俺だって
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耳慣れた着信音が部屋に響いて、いつ間にか眠っていた俺の意識を呼び戻した。早く出ろと言わんばかりに、机の上に置かれた携帯が振動して少しずつ動いている。
何となく、布団を被って耳を塞いだ。それなのに、くぐもった着信音に耳を澄ませてしまう。バタバタと忙しない足音が近付いて、着信音は聴こえなくなった。
「はいはい、どした~?……あ~……、辛いね。薬が効かないのなら病院、……嗚呼でも近くにないんだっけ」
先輩が困っている。俺のせいで。
「タクシーとかでも無理そう?……あ~、吐き気か。ごめんね、僕今ちょっと手が離せなくて。他に頼れる人は──」
俺のせいだ。俺なんて置いていけばいいのに。別にひとりでも大丈夫だから。平気だから。そう伝えなくては。
『お兄ちゃんなんだから』
『どうして弟に優しく出来ないの』
『あの子は身体が弱いのに』
『なんでお前じゃなくてあの子なのかしらね』
『お兄ちゃんばっかり元気でずるい!』
『ボクはいっぱい我慢してるのに!なんで!』
思い出さなくていい言葉たちが、思い出したくもない記憶が、脳内を駆け巡って声が出せない。言葉が出せない。
そうだ。俺はずるい。それは確かだ。
吸い込んだ空気は声になることはなく、喉を通り抜けていくだけ。目の奥がかあっと熱くなって、喉が締め付けられる。心臓が身体の外にでも出たのかというくらいに五月蝿い。なのに息が苦しい。
やがて視界がぼやけていく。嫌だ、ここで泣きたくなんかない。泣くわけにはいかない。今まで泣いたことなんてなかったのに。一人の時は涙なんて出なかったのに。出せなかったのに。なんで、今になって。
「……っ」
腕に爪を立ててみても、髪を引っ張ってみても、溢れてくる涙が止まる気配はない。おまけに手の力が抜けて、痛みは引いていく。痛みに気を逸らせることも出来なくなって余計に苦しい。
布団を被り直して枕に目を思い切り押し当てる。
止まれ、止まれ止まれ止まれ……!
「ちょちょちょ!息出来なくなっちゃうよ!」
「っや、」
「……泣いてるの?どうした?何か嫌なことあった?」
「や、だ!見ん、な……っ、どっか、いけ、って」
見られた。見られたくなかったのに。涙まだ止まってないのに。最悪だ。しゃくり上がる息も何もかもが恨めしく思う。
「どこにも行かないよ」
「おれにかまうな!やさしくすんな!」
荒らげた声は酷く掠れていて、自分の弱さを象徴しているかのようで聞き苦しい。
「あいつ、んとこ、いけよ」
「君はそれでいいの?」
「……は、なに、それ」
哀れまれているのか。高卒で、バイトでギリギリ食い繋いでいて、社会から孤立していて。可哀想だから、そう思っているから優しくしているだけなんだ。そうでもなきゃこんな甲斐甲斐しく世話なんてしない。情が冷めたら俺なんていとも簡単に捨てられる。それを止める権利は俺には無い。捨てられて、当たり前だからだ。
「そういうのいいから、ひとりにさせろよ。どっか行けって言ってるだろ」
「でも……」
自分が惨めだった。先輩に哀れまれていることよりも、その哀れみですら欲している俺が。一番醜くて、惨めだ。
「いいっつってんだろ!キモいんだよ!!」
「……そっか」
言い過ぎたと気付いた時はもう遅かった。先輩は眉を下げて、はっきりと悲しみをその表情に浮かべていた。
「……迷惑だったね、ごめんね」
笑おうとして無理矢理上げられた口角が痛々しい。やってしまった。先輩を傷付けてしまった。さあっと血の気が引いていく。駄目だ。俺がショックを受けるのはお門違いだ。俺が、先輩を心無い言葉で傷付けたのだから。
「ちが、く……て、あの、その、……っ」
どうしよう。どうしたらいい。先輩がせっかく一緒に暮らそうと言ってくれたのに、俺のせいで多分白紙になった。そうしたら俺はまたあの家で、あの生活に戻らなくてはならない。……家に帰りたくない。俺がこんな事思う資格はない。ないけれど、本気で思う。自分で自分が怖い。いつか弟に手を上げてしまいそうで。親父と同類になりそうで。自分勝手な思考だけど、本当に怖い。
「っ、は……」
「呼吸、速いね」
違う。俺はこんな気の利いた言葉を、事をひとつもアイツにしてやれていない。心配のひとつもしてやれない。自分のことばかり考えて、自分が一番不幸だと信じて疑わなくて、本当に苦しんでいたアイツを支えてやれなかった。一番苦しいのは、しんどいのは、辛いのはアイツなのに。
