黯然銷魂
side.成瀬
彼──神山さんは私と出逢った頃、それ以前の記憶を失っていた。
いや、出逢ったというよりは私が彼を拾ったとでも言う方が正しいかもしれない。なにせ、彼は土砂降りの雨の中、誰かの墓石の前で傘も差さずに佇んでいたのだから。そして目の前で倒れた彼を連れ帰り、意識が戻り諸事情を訊こうとした段階で、神山さんの記憶が欠落している事が分かった、という具合だ。
そして神山さんは度々パニック発作のようなものを起こす。今回もおそらくは。
彼の部屋の中から聴こえてくる叫び声と激しい物音。扉を開けた途端に飛んできた何かの破片が頬を掠めていく。
「……ッ」
文字通り、暴れていた。部屋中の物を手当り次第に薙ぎ払っては悲痛な叫び声を上げて。きっと私がここに居る事に彼は気付いていない。いや、あれだけ錯乱していては気付けやしない。
どうしたらいい。どうすれば。考えろ。考えるんだ。
何も出来ずに部屋の入口で立ち竦む私に、今まで以上に苦しげな彼の叫びが聴こえた。ハッとして神山さんの姿を見れば彼の腕が真っ赤に染まっている。駄目だ。このままでは。
返り討ちに遭う危険性など考えずに、彼の正面から肩を掴み、その名前を呼び叫んだ。
「神山さん!!」
すると彼の動きがぴたりと止まった。良かった、と思ったのも束の間、彼の身体がゆらと揺れて傾く。それを慌てて抱き留めて抱える。とにかく手当てをしないと。
不意に腕の中の彼の呼吸が荒くなっていく。頭が痛むのか手で押さえながら何かを必死に振り払うように、「違う、知らない」と繰り返し叫ぶ彼を、私はただひたすらに抱き締めてやるしか出来ない。
呼吸が落ち着くまで、ただひたすらに。
彼をベッドに座らせる。大人しく従う彼は意識はあるものの、ぼんやりとしているらしくその目は虚ろだ。
持ってきた救急箱で、彼の傷を手当てしていく。ぬるま湯で濡らしたタオルで血を拭き取って、痛々しい傷に消毒液を掛けて丁寧にガーゼを当てて包帯を巻いていく。が、痛みを感じていないのか、その様子を表情ひとつ変えずに眺めている彼が居た。
まるであの雨の中に佇んでいた彼と同じように。
彼の口から漏れ出した「ミサキ」という単語の意味を、私は知っている。神山さんが眺めていた墓石に刻まれていた名前だ。弁護士という職務の権限をフル活用して、どんな経緯で亡くなってしまったのか、そして神山さん本人の素性やミサキさんとの関係など、事細かに調べた。
神山さんを壊してしまった真実は残酷なものだった。
彼がこうして自分で自分の身を傷付ける行為自体は初めてではない。その度に私が手当てをしてきた。おかげで止血法や包帯の巻き方などに詳しくなった。
ふと、視界に割れた薬の瓶が入る。それを手に取って辛うじて読めるラベルを読むと、所謂風邪薬の商品名。今の彼の状態を見るにこの中身を多めに飲んだのは確かだろう。だがどれだけ飲んだかは分からない。彼に問いかけても返事はない。ただ、痛みを感じていないであろう事を鑑みると、他にも。
こんなものに頼らなければいけない程彼は苦しんでいるのか。そんなに傷だらけにならなければいけない程彼は辛いのか。否、それ程の傷を彼は負ったのだ。そしてそれは決して消えることはない、呪いのようなもの。
もしかして此処に連れ帰った事は間違いだったのだろうか。僕では神山さんの傷を、痛みを、呪いを取り除いてやることは不可能なのだろうか。
彼の頬を撫でると確かに手に伝わる体温。彼は生きている。その身に傷や痛みを抱えながら。だけども、それの吐き出し方が分からない彼は、こうして。嗚呼ほら、今も笑っている。僕の髪を弄りながら柔らかい微笑みを浮かべている。
これ以上彼が苦しむところを見たくないのに。これ以上傷を増やして欲しくないのに。何も出来ないのがもどかしい。
人を法で救うという仕事に就いておきながら、目の前のひとりすら救えない。大切な家族を守れなかったあの頃のまま、変わらない。
──僕は、無力だ。
fin.
