法蓮草より小松菜
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相棒が怪我をした。
男が暴れているという通報を受けて、現場に向かった先は車では入れない狭い路地裏。
「俺が追い詰める。車回しておいて」
そう言って車を飛び出した彼を止めることは叶わず、代わりに舌打ちを零して車を路地裏の先に回す。だけど待てども彼の姿は現れない。嫌な予感がする。
「……ッ!」
待っていられずに車を降りて路地を進んだ先に広がっていた光景に息を飲んだ。地面に広がる赤色。その中に沈む相棒の姿。全身の血の気か引いていく。これを悪夢と言わずに何と言うのか。
不幸中の幸いなのか、彼の運が良かったのか。出血量の割には傷自体は浅かったらしく、数日安静にしていれば退院出来るだろう、という医者の診断に胸を撫で下ろした。だがあの瞬間、血溜まりの中に倒れる彼を見た瞬間の焦燥と恐怖は未だに胸の奥でチリと痛んで消えてくれない。
「で、何があったの?」
「……覚えてない」
「はい?」
「男を追い掛けて廃ビルを昇ったとこまでは覚えてる。けどそっから自分で脚を滑らせたのか、奴に押されたのかわかんねぇの」
「……そう、ですか」
それでは証拠不十分で、逃げたソイツをしょっぴいたところで罪に問えない可能性が高い。彼を、相棒をこんな目に遭わせておいて。
「ごめん、嫌なもん見せたよね」
困ったように笑う彼のその表情も声も、今の俺には胸の内に燻る苛立ちに火を焚べるものでしかない。
「……ヤツは俺が捕まえる」
彼の顔を見ずにその一言だけを置いて、病室を後にした。それからはただ淡々と、警察として、彼の相棒として成すべきことを成せと己に言い聞かせた。
防犯カメラの映像でヤツの顔は割れている。通報者からの事情聴取で、いつも同じ時間帯に繁華街に現れては酒を煽り、手当り次第に女に絡んでは暴れるだけのどうしようもないクズだということもわかった。
「まさか一線を越える気じゃねェよな」
声に振り返れば緊張感漂う表情を浮かべた篠崎の姿。コイツを使ってまで変な気を回したのは、言わずもがな相棒だろう。でも陽さんもコイツもひとつ勘違いをしている。
「俺は法を外れる気はない」
法という名の正義を違えるつもりは毛頭ない。だが、法がすべての正義を示しているとは限らない。
────……
「一昨日のちょうどこの時間、あそこの路地で貴方を見掛けたのですが」
先日の騒ぎもあってか店を追い出されたらしく、道端で瓶のまま酒を煽っている男に話し掛ける。その顔は赤く染まっている。既にかなりの量飲んでいるのだろう。この男からはアルコールの匂いが漂っている。
「ぁあ?」
「少し話を」
「何だてめ……、……!」
威圧的な態度が途中で急に変わり、慌てふためいてその場から逃げるように走り出した男。勿論、逃がす気などない。
「止まれ!!」
声をあげて男を追い掛ける。この辺りの道の構造は頭に入っている。少しずつ逃げる先を誘導していき、袋小路へと追い詰めていく。俺の武器は身体能力よりも頭の使い方だ。
「この間は世話になりましたね」
警察手帳を見せながら言うと、やはり男は警察が声を掛けて来る心当たりが大いにあると言わんばかりに、分かりやすく目が泳がせる。
「お、おれは何も知らねぇ!アイツが勝手に落ちたんだ!おれは押してねぇ!」
「……へぇ」
思わず笑ってしまいそうになる。俺は何の事かなど一切まだ訊いていないのに、真っ先に否定することがそれとは。「自分がやりました」と自白しているようなものじゃないか。
「残念ですけど、昼間から酒を飲むようなヤツの言葉は信用の一欠片もないですよ」
「なっ……、お、おれは公務員やってたこともあるんだぞ!」
だからなんだ、という話だ。