「何が嫌だった?僕が出ていった方が良いと思うんだけど、落ち着くまではここに居させて」
違う、違うのに。俺はなんで。こんな。
口元に袋があてがわれて、正しい呼吸のリズムを教えるように背中を優しく叩かれる。お手本のような対処法だ。
先輩はバイトの時もずっと、誰かが困っていたら助けずにはいられない人だ。見返りなんて一切求めていない。相手に裏があるんじゃないか、本当は辛くないのに辛いフリをして楽をしようとしているんじゃないのか。そんな邪推で心が真っ黒になった事なんて無いのだと思う。まさにお人好し。その言葉がピッタリの人だ。
人の痛みに真っ直ぐに共感して、迷わず手を差し伸べる。なんて綺麗な人だろうか。
「大丈夫、落ち着いてきてるよ」
消えてしまいたい。はっきりとそう思った。綺麗なこの人の瞳にこれ以上映りたくない。俺が、俺なんかが優しくされてはいけない。この曇り無き優しさを享受すべき人間は俺ではない。俺であっていい筈がない。
もう、自分なんて見当たらない。絶望の波でぐちゃぐちゃに揉まれてどこかへ消えてしまった。
「……あいつ、の、……おとうとの、ようす、みにいってやってください」
それからはあまり覚えていない。気が付いたら部屋にひとりだった。涙はもう止まっていて、高熱の時特有の悪寒と気怠さだけが残っていた。
────……
俺には向いていなかったんだ。
あんなに妬んでいた優しさを、いざ自分に向けられた途端に胸がザワザワして気持ちが悪かった。こんなものを素直に受け止められるアイツと俺とでは、やっぱり人間として根本的に違うのだと悟った。
俺という人間は、優しさを真っ直ぐ受け止めることが出来ない。だから当然、他人にそれを与えることも出来ない。そのくせ、他人が受け取っている優しさを妬む。
誰かから愛されることなんて、きっとない。
現に今、こんなに優しくしてくれた先輩に当たり散らかした。やっぱり、腹を痛めて産んだ筈の親に愛されなかっただけある。本当に愛される才能も資格もない。
「……死ねばいいのに」
傷付いた先輩の顔が忘れられない。ここは先輩の家だろ。どっか行けとか、何様だよ。どっか行くのは俺の方だろ。自己嫌悪で死にそうだ。寧ろ殺して欲しい。
身体のあちこちを力の限り殴ってみたり、爪を立てて抓ってみたり、髪の毛が抜けるくらい強く頭を掻き毟ったり。
痛い。痛いけれど、このまま部屋でひとりで考え込んでいたら本当に頭がおかしくなりそうだ。痛みで上書きされているくらいが、気も紛れて丁度いい。
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耳慣れた着信音が部屋に響いて、いつ間にか眠っていた俺の意識を呼び戻した。早く出ろと言わんばかりに、机の上に置かれた携帯が振動して少しずつ動いている。
何となく、布団を被って耳を塞いだ。それなのに、くぐもった着信音に耳を澄ませてしまう。バタバタと忙しない足音が近付いて、着信音は聴こえなくなった。
「はいはい、どした~?……あ~……、辛いね。薬が効かないのなら病院、……嗚呼でも近くにないんだっけ」
先輩が困っている。俺のせいで。
「タクシーとかでも無理そう?……あ~、吐き気か。ごめんね、僕今ちょっと手が離せなくて。他に頼れる人は──」
俺のせいだ。俺なんて置いていけばいいのに。別にひとりでも大丈夫だから。平気だから。そう伝えなくては。
『お兄ちゃんなんだから』
『どうして弟に優しく出来ないの』
『あの子は身体が弱いのに』
『なんでお前じゃなくてあの子なのかしらね』
『お兄ちゃんばっかり元気でずるい!』
『ボクはいっぱい我慢してるのに!なんで!』
思い出さなくていい言葉たちが、思い出したくもない記憶が、脳内を駆け巡って声が出せない。言葉が出せない。
そうだ。俺はずるい。それは確かだ。
吸い込んだ空気は声になることはなく、喉を通り抜けていくだけ。目の奥がかあっと熱くなって、喉が締め付けられる。心臓が身体の外にでも出たのかというくらいに五月蝿い。なのに息が苦しい。
やがて視界がぼやけていく。嫌だ、ここで泣きたくなんかない。泣くわけにはいかない。今まで泣いたことなんてなかったのに。一人の時は涙なんて出なかったのに。出せなかったのに。なんで、今になって。
「……っ」
腕に爪を立ててみても、髪を引っ張ってみても、溢れてくる涙が止まる気配はない。おまけに手の力が抜けて、痛みは引いていく。痛みに気を逸らせることも出来なくなって余計に苦しい。
布団を被り直して枕に目を思い切り押し当てる。
止まれ、止まれ止まれ止まれ……!
