紅鱗は水面に揺れ誘う
¨
「……あぁ……」
飼っている金魚の水槽を洗う為に、一時的に浴槽に水を貯めて放していた。普段きっちりと閉めている筈の浴槽の栓がほんの少しズレて、開いた隙間から呆気なく金魚は流れていってしまった。気付いた時には遅かった。
あの金魚は特に珍しい種類でも価値がある種類でも何でもない。子供の頃に地元の夏祭りの一角にあった金魚すくいで掬ったものだった。当時の俺には初めての生き物を飼うという体験だったこともあって、大層大切に大切に面倒を見ていた。実家を出て、一人暮らしを始める時にも連れてきた俺の可愛い可愛いペット。
大学で上手く行かない時も、バイト先で理不尽に怒られた時も。家に帰れば可愛い金魚が俺を出迎えてくれる。水槽の壁に指を置くと、その指に反応して追い掛けてくる様子がとても可愛らしい。荒んだ心を癒してくれる唯一の存在だった。
そんな子を俺の不注意で失くしてしまった。悔やんでも悔やみ切れない。
「化けてでもいいから出て来ないかな……」
あの子に会えるのならどんな姿であったって構わない。俺にはあの子が居ないと駄目なんだ。あの子だけが。
──ガタンッ!!
あの子を失ってしまった悲しみで自棄酒をして眠りこけていた俺を、馬鹿でかい音が起こした。一体何の音だろうか。何かが落ちたような。
音のした方は風呂場だ。近付くとかすかに水の流れる音もする。もしかして水を出しっぱなしにしていたか。
「……ぇ、」
風呂場の扉を開けて真っ先に目に入ってきたのは浴槽に浸かっている人。人?いや、上半身は人の成りをしているが、腰から下は赤い、鱗に覆われているし、なんていうか魚のヒレみたいな。なんだ?俺は何を見ているんだ?
「あ!」
幼さの残る顔立ちをしたその人…ではない何かは俺を認識した途端、目をキラキラと輝かせた。まるで迷子の子供が親を見付けた時のような。尾ひれ?のような部位が揺れている。
まさか。
「お前、……あの子、なのか」
そっと手を伸ばすと冷たい手で握り返された。嬉しそうに笑う姿が、水槽の中で楽しそうに泳ぐあの子に重なる。
あの子が帰ってきてくれた。
「ごはんは……このままでいいのかな」
元々あげていた金魚の餌。人間サイズになってしまったこの子にこんなちっぽけな量じゃまず足りない筈。だけど今はこれしかない。残っている分を浴槽に全部あけると、ぶくぶくとしながら水に浮かぶ餌たちを吸い込み始めた。可愛い。
サイズが人間とはいえ、多分食べられるものは金魚のそれと大差はない筈。パンなら足りるだろうか。
試しに買ってきた食パンをちぎって渡すと、余程美味しかったのか幸せそうに食べる。嗚呼、可愛い。本当にあの子が帰ってきたんだ。しかもこうして触れられる。
もうこの子さえ居ればいい。他には何も要らない。
「……水、汚れてきたね」
浴槽に張られた水はこの子が現れてから一度も替えていない。少し濁ってしまっている。衛生上よろしくはないから替えたいのだけど、問題は替えている間この子をどうするのかという。
「……ゃ」
水を替えようかと提案した俺の服をきゅっと掴んで、首を横に振るう。あぁそうか、この子は。俺の不注意で流れて。そうか、そうだよな。怖いよな。俺だって怖いよ。もう一度この子を失ってしまうのが。
「じゃ替えるのはやめようか」
「ん!」
─
───
─────………
この子が俺の元に帰ってきてからどれくらい経っただろう。毎日が幸せだ。俺にはこの子さえ居てくれたら何も要らないんだ。この子だけが。俺の癒しで救い。
ある日、大家さんが俺の家にやってきた。なんでも異臭がするとかで。確かにごみ捨てをサボっているのは否めない。でもそんな外に漏れるほどなのかな。