「やってた、ねぇ……。てことは辞めさせられでもしました?大方酒絡みか、それともセクハラかパワハラでしょうか」
「あれはアイツらが悪いんだよ!雑魚のくせに調子に乗りやがるから!」
嗚呼、救いようのないクズで助かる。
「……で?今の気分は?」
「……は?」
静かに男に歩み寄る。男の後ろは壁だ。逃げ道などない。嘲笑うかのように冷たく笑う俺に、男の中の捨てきれない小さな小さなプライドが、その口元をひくひくと引き攣らせている。
「雑魚より雑魚になった気分はどうだって訊いてんだよ」
ぷちん、という何かが切れて弾ける音が実際に聴こえたように思えた。
「てめぇえええ!!」
男に胸倉を掴まれる。……掛かった。
「公務執行妨害」
淡々と告げると男が一瞬怯んだ。が、精神的にも物理的にも追い詰められている人間が何をしでかすか。答えは簡単だ。
「っざけんじゃねぇ!ぶっ殺してやる!!」
男は持っていた酒瓶を振り上げる。酔っている上に素人の動きだ。狙いも分かりやすく避けるのは容易い。だからこそ、少しだけ横にズレる。
ガシャン!という耳の近くで響く音。まだ中身が残っていたのか濡れる服と酒の匂い。それから少し遅れて灼けつくような痛みが肩を襲う。これでいい。
直ぐに無傷な方の手で男の腕を捻り上げて地面に組み伏せる。酔っていることもあってか割と簡単に無力化出来た。
「……これで傷害、いや殺人未遂も追加ですね。思惑通りに動いてくれて助かりました」
タイミングよくパトカーのサイレンの音が聴こえてくる。俺が事前に応援要請しておいたものだ。ちらと肩の傷の具合はどうかと目をやると、しっかりと酒瓶の破片が刺さっている。だが見た目ほどの痛みはない。
法で裁けないのならば、裁けるところまで引き摺り出してしまえばいい。それだけの事だ。その為ならば多少の傷は仕方無い。
そう思っていた。
────……
「ふざッけんな!なんッでいつもそうやって自分の事を大事にしねぇんだよ!?」
事の顛末を訊いた相棒が強い怒りをそのまま言葉に乗せて吐き出す。
「そうやって自分の事大切にしないお前なんか嫌いだよ」
その気迫に咄嗟に言葉を返せない。怒られるのは分かっていた。だがここまでとは思っていなかった、というのが正直な感想で。
「香坂さんは陽さんの為に、……」
彼に懐いている篠崎がフォローに入るがそれも意味を成さないようで。
「だから嫌なんだよ、尚更嫌だわ。俺は、……イチの相棒なのに」
さっきの鬼気迫る語気とは打って変わって、今にも泣き出しそうな弱々しい声。「相棒なのに」。その震える彼の声を聴いて、嗚呼、俺は間違えてしまったんだな、と。それだけは理解した。
「……もういいよ、イチも怪我してんだから休めよ」
背を向けてしまった彼に俺は返す言葉を持ち合わせていない。何を言ったらいいのか分からない。ずっと昔からの俺の悪い癖だ。
────…
「おーいこうちゃーん、反省でもしてんの?」
分駐所の窓際でぼんやりとしているところに、聴こえてきた声の主は俺たち第四機動捜査隊の先輩、逢沢さんだ。気の沈んでいる俺にわざと明るく接してくれる彼に今までどれだけ救われたことだろう。それなのに、何度も間違いを繰り返してしまう。
「すみませんね、見苦しいところを」
「謝る相手が違うよ、こうちゃん」
困ったように笑いながら逢沢さんは続ける。
「あんね こうちゃん。こうちゃんは正しいよ。警察官として自分の出来る範囲で復讐したんだよね?あっ、でも復讐はあんま良くないな。でも相棒をあんな風にされて黙ってらんないのも分かる。それに、こうちゃんには絶対勝てる!って自信があったんだよね?」
彼の言う通りだ。大切な相棒に入院させる程の怪我を負わせておいてお咎め無し、だなんて俺の気が済まない。だから現行犯という形で法の場に引き摺りだしてやったまでだ。それはきっと、俺と陽さんの立場が逆でも同じだった筈。
