俺だって

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大学からの帰り道、こんな土砂降りの雨の中傘もささずに蹲っている人がひとり。しかもそれは知り合い。そして先日のことがあって気まずい。だけど見付けてしまった手前、素通りも出来ない。

「大丈夫?傘は?」

彼の肩に手を置くと、即座に跳ね除けられた。この子は相変わらずだ。世の中のすべてが敵、というような。そんな感じの子。他人を寄せ付けないその性格のせいで、他のスタッフから煙たがられているのは確かだ。

「どう、……」

顔を覗き込んでギョッとした。いつものこちらを刺すような反抗的な目ではなく、虚ろな、明らかに焦点が合っていない目が、ゆらゆらと弱々しく揺れていた。

「……かね、ないから」
「財布忘れた?言ってくれたら貸したよ?」
「ちがうよ、かねが、ないの」

彼のすべてが震えている。声も身体も、きっと心も。意識が朦朧としているのか、呂律も回っていない。こんな彼は初めて見る。それもそうだ、彼とはバイト先でしか会わないのだから。先日のがイレギュラーだったんだ。

「でもあんなにバイト詰め込んで、」

家も綺麗に整理整頓されていて、お金に困っている様子は微塵も感じられなかった。リビングにでかいシャンデリアか何かがあったような気がしたけど、傘を買うお金が無いってのはどういう事なのか。

「あいつ、のせい。あいつが大学なんていくから。おれの養育費だけでよかったのに、あいつの分も、おれがはらわなきゃ」

養育費?学費?およそ歳のあまり変わらない子から聞こえてくる単語ではない。学費はともかく、養育費なんて。

「おれは、薬かうのもがまんしたのに、あいつはすぐ休んで、あまやかされて、むかつくにきまってんだろ」

この子がぎゅうぎゅうにバイトのシフトを詰め込んでいる理由は、弟くんの、為。

「おれだって、大学、いきたかった」

あまりにも悲痛な叫びだった。自分が彼に言った言葉や取った態度が、彼にとってどれ程残酷なものだったのかと思い知らされた。

「……暖かい所に行こう?」

訊きたいことは山ほどある。けれど今は彼の濡れている身体をどうにかするのが先だ。

手を差し伸べても、首を横に振るばかりでその場から動こうとはしない。こんな状態でも尚、誰かを頼ろうとしない事に心がチクリと痛んだ。




────…



彼の体温を報せて音が鳴った体温計の液晶には38.1℃の文字。結局あの後無理矢理家に連れ帰り、着替え一式とタオルとで温まらせた。が、やはりあの雨の中で濡れていたのだから無理もない。

「……学費のことは弟くん知ってるの?」
「しらないとおもう、言ってないから」
「言おうとは思わないの?」
「おれの金ってしったら、あいつえんりょ、する。むりしてはたらこうとする。あいつ、からだ弱いくせに」

彼は僕が言うまでもなく、お兄ちゃんだった。ずっと、ずっとお兄ちゃんをやってきていた。どうしようもなく不器用で、誰よりも優しいお兄ちゃん。

「……無遠慮な事言って、本当にごめん」
「べつに、事実だから」
「違うよ、君は頑張ってる」
「お兄ちゃんだから」

へらりと笑ってはいるけれど、目の奥は笑っていない。何度も何度も言われてきたのだと思う。「お兄ちゃんなんだから弟を優先しなさい」とか、「お兄ちゃんなんだから我慢しなさい」とか。きっとその度に彼は自分を殺して「お兄ちゃん」になってきたのだと思う。

そんな彼に、僕は追い討ちのように「お兄ちゃんなんだから」と放ったのだ。弱っていた彼に。事情を知らなかったとはいえ、僕は彼を追い詰めるひとりになってしまったのだ。

「……頭は今も痛い?」
「……」

彼は答えない。何かを言おうとしてはいるけれど、声にはなっていない。僕があの日、仮病を疑ってしまった事は彼に大きな傷を負わせてしまっていた。彼のSOSを、蔑ろにしてしまったのだから、当たり前と言えば当たり前だ。

「病院、行こ?」
「……もったいないから、いい」
「もったいな……、まぁでも、……んー……」

彼の状況を考えれば病院に行くことを渋るのは分かる。自分の事を大事にして欲しいと思うが、彼を傷付けてしまった僕が言えたことではない。

「今は頭痛の具合はどう?」
「意識は保ってられるし、たいしたことない」
「……病院行こうよ」
「こんな程度で」
「でも辛いでしょ?」
「……我慢、できる」

絶対に連れていこうと心に決めた。彼は無理矢理にでも連れていかないと絶対に自分では行かないだろう。ただ、今日は日曜日。病院は開いていない。取り敢えず市販薬を飲ませて様子見しよう。