大家さんは俺が断るのも聞かずに部屋の中に入ってきた。やだなぁ。恥ずかしい。
「ごみ捨てくらいちゃんとしなさいよ」
「はぁ……」
「身なりもそんなみすぼらしくなって……」
そうなのかな。最近外に出てないから分からない。鏡も見ないし。まぁ、ちょっと顎がじょりっとしているのは分かるかも。
「風呂場も見るからね!」
「……!だめです、そこだけは!」
風呂場にはあの子が。あの子をとられてしまう。それだけは。それだけは阻止しないと。待って、あけないで。
「……っ、なにこれ、……」
ほら、いきなり開けるから怯えてるじゃないか。あぁ可哀想に。よしよし、怖かったね。すぐにこの人を追い出すからね。
「っとにかく!詰まってるなら業者呼ぶなりしてなんとかしなさいよ!ゴミも捨てなさい!」
大家さんは慌てた感じで出ていった。よかった。この子をとられなくて。よかった。また失ったら今度こそ立ち直れないよ。
よしよし、もう怖くないよ。俺が居るからね。ずっと。ずーっと一緒にいようね。
────……
「引き篭っていたし、鬱だったんじゃないかしら」
「まぁこの部屋の惨状を見ればなんとなく察します」
「そうね、最後に会った時はヘドロか何かが溜まった浴槽に向かって、名前を呼んでいたし」
「……あぁ」
「ほら、イマジナリーなんとかってやつよ」
「……本人は幸せだったのかもしれませんね」
「取り敢えず、他人に危害が行かなくて良かったわよ」
その部屋の床は足の踏み場など無い程にゴミで溢れ返っており、虫が湧いてあちらこちらを闊歩している。特殊清掃用のマスクをしていても、鼻がひん曲がってしまいそうな臭いが空間を埋めつくしている。
特に酷いのが浴室。浴槽に張られた真っ黒な液体。そして、やけにパンの外袋や空き缶が多く散乱している。おそらくだが大家が言っていた"存在しない何か"の為のものだったのだろう。
部屋の片隅に置かれた水槽だけが、異様に綺麗にされていた理由は、今はもう物言わぬこの部屋の主のみぞ知ることだ。
fin.
「……あぁ……」
飼っている金魚の水槽を洗う為に、一時的に浴槽に水を貯めて放していた。普段きっちりと閉めている筈の浴槽の栓がほんの少しズレて、開いた隙間から呆気なく金魚は流れていってしまった。気付いた時には遅かった。
あの金魚は特に珍しい種類でも価値がある種類でも何でもない。子供の頃に地元の夏祭りの一角にあった金魚すくいで掬ったものだった。当時の俺には初めての生き物を飼うという体験だったこともあって、大層大切に大切に面倒を見ていた。実家を出て、一人暮らしを始める時にも連れてきた俺の可愛い可愛いペット。
大学で上手く行かない時も、バイト先で理不尽に怒られた時も。家に帰れば可愛い金魚が俺を出迎えてくれる。水槽の壁に指を置くと、その指に反応して追い掛けてくる様子がとても可愛らしい。荒んだ心を癒してくれる唯一の存在だった。
そんな子を俺の不注意で失くしてしまった。悔やんでも悔やみ切れない。
「化けてでもいいから出て来ないかな……」
あの子に会えるのならどんな姿であったって構わない。俺にはあの子が居ないと駄目なんだ。あの子だけが。
──ガタンッ!!
あの子を失ってしまった悲しみで自棄酒をして眠りこけていた俺を、馬鹿でかい音が起こした。一体何の音だろうか。何かが落ちたような。
音のした方は風呂場だ。近付くとかすかに水の流れる音もする。もしかして水を出しっぱなしにしていたか。
「……ぇ、」
風呂場の扉を開けて真っ先に目に入ってきたのは浴槽に浸かっている人。人?いや、上半身は人の成りをしているが、腰から下は赤い、鱗に覆われているし、なんていうか魚のヒレみたいな。なんだ?俺は何を見ているんだ?
