように笑う。基本的には明るいけれど、その中には触れたら壊れてしまいそうな、そんな儚さも含んでいた。初めて会った時は、兄弟でこんなにも違うのかと驚いた。

そんな弟くんと接して癒しを貰う反面、まるで対極の、あんなにも甘え下手な彼を思い出しては、少し苦い気持ちになる。訊いても教えてくれないであろう彼の生い立ちを、勝手に想像しては、いたたまれない気持ちにもなる。



───……


少し重たい足取りで彼が居る部屋へと向かい、抜き足差し足忍び足で扉の前に立つ。

……やっぱり今は辞めておこうか。彼もひとりになりたいと言っていたし。そう結論付けて扉の前から立ち去ろうと踵を返した途端だった。

部屋の中から大きな音がして、遅れて弱々しい呻き声が聴こえたことで、僕は慌てて扉を開けた。

「っ、ごめ、なさ……これ、は、その、っ違、くて……ごめ、んなさ……」

やっぱり見ててあげるべきだった。震えながら謝る彼の姿に、過去の僕を殴りたくなった。ひとりにするべきではなかった。たとえ彼がそう望んでいても。

机の角に額を思いっ切りぶつけてしまったのか、血がたらりと顔面を伝っている。手当てをしなくては。

「大丈夫、怒ってないからね。怪我したとこ見せて?」
「……や、だ」
「クラッときてよろけちゃった?おでこの他は大丈夫?見せて?」

出来るだけ優しい声色で問い掛けながら、乾いたタオルを彼の額に押し当てる。額だからか、傷の大きさの割には出血量が多い。

「これ押さえててね。止血しないと」
「……」
「ちょっと見せてね」

いやだと弱々しくも身体を捻りながら抵抗する彼を、出来だけ優しく制止しながら、彼の服を捲り上げた。

「……な、にこれ」

赤黒い痣があちこちに拡がっていた。一番酷いのは腕。だけどよく見ると鎖骨辺りにも見える。

「っ、や……だ、やめ、ッ、」

力の抜けてしまった彼の手からタオルが滑り落ちて、血がぽたぽたと垂れ落ちていく。

「っごめん、嫌だったね、ごめん、もうしないよ、ごめんね」

落ちたタオルを拾い上げて再び彼の額に押し当てると、ふらりと彼の上体が傾く。慌てて壁に凭れかからせる。それでも安定しない彼の身体を脇から支える。

引き攣ったような怪しい呼吸の合間で、苦しそうに嘔吐く彼は、自分の腕に爪を立てている。いや、立てるというより爪で抉っているという方が正しい。皮膚に深く捩じ込まれている爪は、見ているこっちが痛い。

「ねぇ、それ痛いでしょ?1回離そう?」

座位を保ってられない程身体の力は抜けているのに、腕に刺さっている爪はまるで接着剤でも付いているのかというくらいに、僕がどれだけ力を込めて離そうとしても離れてくれない。

「お願いだから離してよ、ねぇってば」

どんなに問い掛けても、激しく荒れた呼吸音しか返って来ない。怖い。人がこんなに錯乱しているのを見たことがなかったから。知らなかった。僕はこんなにも無力だったなんて。

唐突に気を失った彼が床に倒れて漸く、腕から手を離すことが出来た。腕には血が滲んでしまっていた。

僕は震えた手で救急車を呼んだ。



────……



病院の処置室で意識が戻った彼は開口一番、僕に頭を下げた。

「……汚いもの見せてすみません」
「謝って欲しいわけじゃないよ。でも、……生きた心地がしなかった」
「……」
「君が生きてて良かったよ」

そう言うと、彼が熱で潤んだ目で僕を見上げた。心底信じられない事を聞いたような表情だ。

「……先輩は、俺が生きてる方がいいんですか?」
「うん、当たり前だよ」
「恩知らずでクソ生意気な後輩で、自己中で最悪な兄貴でも?」
「君は、君が思ってるよりずっと優しいよ」

わかって欲しい。彼は沢山、たくさん頑張っていたことを。

「よく頑張ったね。僕がいっぱい甘やかしてあげるね」
「……そういうのは要らない」
「ひゃっひゃっ、言うと思った~」

わしゃわしゃと頭を撫でると、嫌そうな顔をしても避けようとはしない彼。

「弟っぽくて可愛い~」
「……は?」

思ったことがそのまま口に出てしまっていた。それを聞いた彼が目を真ん丸に見開いて固まっている。それはもう信じられないと言わんばかりに。本気で訳が分からないという顔。彼のことを無愛想だと彼自身も含めて人は言うけど、結構表情豊かだと思う。

「そうだ、今日何食べたい?」
「……ぇ、別になんでも……」
「じゃ、シチューかカレーだったら?」
「なんで俺に訊くんですか……?」
「ん?帰るでしょ?僕の家に」

潤んだ目が数回、ぱちくりと瞬きを繰り返した。

「あ、嫌だった?うん、それは君の自由だから別に」
「俺が、……俺が居ていいんですか」

僕の声を遮って不安そうに訊いてきた彼の目は、ゆらゆらと行き場をなくしたように揺れている。

「当たり前じゃん。君が嫌になるまでずっと一緒だからね」

お願いだから、そんな顔をもうしないで欲しい。させたくない。誰かを信じることはまだ難しいかもしれない。だけど僕のことは、僕のことだけは、信じて欲しい。

「俺、ずっと居座りますよ。彼女とか絶対出来ないし、親と和解とか死んでも無理だから」
「うん、それでいいよ」
「……なんでそんな優しいんですか?」
「ん~、君が可愛いからかな」
「……きっしょ」

お、普段の悪態が復活した。良かった。ここ最近はすっかり他人行儀で寂しかったから。

「ひゃっひゃっ、君こそこんなきしょいのと一緒に暮らすの嫌じゃないの?」
「……別に、俺は……いいですけど」

もう1回改めて頭をわしゃわしゃと撫でようとすると、今度は避けられた。さっきは僕の言葉を気にして避けるのを躊躇ったのだろう。

こういう簡単には人に懐かないところとか、甘え下手で不器用なところとか。

「やっぱ可愛い~」
「アンタ目ぇおかしいんじゃないの」




fin.
4/4ページ