───……


「ねぇ、ひとつ提案なんだけどさ」
「……病院ならいかない」

頑固だなこの子。でも僕の提案はそれじゃない。病院は僕が引き摺ってでも連れていく予定。

「僕の家で暮らさない?」
「……はぁ?冗談はやめてくださいよ」
「いや、本気で。今までの養育費払えって流石におかしいよ。それに弟くんの分もなんでしょ?」

どう考えても普通ではない。親が自分の子供に掛けたお金をその子供から回収する意味が分からない。そこに加えて弟くんの学費まで彼に出させてるなんて、どんな思考回路をしていたらそうなるのか。理解出来ない。したくもない。

毎月15万近く振り込んでいると訊いてますます意味が分からない。しかもあの家の内装を見る限り、お金に困っている様子ではなかった。この子だけが理不尽に苦しんでいる。身勝手な親のせいで彼は行きたかった大学も諦めて、ただひたすらに弟くんの為に働いて。あんまりじゃないか。

「勉強なら僕が教える。君のやる気次第だけど、今からでも遅くないよ」
「……おかね、ない」
「お金なら僕が貸すよ。なんならあげたっていい」
「……それは、返します、絶対。俺の言葉は、信じられないかもですけど」

嗚呼、やっぱり僕が仮病を疑ってしまった事は、彼の傷になってしまっている。本当に軽率な言動をとってしまった自分が恥ずかしい。

「信じるよ、絶対」

もう疑ったりなんてしない。そう決めて差し出した手は握り返されずに、行き場を失って宙を彷徨う。

「でも、弟が」
「一緒に来る?」
「……」

彼からの次の言葉がない。何かを言いかけて、でも止めて、を繰り返している。彼の中で何かを天秤にかけている。僕は彼の言葉を続くのをただひたすらに、背中を摩りながら待ち続けた。

「……おれ、最低なやつだから、弟とは、……一緒に住みたく、ない、です」
「わかった、じゃあ」
「でも、おれ、愛想ないし、可愛げもないし、だから、弟だけ、先輩に」

嗚呼、この子はこの期に及んで自分ではなく、弟くんを優先したのか。彼の大きな目からぽろぽろと涙が落ちていく。

「弟見てると、駄目で、いつか殴っちゃいそう、で……、っ、親父と、同じになりたくな、い」

まさか。まさかこの子は暴力も受けていたのか。実の親から。その小さな背中にどれだけの重荷を、傷を、痛みを背負ってきたのだろうか。積み重ねれたそれらが、眠れない程の頭痛となって彼を襲い続けていたら、限界が来ないわけがない。

彼に今まず必要なのは、弟くんとの隔離だろう。弟思いだからこそ、彼はこんなになるまで頑張って、働いて、看病もしていた。だから暫くの間、彼が落ち着くまで距離を置いてやればきっと弟くんと仲直り出来る筈。弟くんだって、お兄ちゃんである彼のことを嫌いなわけではないのは、僕が訊いて分かっている。

目の前で小さく震えている彼をそっと抱き締めて背中をゆっくりと摩ると、幾らか落ち着いたのか僕の肩に頭を預けてくれた。

「今日は一緒にゆっくり休もうね。で、明日は一緒に病院に行こうね」
「……うん」

彼の心に余裕が生まれるまでは、この家で沢山たくさん甘やかしてあげよう。


────……


「熱下がらないね」

それどころか上がっている。体温計の液晶には39℃近い表示。立派な高熱だ。彼の弟くんは今家にひとりの筈。そっちの様子も見に行きたいけれど、彼がこの状態では無理だ。苦しそうな咳を繰り返している彼を、放っておくなんて僕には出来ない。

「……あい、つは、」

咳のせいで彼の声が途切れてしまう。

「ピークの時は39℃超えてたけど、僕が帰る頃には大分下がってたよ。7℃ちょいくらいまで」
「そ、う……」

自分が辛いのに弟くんの心配を止めない彼は、立派な「お兄ちゃん」だ。

「弟くんから訊いたよ。僕が帰った後、冷えピタ交換してくれたり、お粥作ってくれたって」
「……別に、そんなの」

そう、彼にとっては当たり前の事。お兄ちゃんとして、家族として。身体が弱い弟くんを看病する事は、当たり前。

「頭痛かったのによく頑張ったね」

汗で少し濡れている彼の前髪を撫でて笑いかけると、気持ち良さそうに目を細めた。髪を撫で続けていると、市販薬が効いてきたのか彼の目がとろんと微睡み始めた。

「……おやすみ」
「……んぅ……」

普段の彼からは想像も付かないような、気の抜けた返事のすぐ後に彼は寝息を立て始めた。その寝顔は幼い子供のようで、可愛いとさえ思った。

弟くんの事も心配だけど、暫くはこの寝顔を眺めていようかな。


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