「あ!」
幼さの残る顔立ちをしたその人…ではない何かは俺を認識した途端、目をキラキラと輝かせた。まるで迷子の子供が親を見付けた時のような。尾ひれ?のような部位が揺れている。
まさか。
「お前、……あの子、なのか」
そっと手を伸ばすと冷たい手で握り返された。嬉しそうに笑う姿が、水槽の中で楽しそうに泳ぐあの子に重なる。
あの子が帰ってきてくれた。
「ごはんは……このままでいいのかな」
元々あげていた金魚の餌。人間サイズになってしまったこの子にこんなちっぽけな量じゃまず足りない筈。だけど今はこれしかない。残っている分を浴槽に全部あけると、ぶくぶくとしながら水に浮かぶ餌たちを吸い込み始めた。可愛い。
サイズが人間とはいえ、多分食べられるものは金魚のそれと大差はない筈。パンなら足りるだろうか。
試しに買ってきた食パンをちぎって渡すと、余程美味しかったのか幸せそうに食べる。嗚呼、可愛い。本当にあの子が帰ってきたんだ。しかもこうして触れられる。
もうこの子さえ居ればいい。他には何も要らない。
「……水、汚れてきたね」
浴槽に張られた水はこの子が現れてから一度も替えていない。少し濁ってしまっている。衛生上よろしくはないから替えたいのだけど、問題は替えている間この子をどうするのかという。
「……ゃ」
水を替えようかと提案した俺の服をきゅっと掴んで、首を横に振るう。あぁそうか、この子は。俺の不注意で流れて。そうか、そうだよな。怖いよな。俺だって怖いよ。もう一度この子を失ってしまうのが。
「じゃ替えるのはやめようか」
「ん!」
─
───
─────………
この子が俺の元に帰ってきてからどれくらい経っただろう。毎日が幸せだ。俺にはこの子さえ居てくれたら何も要らないんだ。この子だけが。俺の癒しで救い。
ある日、大家さんが俺の家にやってきた。なんでも異臭がするとかで。確かにごみ捨てをサボっているのは否めない。でもそんな外に漏れるほどなのかな。
大家さんは俺が断るのも聞かずに部屋の中に入ってきた。やだなぁ。恥ずかしい。
「ごみ捨てくらいちゃんとしなさいよ」
「はぁ……」
「身なりもそんなみすぼらしくなって……」
そうなのかな。最近外に出てないから分からない。鏡も見ないし。まぁ、ちょっと顎がじょりっとしているのは分かるかも。
「風呂場も見るからね!」
「……!だめです、そこだけは!」
風呂場にはあの子が。あの子をとられてしまう。それだけは。それだけは阻止しないと。待って、あけないで。
「……っ、なにこれ、……」
ほら、いきなり開けるから怯えてるじゃないか。あぁ可哀想に。よしよし、怖かったね。すぐにこの人を追い出すからね。
「っとにかく!詰まってるなら業者呼ぶなりしてなんとかしなさいよ!ゴミも捨てなさい!」
大家さんは慌てた感じで出ていった。よかった。この子をとられなくて。よかった。また失ったら今度こそ立ち直れないよ。
よしよし、もう怖くないよ。俺が居るからね。ずっと。ずーっと一緒にいようね。
────……
「引き篭っていたし、鬱だったんじゃないかしら」
「まぁこの部屋の惨状を見ればなんとなく察します」
「そうね、最後に会った時はヘドロか何かが溜まった浴槽に向かって、名前を呼んでいたし」
「……あぁ」
「ほら、イマジナリーなんとかってやつよ」
「……本人は幸せだったのかもしれませんね」
「取り敢えず、他人に危害が行かなくて良かったわよ」
その部屋の床は足の踏み場など無い程にゴミで溢れ返っており、虫が湧いてあちらこちらを闊歩している。特殊清掃用のマスクをしていても、鼻がひん曲がってしまいそうな臭いが空間を埋めつくしている。
特に酷いのが浴室。浴槽に張られた真っ黒な液体。そして、やけにパンの外袋や空き缶が多く散乱している。おそらくだが大家が言っていた"存在しない何か"の為のものだったのだろう。
部屋の片隅に置かれた水槽だけが、異様に綺麗にされていた理由は、今はもう物言わぬこの部屋の主のみぞ知ることだ。
fin.