彼──神山さんは私と出逢った頃、それ以前の記憶を失っていた。
いや、出逢ったというよりは私が彼を拾ったとでも言う方が正しいかもしれない。なにせ、彼は土砂降りの雨の中、誰かの墓石の前で傘も差さずに佇んでいたのだから。そして目の前で倒れた彼を連れ帰り、意識が戻り諸事情を訊こうとした段階で、神山さんの記憶が欠落している事が分かった、という具合だ。
そして神山さんは度々パニック発作のようなものを起こす。今回もおそらくは。
彼の部屋の中から聴こえてくる叫び声と激しい物音。扉を開けた途端に飛んできた何かの破片が頬を掠めていく。
「……ッ」
文字通り、暴れていた。部屋中の物を手当り次第に薙ぎ払っては悲痛な叫び声を上げて。きっと私がここに居る事に彼は気付いていない。いや、あれだけ錯乱していては気付けやしない。
どうしたらいい。どうすれば。考えろ。考えるんだ。
何も出来ずに部屋の入口で立ち竦む私に、今まで以上に苦しげな彼の叫びが聴こえた。ハッとして神山さんの姿を見れば彼の腕が真っ赤に染まっている。駄目だ。このままでは。
返り討ちに遭う危険性など考えずに、彼の正面から肩を掴み、その名前を呼び叫んだ。
「神山さん!!」
すると彼の動きがぴたりと止まった。良かった、と思ったのも束の間、彼の身体がゆらと揺れて傾く。それを慌てて抱き留めて抱える。とにかく手当てをしないと。
不意に腕の中の彼の呼吸が荒くなっていく。頭が痛むのか手で押さえながら何かを必死に振り払うように、「違う、知らない」と繰り返し叫ぶ彼を、私はただひたすらに抱き締めてやるしか出来ない。
呼吸が落ち着くまで、ただひたすらに。
彼をベッドに座らせる。大人しく従う彼は意識はあるものの、ぼんやりとしているらしくその目は虚ろだ。
持ってきた救急箱で、彼の傷を手当てしていく。ぬるま湯で濡らしたタオルで血を拭き取って、痛々しい傷に消毒液を掛けて丁寧にガーゼを当てて包帯を巻いていく。が、痛みを感じていないのか、その様子を表情ひとつ変えずに眺めている彼が居た。
まるであの雨の中に佇んでいた彼と同じように。
彼の口から漏れ出した「ミサキ」という単語の意味を、私は知っている。神山さんが眺めていた墓石に刻まれていた名前だ。弁護士という職務の権限をフル活用して、どんな経緯で亡くなってしまったのか、そして神山さん本人の素性やミサキさんとの関係など、事細かに調べた。
神山さんを壊してしまった真実は残酷なものだった。
彼がこうして自分で自分の身を傷付ける行為自体は初めてではない。その度に私が手当てをしてきた。おかげで止血法や包帯の巻き方などに詳しくなった。
ふと、視界に割れた薬の瓶が入る。それを手に取って辛うじて読めるラベルを読むと、所謂風邪薬の商品名。今の彼の状態を見るにこの中身を多めに飲んだのは確かだろう。だがどれだけ飲んだかは分からない。彼に問いかけても返事はない。ただ、痛みを感じていないであろう事を鑑みると、他にも。
こんなものに頼らなければいけない程彼は苦しんでいるのか。そんなに傷だらけにならなければいけない程彼は辛いのか。否、それ程の傷を彼は負ったのだ。そしてそれは決して消えることはない、呪いのようなもの。
もしかして此処に連れ帰った事は間違いだったのだろうか。僕では神山さんの傷を、痛みを、呪いを取り除いてやることは不可能なのだろうか。
彼の頬を撫でると確かに手に伝わる体温。彼は生きている。その身に傷や痛みを抱えながら。だけども、それの吐き出し方が分からない彼は、こうして。嗚呼ほら、今も笑っている。僕の髪を弄りながら柔らかい微笑みを浮かべている。
これ以上彼が苦しむところを見たくないのに。これ以上傷を増やして欲しくないのに。何も出来ないのがもどかしい。
人を法で救うという仕事に就いておきながら、目の前のひとりすら救えない。大切な家族を守れなかったあの頃のまま、変わらない。
──僕は、無力だ。
fin.
