過日の疵
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「俺と付き合ってくれ」
そう言った御前の目は真剣だった。だから俺は承諾したんだ。コイツなら多分大丈夫だろう、と。それが浅はかな考えだったなんて、その時に分かる筈もなくて。
「愛してるよ」
御前の言葉はいつだってストレートだった。段々と惹かれている俺も確かに居た。そしていつの間にか、御前が居ないと世界がつまらないとさえ思うようになっていった。そうなるのに時間は大して掛からなかった。
ある日、所謂デートという奴をした。互いの行きたい場所を巡って、互いが食べたい物を食べて。最後にキスなんかもして。幸せな一日を過ごした。御前もそうだと、その筈だと信じて疑わなかった。
「貴方のせいで彼は苦しんでいる」
ある日突然、誰かも分からない奴にそう言われた。俺のせいで?何かした覚えはない。だけどソイツは泣きながら俺に訴える。ただひたすらに「彼を返して」と。何を言っているんだコイツは。というか誰なんだコイツは。
「アイツに何かしたのか」
御前が俺に言った言葉で全てが繋がった気がした。俺に喧嘩を売ってきた奴は、俺と出逢うより前から存在してた御前の大事な何かで、俺との繋がりよりソイツとの繋がりの方が大事で。嗚呼そういう事か。俺は遊ばれていただけなのか。
「別に何も」
「嘘付け、怖いって泣いてんだぞ」
「……はっ、嘘付きはどっちだよ」
俺への言葉も何もかも。御前にとっちゃ不特定多数の奴に吐くパフォーマンスのひとつだったくせに。何が愛してるだ。愛など微塵も無いくせに。
「御前の嘘に踊る俺はさぞ滑稽だったろうな」
「……」
「どうせソイツにも同じ事してるんだろ?可哀想にな、ソイツも犠牲者だよ」
そこまで吐いた俺の頬を乾いた痛みが襲った。口の中が切れたのか鉄の味がじわりと広がる。
「お前がそんな奴だと思わなかった」
「俺の事見てねぇ証拠だろうが」
「もういい」
これでいい。ここまですればもう俺にくだらない言葉なんて吐かないだろう。御前が望んだ結果だよ。俺を捨てて、本当に愛してるやつと添い遂げればいい。
なんでだ。なんで俺より彼奴なんだ。彼奴が居るならなんで俺に言い寄ってきたんだ。こんなにも愛させておいて、身にも心にも御前を刻み込んでおいて。今更無かった事になんか出来るわけないだろうが。
──なんで。
降り出した土砂降りの雨の中で俺は声を上げて泣いた。叩かれた頬の痛みも、砕かれた心の痛みも、全部洗い流してくれ。御前との幸せだった記憶も、全部綺麗に。いっそ全部抱えたままこの命ごと消してしまおうか。きっと、狂っていたんだ。最初から。
あれから何年も経った今、御前が何処で何をして、誰の傍に居るのかは知らない。これから先知る事もない。きっと御前はもう俺の事など忘れているのだろう。
俺だけが、あの日に未だ取り残されている。
fin.