「なんで陽ちゃんが怒ったか分かんないって感じ?」
彼が怒った理由も分かる。「自分の身を大事にしないお前なんか嫌いだよ」と。分かるけれど、どうすれば良かったのか。
「……別に自分のことを大事にしていないわけじゃない。でもそれ以上に陽さんは俺を大切にしてくれるから、なんて言うか、基準が、分からない」
「んー、深く考え過ぎじゃない?陽ちゃんが言う"相棒なのに"ってそのまんまじゃん。対等なの。だから、こうちゃんが陽ちゃんを大事に思うのと同じくらい、自分のことも大事にしたらいいんだよ」
あまりに単純な答え。
「陽さんと、同じくらい」
繰り返して言葉にすると、逢沢さんの大きな手が俺の髪を乱暴に撫でた。
「僕も出来てるかって言われたらわかんないけどね。でも次はもうちょっと怒られなくて済むかもよ」
「……"嫌い"だって言われるのは、避けたいかな」
「ひゃっひゃっ、そりゃそうだね!まっ、頑張ってよ」
更に乱暴に撫で回された俺の髪は、台風でも通ったのかというくらいにぼっさぼさになっていた。
───……
陽さんの退院の日。病室を覗くとまだ不機嫌をその表情に滲ませた彼が立っていた。迎えに行くという言葉を覚えてくれていたのか、と少しほっとする。
「陽さん。その……、今回は本当にごめん」
沈黙。それから長い溜息が彼の口から吐き出される。あぁまだやっぱり怒っている。
「何が?」
普段より少し低い声色がいやに脳に響く。
「……逢沢さんにも、怒られましたよ。俺だったら、相棒が自分の為に無茶をしたら怒る。相棒なのに、庇われて怪我をされたら悔しいし、ふざけんなって言いたくもなる、よね」
「へぇ。言っておくけどそれだけじゃねぇからな」
苛立ちを隠そうともしていない彼が、俺の肩口に見えている包帯に視線を移した後、眉間に皺を寄せた。
「やりたい事があるならまず俺に相談しろよ。俺ってそんなに頼りねぇか?怪我したら走れねぇから要らねぇってか?……俺は、イチがどう動くか分からないことが怖かったよ」
ガツンと強く殴られたような衝撃。
いつからか俺は陽さんと一心同体かのように思っていたのかもしれない。言わなくても彼ならわかってくれる、察してくれると驕っていたのかもしれない。
人は結局は一人で。どんなに親しくても他人は他人。言葉にしなくては伝わらないことだってあるのだと、抱えているものがあるのなら吐き出してくれなければ、一緒に背負うことすら出来ないのだと。痛いくらいに思い知っていた筈なのに。
「あー……もう……」
耐え切れずにその場に蹲ると、頭上から「え?ちょ、え?」と困惑した声が降ってきた。これ以上彼に心配させる訳にはいかない。と、もそもそと立ち上がる。けれど陽さんの顔を正面から見る勇気はない。
「……過去からの凄まじいブーメランを喰らいました。陽さん、今回は本気で、本当に申し訳無いと思ってる。二度としない。一人で動きたくなった時も必ず報告します」
「え、いや、そもそも一人で動いて欲しくねぇけど」
「……善処します」
「うわっ、信用ならねぇな!せめて小松菜だけはちゃんとしてよ?」
そうですね、報連相だけはちゃんと……ん?今なんて言ったこの人。
「……小松菜?って言いました?」
「小松菜。え、知らない?」
小松菜は知っている。ごま油と和風出汁の素で炒めると美味しいあの野菜だ。偶に作っては非番の日の晩酌のお供にしている。……のはどうでもよくて。
「ほうれん草じゃなくて?」
「困ったらなんでも俺に相談、の小松菜」
「っふ、ふふ……ふはっ、ははっ、流石にこじつけが過ぎません?ははっ、んははははっ」
腹を抱えて笑うと目尻に涙が滲む。そんな少しぼやけた世界で、陽さんがむっと唇を突き出して不満そうに睨んでいる。
「イチが俺を馬鹿にしてんのは分かる」
「いや、んふっ、ふふ、馬鹿にはしてないですよ」
「いーや、してるね」
