眠り姫

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ふ、と沈んでいた意識が浮かんで手探りで携帯を掴んで、画面の時刻を見ると21時手前。同居人が仕事に出掛けるのを見送って直ぐにベッドに潜り込んだ、のは覚えている。そこから一度も起きなかったのか。

気怠い身体を起こしてリビングに向かうと、風呂場から聴こえるシャワーの音。同居人はお風呂中だ。仕事を終えて疲れて帰ってきたであろう彼を、出迎えられないのは伴侶として如何なものなのだろう。と思い悩みつつ、まだ抜けない眠気が欠伸となって現れる。

同居人は夕飯を食べたのだろうか、と冷蔵庫の中身を確認すると、いくらか食材が減っているのと、ラップされた皿がひとつ。焼きうどんだ。「起きたら温めて食べてね」と彼の可愛らしい字で書かれた付箋付きだ。本当なら仕事休みである俺が夕飯担当なのに。寝過ぎてしまったせいで彼に作らせてしまった。

せっかく彼が作ってくれたのだから 食べなくては。という感情と眠くて眠くて仕方がなくて食欲が欠片も無い、というのがぶつかり合って、頭の中でぐるぐると巡る。まともに働いていない頭の中で思考だけが、ぐるぐるもやもやと。

「っ、げほ、…」

やがて気持ち悪くなってせり上がってきた不快感を手のひらに零した。嗚呼、だめだ。こんな状態で食べてもきっとすぐに戻してしまう。それはだめだ。せっかく作ってくれたそれを無駄にはしたくない。だけどこのまま食べないのも、それはそれで無駄になってしまう。

どうしたらいいのか分からなくなって、冷蔵庫の前でしゃがみ込んで、溢れてきた涙に更に情けなさを覚えて。こんな状態なのに、眠気は。眠気だけは容赦無く襲ってくる。まるで意識を刈り取る死神のように。

寝室に戻ろう、としたところで丁度風呂から上がった同居人とばったり。「おかえり」とか「夕飯食べた?」とか「ごめん」とか言わなくちゃならないことはあるのに、何も声として出てくれない。そのまま何も言わずに彼の横を通り過ぎて寝室に戻ってベッドに潜り込んで、毛布を頭まで被った。小さく小さく手脚を折り畳んで、自分の存在を出来るだけ消すようにして。俺がまた深い深い眠りに落ちるのに、時間は掛からなかった。


翌朝。いや、次に俺が起きたのはもう昼を過ぎていた。同居人は仕事に出掛けている。俺は、こんな状態で仕事は出来ない。しなくてはいけないのに。

ふと気になって冷蔵庫を開けた。昨日あった焼きうどんは無くなっていた。嗚呼、申し訳ない事をした。俺は何をやっているのだろう。無理してでも食べるべきだった。彼に謝らなくては。許されなくてもいいから。




いつも飲む薬を飲んだ、のは覚えている。でもそこからの記憶が曖昧で。気が付いた時には横たわる俺の肩を揺すりながら泣いている同居人の姿。俺が泣かせたのは間違いない。俺は何をした?彼に、何を。

「辛いならちゃんと言えッて、頼むから」

何の話、と頭で理解するより前にあらゆる物がとっ散らかった俺の部屋の状況が全てを物語っていた。彼と暮らし始めてからは無くなったと思ったのに。俺はまた。嗚呼、そんなことより。

「……怪我は、してねぇか?」
「ッ違うだろ!?今オレの心配なんかしてる場合か!?」
「……、無いなら、いい…」

嗚呼、だめだ。眠い。ごめん、こんな俺で。謝らなくてはいけないことばかりだ。でも良かった。君に矛先が向かなくて。俺がどうなってもそれだけは避けたいから。君は、君の事だけは。

「ベッド、行こうか」

君の優しい声を聴きながら俺はまた深い眠りに落ちていった。ぐちゃぐちゃになった部屋と心の中で、それだけが。彼の声を、温もりを、すべてをこの身で感じられることだけが、救い。



次に目が覚めたのは日をまたいで更に夕方頃。どんどん睡眠時間が増えている。でも昨日みたく同居人に迷惑をかけるくらいなら、眠っていた方がマシだ。

「起きたか?飯は食えそうか?あでも待て、先に水分摂らねェと」

隣で寝転んでいた彼がベッドから飛び出そうとする彼の腰を無意識にひっ掴んで、腕の中に収めた。力加減を間違えたのか、彼が「うっ」と呻いたが気にしないことにした。今は食事なんかより彼が欲しい。彼さえ居てくれたら他に何も要らない。

「どうした?しんどいか?」

彼の小さな背中に縋り付くようにして、抱き締める力を強めた。これも殆ど無意識の内に。

「大丈夫だよ。オレはちゃんと此処に居るから」

彼の言葉に嘘偽りなんてものはない。心からそう思ってくれているのは、普段の言動で十二分に伝わっている。だからこそ、怖い。愛想を尽かされてしまったら。俺を要らないと思う日が来てしまったら。俺ではない誰かが、

