狂気もまた愛

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ふと、隣にあった筈の温もりが無い事に気が付いて目が覚めた。確かにこの腕の中に抱き締めて眠った筈なのに。身体を起こして見ても、やっぱり居ない。かなり前から此処には居なかったのか、ベッドの彼が身を沈めていた部分の温もりすらない。一体どこへ。

「──?」

寝室から出ると聴こえてくる水の音。洗面所だ。

「……」

しっかりと閉められていた洗面所の扉をそっと開けると、彼はそこに居た。洗面台に手を付いて、流しっぱなしの水を虚ろな目で見ている。僕が来た事には気付いていないらしく、一切こちらを見ない。

彼の捲られた袖から見える腕には、無数の傷。切傷や擦過傷。全部彼が、自分で付けたもの。カッターできったり、血が出る程に掻き毟ったり。多分、その血を洗い流しに此処に来てそのまま呆然としているところなんだろう。

「──」

彼の名前を呼ぶと、ゆっくりとこちらに振り向いた。その表情は無だ。目に光なんてものは宿っていない。僕の事を認識しているかも怪しい。

「……あぁ、…起こしたか、…ごめん」

彼は蛇口のレバーを下ろして水を止めると、すっと僕の横を通り抜けて洗面所から出ていこうとする。思わず、彼の腕を掴んで引き留めていた。

「…なに?」

氷のように冷たい眼をした彼のその視界に、僕の姿は映っているんだろうか。

「……、あぁ、…俺は大丈夫だから」

何かを思い付いたように吐き出された言葉と、貼り付けたような微笑み。無理をしているのなんて見ればわかる。今もおそらく軽い発作のようなものを起こしている。少し息が上がっているのがその証拠。彼は僕の手を振り払うと洗面所を出ていった。

が、すぐに聴こえたどさ、という音。

「──!」

廊下の壁に凭れて座り込んで項垂れている彼に駆け寄って、触れようとした手は ぱしん、と渇いた音と共に弾かれてしまった。肩で息をする彼に今必要なのは 僕ではない。それを分からされたようで、涙が溢れてくる。

「薬、要る、よね?」
「……要らねぇ、から、あっちいってろ、」
「でも…」
「は…、それとも、また俺を、刺すか?」

彼の手が僕の手首を掴む。力こそ入っていないけど、その手は血が通っていないみたいに冷たくて。彼の傷だらけの腕と 彼の虚ろな眼と相俟って全身に鳥肌が立つ。

「なぁ、俺を殺してぇんだろ?殺れよ、ほら」

仰向けに床に倒れた彼が、僕の手をその首に誘導していく。違う、僕は彼を殺したいんじゃない。他の誰のものにもなって欲しくなくて。ただそれだけだったのに。僕はその方法を間違えてしまった。僕の狂った愛が、彼を狂わせてしまった。

やがて意識を失って ぱた、と床に投げ出された彼の腕に刻まれた傷をそっと撫でる。謝っても謝り切れないことをした。償っても償い切れないことをした。

あの日からろくに食べていない彼は僕でも抱き上げられる程軽くなってしまった。ふたりでお揃いにした指輪も、彼の左薬指でくるくると回ってしまう。こんなになる程に、僕は彼を追い詰めてしまったんだ。

どうするのが正解なのか分からない。彼が一番楽になる方法は何だろう。僕に何が出来るんだろうか。何も無いのかもしれない。僕が彼に何かする資格は無いのかもしれない。

「……ごめんね、」

眉間に皺を寄せたまま苦しげに眠る彼の唇に、そっと口付けを落とした。



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