「ちょちょちょ!息出来なくなっちゃうよ!」
「っや、」
「……泣いてるの?どうした?何か嫌なことあった?」
「や、だ!見ん、な……っ、どっか、いけ、って」
見られた。見られたくなかったのに。涙まだ止まってないのに。最悪だ。しゃくり上がる息も何もかもが恨めしく思う。
「どこにも行かないよ」
「おれにかまうな!やさしくすんな!」
荒らげた声は酷く掠れていて、自分の弱さを象徴しているかのようで聞き苦しい。
「あいつ、んとこ、いけよ」
「君はそれでいいの?」
「……は、なに、それ」
哀れまれているのか。高卒で、バイトでギリギリ食い繋いでいて、社会から孤立していて。可哀想だから、そう思っているから優しくしているだけなんだ。そうでもなきゃこんな甲斐甲斐しく世話なんてしない。情が冷めたら俺なんていとも簡単に捨てられる。それを止める権利は俺には無い。捨てられて、当たり前だからだ。
「そういうのいいから、ひとりにさせろよ。どっか行けって言ってるだろ」
「でも……」
自分が惨めだった。先輩に哀れまれていることよりも、その哀れみですら欲している俺が。一番醜くて、惨めだ。
「いいっつってんだろ!キモいんだよ!!」
「……そっか」
言い過ぎたと気付いた時はもう遅かった。先輩は眉を下げて、はっきりと悲しみをその表情に浮かべていた。
「……迷惑だったね、ごめんね」
笑おうとして無理矢理上げられた口角が痛々しい。やってしまった。先輩を傷付けてしまった。さあっと血の気が引いていく。駄目だ。俺がショックを受けるのはお門違いだ。俺が、先輩を心無い言葉で傷付けたのだから。
「ちが、く……て、あの、その、……っ」
どうしよう。どうしたらいい。先輩がせっかく一緒に暮らそうと言ってくれたのに、俺のせいで多分白紙になった。そうしたら俺はまたあの家で、あの生活に戻らなくてはならない。……家に帰りたくない。俺がこんな事思う資格はない。ないけれど、本気で思う。自分で自分が怖い。いつか弟に手を上げてしまいそうで。親父と同類になりそうで。自分勝手な思考だけど、本当に怖い。
「っ、は……」
「呼吸、速いね」
違う。俺はこんな気の利いた言葉を、事をひとつもアイツにしてやれていない。心配のひとつもしてやれない。自分のことばかり考えて、自分が一番不幸だと信じて疑わなくて、本当に苦しんでいたアイツを支えてやれなかった。一番苦しいのは、しんどいのは、辛いのはアイツなのに。
「何が嫌だった?僕が出ていった方が良いと思うんだけど、落ち着くまではここに居させて」
違う、違うのに。俺はなんで。こんな。
口元に袋があてがわれて、正しい呼吸のリズムを教えるように背中を優しく叩かれる。お手本のような対処法だ。
先輩はバイトの時もずっと、誰かが困っていたら助けずにはいられない人だ。見返りなんて一切求めていない。相手に裏があるんじゃないか、本当は辛くないのに辛いフリをして楽をしようとしているんじゃないのか。そんな邪推で心が真っ黒になった事なんて無いのだと思う。まさにお人好し。その言葉がピッタリの人だ。
人の痛みに真っ直ぐに共感して、迷わず手を差し伸べる。なんて綺麗な人だろうか。
「大丈夫、落ち着いてきてるよ」
消えてしまいたい。はっきりとそう思った。綺麗なこの人の瞳にこれ以上映りたくない。俺が、俺なんかが優しくされてはいけない。この曇り無き優しさを享受すべき人間は俺ではない。俺であっていい筈がない。
もう、自分なんて見当たらない。絶望の波でぐちゃぐちゃに揉まれてどこかへ消えてしまった。
「……あいつ、の、……おとうとの、ようす、みにいってやってください」
それからはあまり覚えていない。気が付いたら部屋にひとりだった。涙はもう止まっていて、高熱の時特有の悪寒と気怠さだけが残っていた。
────……
俺には向いていなかったんだ。
あんなに妬んでいた優しさを、いざ自分に向けられた途端に胸がザワザワして気持ちが悪かった。こんなものを素直に受け止められるアイツと俺とでは、やっぱり人間として根本的に違うのだと悟った。
俺という人間は、優しさを真っ直ぐ受け止めることが出来ない。だから当然、他人にそれを与えることも出来ない。そのくせ、他人が受け取っている優しさを妬む。
誰かから愛されることなんて、きっとない。
現に今、こんなに優しくしてくれた先輩に当たり散らかした。やっぱり、腹を痛めて産んだ筈の親に愛されなかっただけある。本当に愛される才能も資格もない。
「……死ねばいいのに」
傷付いた先輩の顔が忘れられない。ここは先輩の家だろ。どっか行けとか、何様だよ。どっか行くのは俺の方だろ。自己嫌悪で死にそうだ。寧ろ殺して欲しい。
身体のあちこちを力の限り殴ってみたり、爪を立てて抓ってみたり、髪の毛が抜けるくらい強く頭を掻き毟ったり。
痛い。痛いけれど、このまま部屋でひとりで考え込んでいたら本当に頭がおかしくなりそうだ。痛みで上書きされているくらいが、気も紛れて丁度いい。
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