「っ、……」

せり上がってきた不快感。嗚呼だめだ、こんなところで、だめだ。我慢しなきゃ。せめて、彼にかからないようにと、咄嗟に彼を弾き飛ばしてしまった。

「いッ…て……なに、どう…し…」

喉が痛い。吐き出した胃液が喉を灼いたのだろう。手が震えて力が入らない。数日何もまともに飲み食いしていないせいで、薄まっていない胃液が食道を、喉を、口の中を侵していく。痛い。気持ち悪い。嫌だ。見ないでくれ。こんな俺を。苦しさと情けなさとで涙も溢れ出してきて、今すぐにでも消えてしまいたい。

「ッ、なんでこんなンになるまで我慢したンだ馬鹿!」
「…ご、…め……」
「謝らなくてイイ!ッ病院、診察券は…あァもう後でイイ、身体起こせるか?いや、抱えてッた方が早ェ!」

彼のどこにそんな力があったのだろう、なんて。嗚呼でもそう言えば、リビングや廊下で寝てしまった俺をベッドに運んでいるのは彼か。




「何日 何も食ッてなかッたンだ?」
「……わかんない」

診断結果は栄養失調と脱水症。ぷらんとぶら下がる点滴パックの中身は栄養剤。俺はまた数時間程意識が無かったらしく、病院の処置室で寝かされている状態だ。

「起きたらとかじゃなくて、叩き起こしてでも食わせるべきだッた」
「……焼きうどん、美味しそうだった。……でも、食べられなかった。せっかく作ってくれたのに、食べられなくて……」
「あァもう良いンだよそれは。食欲無ェのかなッて自己完結してたし、弁当にして昼休憩に食ッたし」

君の大きな手が俺の手を握ってくれている。温かい。けれどそれを握り返せる程の力が入らない。

「もうちょっとで良いからオレを頼ッて欲しい」
「……ごめん」
「謝ンなッつの。御前は何にも悪くねェだろ」
「違う、違うんだよ、…俺が、全部…」

最後まで言い切らない内に腕を引っ張り起こされて、彼の腕の中に抱き締められた。「大丈夫だから」と言いながら背中を摩ってくれる君の優しさと温もりに、俺は何度救われただろう。何度、甘えて寄りかかっただろう。

「俺のせいで……」

君に迷惑を掛けるくらいなら、君を泣かせるくらいなら、いっそもう二度と目が覚めることのない眠りにつきたい。何もかもを捨てて、独りで。俺さえ居なければ君は傷付く事も、泣く事も、苦しむ事もない。俺さえ、

「今何考えてる?」
「……ごめん」
「ごめンじゃなくてさ」
「……」

俺を覗き込む君の目が見られない。目を合わせられない。ただ視界が滲んでいくだけ。落ちていく雫が布に染みを作っていくだけ。情けない。泣いたって何も解決しないのに。何が、君を守りたいだ。何ひとつ守れやしないのに。こんな弱っちい身体じゃ。こんな狂った心じゃ。

そうだ。そもそも俺は。

「生きてちゃいけないんだ、った。あの時、死ねてたら。あの時、俺が、俺のせい、で」

「俺が、殺したか、ら」

「俺さえ、居なければ、俺が全部、ごめん、ごめんなさい、生きててごめんなさい、死ねなくて、ごめんなさい、」


────……



うわ言のように繰り返す彼の頬を思い切り叩いた。やってしまった、と気付いた時には遅かった。でもそうでもしなければ彼が消えてしまう気がして。

彼がここ最近、やたらと眠るようになったのは一緒に暮らしていれば否応なしに気が付く。それに彼から過眠期というものがあるという事を訊いていた。だからその時期が来たんだな、くらいの認識だった。

だがオレが想像していたものよりもずっと酷かった。

まず、飲み食いを一切しない。眠り続けているから当たり前だと言われればそうで、気付こうと思えば気付けた。一日の内でたった数時間程しか意識がある時間はなく、その数時間もあまり会話らしい会話は出来ない。ただこれだけならまだマシだったかもしれない。

それに加えて彼が過去に負ってきた痛みが、更に悪さをしている。問題はこっちだ。詳しい事は知らない。彼が教えてくれるまでは待とうと思っているから。少しずつ、教えてくれはしているけど、きっと全部ではない。まだオレの知らない彼が居る。その背中に背負ってきた痛み、苦しみを俺はまだ理解してやれていない。

何がここまで彼を責めさせているのか。ひたすらに謝る彼をここまで、こんなになるまで、追い詰めたのは、壊したのは一体何だったのか。


──俺が死ねば良かった。

御前が死んでしまったら遺されたオレはどうすればいいの?もう御前無しの日常になんて戻れないのに。

──俺さえ居なくなれば。

なぁ、オレの声は貴方に届いてるか?オレの姿は御前に見えてるか?オレの温度は貴方に伝わってるか?



答えは、返って来ない。

希死念慮に飲み込まれている彼の心は今、過去の痛みの中を彷徨っている。どうしたら、そこから引っ張り出せるのだろう。どうしたら。

引き摺り込まれて、しまいそうだ。





fin.
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