「してないよ。寧ろ陽さんには気付かされることが多くて助かってるよ。ありがとうね」
今日だけは素直に言ってやろうと感謝を口にすると、物凄いものを見るような目で俺を見る陽さん。……誠に遺憾だ。
「……素直なイチこわ」
「なにか?」
「いや、なんでもないよ、なんも言ってない」
「相棒がまた入院ですか……」
「やめて?なんで偶にド脳筋になんの?」
いつもの調子が戻ってきたな、なんて笑いながらふと、こちらも言いたいことがあったなと思い出した。
「陽さん」
「ん?」
「困ったらなんでも聞いてくれるらしい人に、ひとつ相談があるんですけど」
「お、なになに?言ってみ?」
きらきらとおやつを待つ犬のような目をしているが、今回のそもそもの発端をこの人は忘れているのだろう。
「実はですね、相棒が入院レベルの大怪我をしてかーなーり、心配したんですけどね。その人は俺なんかの心配をして、その人の心配を一切させてもらえなかったんですけど、どうしたらいいと思いますか?」
「ん、と……えー……と」
彼の目が泳ぎ始めた。どうやら無茶をした自覚はあったらしくて何より。
「なんでも相談屋の陽さん、でしたっけ。答えをどうぞ」
「その節はご心配をお掛けしました!!ごめん!!!」
気持ちいいくらいに勢いの良い謝罪。素直でよろしい。
「相談が足りないのは陽さんもだって分かった?」
「……うん」
さっきまで飛んでいたきらきらエフェクトは、今はもやもやとしたあのぐちゃっとした感じのものになっている。そんな彼に溜め息をひとつ。
「小松菜はここにも居ますから。怪我する前に全部話してよ」
「え」
「まぁ、陽さん限定ですけど。俺はあなたと違って他の奴らの面倒まで見てやるほど優しくは、ってちょっと!急に絡んで来ないでよ!暑い!重い!!」
「ふふ、俺だけのイチ~」
「待って、それじゃ語弊が」
ぎゃあぎゃあと騒ぐ俺たちのところに、怒り心頭の看護師さんがやって来るまで、あと数秒──。
fin.
相棒が怪我をした。
男が暴れているという通報を受けて、現場に向かった先は車では入れない狭い路地裏。
「俺が追い詰める。車回しておいて」
そう言って車を飛び出した彼を止めることは叶わず、代わりに舌打ちを零して車を路地裏の先に回す。だけど待てども彼の姿は現れない。嫌な予感がする。
「……ッ!」
待っていられずに車を降りて路地を進んだ先に広がっていた光景に息を飲んだ。地面に広がる赤色。その中に沈む相棒の姿。全身の血の気か引いていく。これを悪夢と言わずに何と言うのか。
不幸中の幸いなのか、彼の運が良かったのか。出血量の割には傷自体は浅かったらしく、数日安静にしていれば退院出来るだろう、という医者の診断に胸を撫で下ろした。だがあの瞬間、血溜まりの中に倒れる彼を見た瞬間の焦燥と恐怖は未だに胸の奥でチリと痛んで消えてくれない。
「で、何があったの?」
「……覚えてない」
「はい?」
「男を追い掛けて廃ビルを昇ったとこまでは覚えてる。けどそっから自分で脚を滑らせたのか、奴に押されたのかわかんねぇの」
「……そう、ですか」
それでは証拠不十分で、逃げたソイツをしょっぴいたところで罪に問えない可能性が高い。彼を、相棒をこんな目に遭わせておいて。
「ごめん、嫌なもん見せたよね」
困ったように笑う彼のその表情も声も、今の俺には胸の内に燻る苛立ちに火を焚べるものでしかない。
「……ヤツは俺が捕まえる」
彼の顔を見ずにその一言だけを置いて、病室を後にした。それからはただ淡々と、警察として、彼の相棒として成すべきことを成せと己に言い聞かせた。
防犯カメラの映像でヤツの顔は割れている。通報者からの事情聴取で、いつも同じ時間帯に繁華街に現れては酒を煽り、手当り次第に女に絡んでは暴れるだけのどうしようもないクズだということもわかった。
「まさか一線を越える気じゃねェよな」
声に振り返れば緊張感漂う表情を浮かべた篠崎の姿。コイツを使ってまで変な気を回したのは、言わずもがな相棒だろう。でも陽さんもコイツもひとつ勘違いをしている。
「俺は法を外れる気はない」
法という名の正義を違えるつもりは毛頭ない。だが、法がすべての正義を示しているとは限らない。
────……
「一昨日のちょうどこの時間、あそこの路地で貴方を見掛けたのですが」
先日の騒ぎもあってか店を追い出されたらしく、道端で瓶のまま酒を煽っている男に話し掛ける。その顔は赤く染まっている。既にかなりの量飲んでいるのだろう。この男からはアルコールの匂いが漂っている。
「ぁあ?」
「少し話を」
「何だてめ……、……!」
威圧的な態度が途中で急に変わり、慌てふためいてその場から逃げるように走り出した男。勿論、逃がす気などない。
「止まれ!!」
声をあげて男を追い掛ける。この辺りの道の構造は頭に入っている。少しずつ逃げる先を誘導していき、袋小路へと追い詰めていく。俺の武器は身体能力よりも頭の使い方だ。
「この間は世話になりましたね」
警察手帳を見せながら言うと、やはり男は警察が声を掛けて来る心当たりが大いにあると言わんばかりに、分かりやすく目が泳がせる。
「お、おれは何も知らねぇ!アイツが勝手に落ちたんだ!おれは押してねぇ!」
「……へぇ」
思わず笑ってしまいそうになる。俺は何の事かなど一切まだ訊いていないのに、真っ先に否定することがそれとは。「自分がやりました」と自白しているようなものじゃないか。
「残念ですけど、昼間から酒を飲むようなヤツの言葉は信用の一欠片もないですよ」
「なっ……、お、おれは公務員やってたこともあるんだぞ!」
だからなんだ、という話だ。
「やってた、ねぇ……。てことは辞めさせられでもしました?大方酒絡みか、それともセクハラかパワハラでしょうか」
「あれはアイツらが悪いんだよ!雑魚のくせに調子に乗りやがるから!」
嗚呼、救いようのないクズで助かる。
「……で?今の気分は?」
「……は?」
静かに男に歩み寄る。男の後ろは壁だ。逃げ道などない。嘲笑うかのように冷たく笑う俺に、男の中の捨てきれない小さな小さなプライドが、その口元をひくひくと引き攣らせている。
「雑魚より雑魚になった気分はどうだって訊いてんだよ」
ぷちん、という何かが切れて弾ける音が実際に聴こえたように思えた。
「てめぇえええ!!」
男に胸倉を掴まれる。……掛かった。
「公務執行妨害」
淡々と告げると男が一瞬怯んだ。が、精神的にも物理的にも追い詰められている人間が何をしでかすか。答えは簡単だ。
「っざけんじゃねぇ!ぶっ殺してやる!!」
男は持っていた酒瓶を振り上げる。酔っている上に素人の動きだ。狙いも分かりやすく避けるのは容易い。だからこそ、少しだけ横にズレる。
ガシャン!という耳の近くで響く音。まだ中身が残っていたのか濡れる服と酒の匂い。それから少し遅れて灼けつくような痛みが肩を襲う。これでいい。
直ぐに無傷な方の手で男の腕を捻り上げて地面に組み伏せる。酔っていることもあってか割と簡単に無力化出来た。
「……これで傷害、いや殺人未遂も追加ですね。思惑通りに動いてくれて助かりました」
タイミングよくパトカーのサイレンの音が聴こえてくる。俺が事前に応援要請しておいたものだ。ちらと肩の傷の具合はどうかと目をやると、しっかりと酒瓶の破片が刺さっている。だが見た目ほどの痛みはない。
法で裁けないのならば、裁けるところまで引き摺り出してしまえばいい。それだけの事だ。その為ならば多少の傷は仕方無い。
そう思っていた。
────……
「ふざッけんな!なんッでいつもそうやって自分の事を大事にしねぇんだよ!?」
事の顛末を訊いた相棒が強い怒りをそのまま言葉に乗せて吐き出す。
「そうやって自分の事大切にしないお前なんか嫌いだよ」
その気迫に咄嗟に言葉を返せない。怒られるのは分かっていた。だがここまでとは思っていなかった、というのが正直な感想で。
「香坂さんは陽さんの為に、……」
彼に懐いている篠崎がフォローに入るがそれも意味を成さないようで。
「だから嫌なんだよ、尚更嫌だわ。俺は、……イチの相棒なのに」
さっきの鬼気迫る語気とは打って変わって、今にも泣き出しそうな弱々しい声。「相棒なのに」。その震える彼の声を聴いて、嗚呼、俺は間違えてしまったんだな、と。それだけは理解した。
「……もういいよ、イチも怪我してんだから休めよ」
背を向けてしまった彼に俺は返す言葉を持ち合わせていない。何を言ったらいいのか分からない。ずっと昔からの俺の悪い癖だ。
────…
「おーいこうちゃーん、反省でもしてんの?」
分駐所の窓際でぼんやりとしているところに、聴こえてきた声の主は俺たち第四機動捜査隊の先輩、逢沢さんだ。気の沈んでいる俺にわざと明るく接してくれる彼に今までどれだけ救われたことだろう。それなのに、何度も間違いを繰り返してしまう。
「すみませんね、見苦しいところを」
「謝る相手が違うよ、こうちゃん」
困ったように笑いながら逢沢さんは続ける。
「あんね こうちゃん。こうちゃんは正しいよ。警察官として自分の出来る範囲で復讐したんだよね?あっ、でも復讐はあんま良くないな。でも相棒をあんな風にされて黙ってらんないのも分かる。それに、こうちゃんには絶対勝てる!って自信があったんだよね?」
彼の言う通りだ。大切な相棒に入院させる程の怪我を負わせておいてお咎め無し、だなんて俺の気が済まない。だから現行犯という形で法の場に引き摺りだしてやったまでだ。それはきっと、俺と陽さんの立場が逆でも同じだった筈。
「なんで陽ちゃんが怒ったか分かんないって感じ?」
彼が怒った理由も分かる。「自分の身を大事にしないお前なんか嫌いだよ」と。分かるけれど、どうすれば良かったのか。
「……別に自分のことを大事にしていないわけじゃない。でもそれ以上に陽さんは俺を大切にしてくれるから、なんて言うか、基準が、分からない」
「んー、深く考え過ぎじゃない?陽ちゃんが言う"相棒なのに"ってそのまんまじゃん。対等なの。だから、こうちゃんが陽ちゃんを大事に思うのと同じくらい、自分のことも大事にしたらいいんだよ」
あまりに単純な答え。
「陽さんと、同じくらい」
繰り返して言葉にすると、逢沢さんの大きな手が俺の髪を乱暴に撫でた。
「僕も出来てるかって言われたらわかんないけどね。でも次はもうちょっと怒られなくて済むかもよ」
「……"嫌い"だって言われるのは、避けたいかな」
「ひゃっひゃっ、そりゃそうだね!まっ、頑張ってよ」
更に乱暴に撫で回された俺の髪は、台風でも通ったのかというくらいにぼっさぼさになっていた。
───……
陽さんの退院の日。病室を覗くとまだ不機嫌をその表情に滲ませた彼が立っていた。迎えに行くという言葉を覚えてくれていたのか、と少しほっとする。
「陽さん。その……、今回は本当にごめん」
沈黙。それから長い溜息が彼の口から吐き出される。あぁまだやっぱり怒っている。
「何が?」
普段より少し低い声色がいやに脳に響く。
「……逢沢さんにも、怒られましたよ。俺だったら、相棒が自分の為に無茶をしたら怒る。相棒なのに、庇われて怪我をされたら悔しいし、ふざけんなって言いたくもなる、よね」
「へぇ。言っておくけどそれだけじゃねぇからな」
苛立ちを隠そうともしていない彼が、俺の肩口に見えている包帯に視線を移した後、眉間に皺を寄せた。
「やりたい事があるならまず俺に相談しろよ。俺ってそんなに頼りねぇか?怪我したら走れねぇから要らねぇってか?……俺は、イチがどう動くか分からないことが怖かったよ」
ガツンと強く殴られたような衝撃。
いつからか俺は陽さんと一心同体かのように思っていたのかもしれない。言わなくても彼ならわかってくれる、察してくれると驕っていたのかもしれない。
人は結局は一人で。どんなに親しくても他人は他人。言葉にしなくては伝わらないことだってあるのだと、抱えているものがあるのなら吐き出してくれなければ、一緒に背負うことすら出来ないのだと。痛いくらいに思い知っていた筈なのに。
「あー……もう……」
耐え切れずにその場に蹲ると、頭上から「え?ちょ、え?」と困惑した声が降ってきた。これ以上彼に心配させる訳にはいかない。と、もそもそと立ち上がる。けれど陽さんの顔を正面から見る勇気はない。
「……過去からの凄まじいブーメランを喰らいました。陽さん、今回は本気で、本当に申し訳無いと思ってる。二度としない。一人で動きたくなった時も必ず報告します」
「え、いや、そもそも一人で動いて欲しくねぇけど」
「……善処します」
「うわっ、信用ならねぇな!せめて小松菜だけはちゃんとしてよ?」
そうですね、報連相だけはちゃんと……ん?今なんて言ったこの人。
「……小松菜?って言いました?」
「小松菜。え、知らない?」
小松菜は知っている。ごま油と和風出汁の素で炒めると美味しいあの野菜だ。偶に作っては非番の日の晩酌のお供にしている。……のはどうでもよくて。
「ほうれん草じゃなくて?」
「困ったらなんでも俺に相談、の小松菜」
「っふ、ふふ……ふはっ、ははっ、流石にこじつけが過ぎません?ははっ、んははははっ」
腹を抱えて笑うと目尻に涙が滲む。そんな少しぼやけた世界で、陽さんがむっと唇を突き出して不満そうに睨んでいる。
「イチが俺を馬鹿にしてんのは分かる」
「いや、んふっ、ふふ、馬鹿にはしてないですよ」
「いーや、してるね」
「してないよ。寧ろ陽さんには気付かされることが多くて助かってるよ。ありがとうね」
今日だけは素直に言ってやろうと感謝を口にすると、物凄いものを見るような目で俺を見る陽さん。……誠に遺憾だ。
「……素直なイチこわ」
「なにか?」
「いや、なんでもないよ、なんも言ってない」
「相棒がまた入院ですか……」
「やめて?なんで偶にド脳筋になんの?」
いつもの調子が戻ってきたな、なんて笑いながらふと、こちらも言いたいことがあったなと思い出した。
「陽さん」
「ん?」
「困ったらなんでも聞いてくれるらしい人に、ひとつ相談があるんですけど」
「お、なになに?言ってみ?」
きらきらとおやつを待つ犬のような目をしているが、今回のそもそもの発端をこの人は忘れているのだろう。
「実はですね、相棒が入院レベルの大怪我をしてかーなーり、心配したんですけどね。その人は俺なんかの心配をして、その人の心配を一切させてもらえなかったんですけど、どうしたらいいと思いますか?」
「ん、と……えー……と」
彼の目が泳ぎ始めた。どうやら無茶をした自覚はあったらしくて何より。
「なんでも相談屋の陽さん、でしたっけ。答えをどうぞ」
「その節はご心配をお掛けしました!!ごめん!!!」
気持ちいいくらいに勢いの良い謝罪。素直でよろしい。
「相談が足りないのは陽さんもだって分かった?」
「……うん」
さっきまで飛んでいたきらきらエフェクトは、今はもやもやとしたあのぐちゃっとした感じのものになっている。そんな彼に溜め息をひとつ。
「小松菜はここにも居ますから。怪我する前に全部話してよ」
「え」
「まぁ、陽さん限定ですけど。俺はあなたと違って他の奴らの面倒まで見てやるほど優しくは、ってちょっと!急に絡んで来ないでよ!暑い!重い!!」
「ふふ、俺だけのイチ~」
「待って、それじゃ語弊が」
ぎゃあぎゃあと騒ぐ俺たちのところに、怒り心頭の看護師さんがやって来るまで、あと数秒──。
fin.
